5-1 シャッガイの羽

 忘れたままなら幸せだった。狂ってしまえば気付かずにいられた。

 深淵を覗くとき、自分もまた深淵に見つめ返されると言ったのは誰だったか。まさにそのとおり、失った自分を取り戻したとき、自分自身の罪が見つめ返してきた。

 忘れていたのは記憶だけじゃないらしい。俺はとても簡単なことを忘れていたようだ。

 自分にとっての最悪の敵は、いつだって自分自身だってことを。


◆◆◆◆◆◆


「改めて聞きます。ケースケ先輩、あなたはどうするつもりですか?」


 崩れかけの立体駐車場の地下。八城和葉は、自身が生まれた水槽を見つめ続ける少年に問いかける。ケースケは緩慢な動作で振り返り、暗い瞳を向ける。


「どうもこうもしねえよ。やることは変わらねえ。俺は雨音を助けに行く」


 ケースケは『記憶』を頼りに、部屋の片隅を漁る。涼森螢助としての記憶は完全に蘇っていた。一度蘇った記憶はすんなりと脳に溶け込み、この二日間の記憶喪失による人格形成がなければ、自分が涼森螢助本人であるということに疑問を抱かなかったであろう。


「ショゴスであるあなたでは、風香さんには絶対に勝てない。それはあなたが一番分かっていると思いますが」


 ひどい言葉ではあったが、和葉の言葉は正しい。

 宇宙人『ディープワン』の遺産。ショゴスの神経系に命令を与え、自在に操る技術『銀の操手ショゴス・トゥシャ』。涼森家の先祖が手に入れ、人間が使用できるように改良を施した機械。あれが風香の手にあり、自分がショゴスである限り、勝ち目はない。

 そう、きちんと使いこなすことができるならば。

 ケースケはショゴスを操る風香の様子を思い出して、皮肉めいた笑みを浮かべる。予想外の反応に、和葉が片眉を上げた。


「あぁ、わりぃ。あんた物知りだからな。全部わかってるものだと勘違いしてたぜ。……あんたの言う通りだ。涼森螢助じゃあ、風香には絶対に勝てない」

「なら、どうして?」

「この際、勝ち負けは別だ。俺には、行かなきゃいけない理由が多すぎる。行かない理由もなさすぎる。なら、勝ち目がなくても行かなきゃならんだろ。……あぁ、バカだって言いたいんだろ?わかってるよ。言われ慣れてるからな」

「……バカ」 


 だから、わかってるってと言いながら、ケースケは目当てのものを見つけて回収していく。最後に自家発電機の横に置いてあったポリタンクを引っ張り出して、それを開けた。

 ガソリン特有の鼻を刺す臭いが漂う。中身が十分入っていることを確認し、室内にそれを振りまいて回った。


「……なんでそうまでして、雨音さんを助けたいと思えるんですか?」


 その様子をしばらく黙っていた和葉だったが、ぽつりとつぶやくように尋ねた。


「だって、あの人を助ける価値なんてないでしょう?」


 ぴたりと作業を止め、ケースケは怒気のこもった瞳で和葉を睨みつける。少女は気圧されたように視線を逸らし、我が身を抱いたが、声を震わせながらも話を止めなかった。


「気を悪くさせたのなら、ごめんなさい。でも、記憶を取り戻したのならわかるはずです。雨音さんは、あなたの起源である涼森螢助を心の底から憎んでいた。記憶を取り戻す前ならともかく、記憶を取り戻した後のあなたにいい感情を抱くとは思えません。仮に雨音さんを救えたとして、彼女があなたに感謝すると思いますか?」

「それは……」


 無理だろうと、ケースケは思う。

 涼森螢助と同じ姿と記憶を持つ自分は、彼女の隣に立つのにふさわしい存在ではない。雨音の救出に成功しようが失敗しようが、雨音に憎まれることは間違いない。

 なるほど、雨音に対して下心を持っているのだとしたら、彼女の救出は、確かに無意味で無価値だ。どんな結末にせよ、二人が結ばれてハッピーエンドなんてありえない。


「こんなことを言うとひどいと思われるかもしれませんけど、すべてをなかったことにして、新しい人生を歩むという手もあるじゃないでしょうか?先輩にとっては、それが一番幸せな選択のはずです」

「……そりゃ、さすがに無理だろ。頭の悪い俺でもわかる」


 ちらとも頭をよぎらなかったわけではない。それが可能であれば、ケースケだってさすがに少しは迷う。だが、現実問題として、それは選べない道だ。


「白兎が言ってたろ?今回の件で、涼森家は終わりだ。特災が事件解決に動き出した以上、『涼森螢助』の戸籍を持つ人間もショゴスも皆殺しで、どうあがいたって逃げることはできない。……つまり、俺が死ぬことは確定してるわけだ」


 和葉が少し驚いた顔をする。知的なことを話していることが意外だったのだろう。

 実際、ケースケの発言は考えた末のものではなく、『涼森螢助』の知識による影響が大きい。頭の回転が鈍くても、取り戻した記憶だけで十分に立てられる推測だ。

 つまるところ、ショゴスであるケースケに未来はないという事実は、神話科学に関わる人間ならば、子どもにだってわかる決定事項だということだ。


「なら、あとは命の使い方だ。どこの誰とも知れない奴に殺されるくらいなら俺は――」


 雨音のために死にたいと言いかけ、自らの心の汚さに気付き、言葉が詰まる。

 自分は雨音を救いたいのではない。雨音を救うことで罪を償ったつもりになり、その上で死にたいのだということに気付いてしまったのだ。自らの死に場所を求めるために、雨音をだしに使っていたことに自己嫌悪を覚える。


「……あまり自暴自棄にならないでください。せっかく存在する選択肢を無視されたら、それこそ雨音さんも浮ばれません」

「……選択肢?」


 和葉は白兎から渡された封筒の中からカードや書類の束を取り出すと、ケースケに差し出し、読んでみろと顎で指す。ケースケは訝しみながらも、それらに目を通す。

 書類は戸籍台帳を始めとする身分証明書の数々だった。書いてあるのは知らない名前だったが、顔写真だけは涼森螢助のものと同一だった。


「これは?」

「ケースケくんの新しい戸籍です。雨音さんに頼まれました。住所や学校への編入、一人でも生活できるように、職の斡旋先も用意してあります」

「……は?」


 言われた意味が分からず、間抜けな顔をしてしまう。こんなものが事前に用意されていたことが、そして、それを依頼したのが雨音であることが何より信じられなかった。


「白兎さんの仕事は信頼できますので、内容については心配ありません。あの人は完璧主義者ですから。私には特殊な人脈があると言ったでしょう?だから、こういう斡旋業務は慣れているんです」

「いや、すまん。事情が理解できないんだが……」

「それが、雨音さんからの依頼です。自分に何かあったとき、あなたに真実のすべてを教え、新しい戸籍を与えてやってくれと。ケースケさんの選択肢を増やすために」

「な……」


 ある意味、記憶を思い出した以上の衝撃だった。雨音からすれば、ケースケは両親を殺した男の生まれ変わりのようなものだ。憎みこそすれ、助けることに意義はない。雨音にとって、自分は風香を誘き寄せるための餌にすぎないというのが、ケースケの認識だった。

 だが、雨音がケースケに対して施したものは、明らかに憎しみに類するものではない。ゆえに、ケースケには雨音の行動の意味がわからなかった。


「一応言っておきますが、どうして雨音さんがそんな依頼をしたかを、私は聞いていません。想像を語ることはできますが、真実は本人に聞かなければわからないでしょう」

「いや、報酬っつっても、相場は知らんが安くはないだろ?両親を失って、身一つでこの街に来た雨音は、メシ代だってケチるような身分だったんだぜ?どうして――」


 言いかけて、とてつもなく嫌な予感が思い浮かんだ。

 思えば、違和感はいくつもあった。一つ一つは小さなもので無視できたし、ましてそれらを結びつけるなどということは考えつきもしなかった。

 だが、一度思いついてしまった考えを覆すことなど、できそうもなかった。ケースケは一つ息を飲むと、外れていてくれという願いを胸に、思いついたことを口にする。


「羽、か?」

「…………」


 返事はなかった。和葉の表情が、ひどく苦しげなものに変わって、顔をうつむかせただけ。だが、それこそが自分の考えが正しいことであるという証明でもあった。


「雨音は、代償として、自分の羽を切り落としたんだな?シャッガイの説明をするとき、あんたはそれを俺に見せた。あの時、雨音がうつ伏せで寝てたのは背中に羽の傷があったから。今日襲われたとき、空を飛んで逃げなかったのは羽がなかったからだ」

「……はい、そのとおりです」


 気づけばケースケは和葉の胸倉を掴み、壁に叩きつけていた。みしりと音がして和葉が苦しそうな声をあげたが、頭に血が上った少年は、手を緩めようという気にならなかった。


「てめえって奴は!!」

「……誤解、しないで、くだ、さい。提案をしたのは、私ではなく、雨音さん、です。あの人は、私が、返事をする前に、自分で羽をもぎ取って、渡して、きまし、た。私には、断る、選択肢も、与えられなかった」

「っ……」


 なにか罵声を浴びせてやろうとして、できなかった。

 雨音のことに関して、自分が何か文句を言えるような立場ではない。なにより、和葉はなにか悪いことをしているわけではないのだ。むしろ、雨音がいなくなった今でも契約を遂行しようとしている和葉は、極めて誠実な対応を行っている。

 結局、ケースケは何も言えず、和葉から手を離し、項垂れるしかなかった。解放された和葉が苦しそうに何度も咳きこむ。

 なぜ、雨音は自らの羽を斬り落してまでして、このようなことをしたのか、ケースケの疑問に答えられる人間はここにはいなかった。

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