0-2 炎からの脱出?

「ああああああああああああああああああああああ!!」


 咄嗟に少年は少女を庇うように覆いかぶさり、その身に炎と瓦礫を受けることになる。

 背中と顔の左半面から感じる熱は、もはや熱ではなく痛みそのものだった。不幸中の幸いで瓦礫自体は小さいものだったが、ガソリンがついていたのか、少年に燃え移った火はなかなか消えてくれなかった。

 まだバラバラと炎が降ってきており、少女の傍から離れるわけにはいかない。少年は背中と顔に火をつけたまま、少女の足を挟んでいる瓦礫にもう一度手をかける。天井が崩れたことで支えがとれたのか、少しだけ持ち上がり、少女の足が解放された。


「あちいいいいいいいいいいいい!!っつぅか、いてぇええええええええええ!!」


 少女を引っ張り出して安全な場所まで運ぶと、少年は床に転がって痛みに悶える。意識した行動ではなかったが、床を転がることで火は消え、それ以上の延焼は防ぐことができた。だが、少年の顔と背中には無残な火傷が残ってしまった。


「あああぁぁぁ、くっそいてぇな、おい!つばつけりゃ治るか!?知るか!」


 誰に対して尋ねて、誰に対して答えているかわからない文句を言いながら、意外と元気そうな少年は痛みを紛らわすように地団太を踏む。

 そんな少年の耳に、かすれるような声が届いた。


「なん、で?」

「ん?……あ?」


 少女はぐったりした様子で体を起こすこともできなさそうだが、少し意識が戻ってきたようだ。先刻よりは瞳に力があった。

 うわ言のように尋ねる少女の疑問に、少年はどう答えたものかと首をひねる。

 なんでこんな状況になっているのか、なんでそこまでして自分を助けたのか。どちらの意味ともとれる問いだ。どちらにせよ、自分の名前すら思い出せないのに、少女の質問にまともに答えることなどできるはずもない。


「……あー、もう大丈夫だ。いろいろやばい状況だが、もうすぐ助けが来る。助けが来そうになくても、俺が担いで行ってやるから安心しろ」


 結局、返せたのは、そんな曖昧な返答だった。

 少女は、そんな少年のごまかしを見抜くようにじっと見つめていたが、ふと視線を少年の背後へと移すと、目を鋭くさせる。何かを報せるように少年の手を弱々しく握り返し、擦り減った体力を奮い立たせて掠れた声を上げる。


「火が……」

「あ?」


 少女の視線をたどって振り返ると、炎が先刻よりも広がっていた。もはや足の踏み場もないほどに地面を炎が舐め、少なくない時間でこの場も炎に包まれることは明白だった。


「くっそ、やべえな」


 少年は、少女を抱き上げると、急いで出口を求めて走る。

 線が細く、まだ少女であるとはいえ、人間一人を抱え上げて走るのは重労働だ。少年は火事場の馬鹿力でなんとかやり遂げたが、下階に繋がる階段は瓦礫で塞がっていた。


「……まじかよ」


 視線を巡らせれば、上の方に人一人通れるくらいの穴は空いている。しかし、少女を抱えてそこを通ることは不可能だ。

 ふと、少年の脳裏に、少女を見捨てていく選択肢が浮かぶ。自分一人ならあそこから脱出することは不可能じゃないはずだ。なんとか外まで逃げて、消防隊員に助けを求めれば、彼女を救うことだってできるなどと自分に言い訳する。

 少年は、ぼんやりとした瞳で見つめてくる少女を見やり、ほんの数瞬思考してから、大きく息を吸い込んで覚悟を決める。


「そろそろ煙に包まれる。今のうちにきっちり呼吸しておけ」


 彼は少女を抱えたまま、外の見える窓のほうへと足を向ける。救助が来るなら、窓からだろうと思ったからだ。窓際まで到達する頃には、少女を見捨てようなんて考えは微塵も残っていなかった。

 少女が咳き込む。窓のそばは幾分空気が綺麗だが、煙の量が多すぎる。救助はまだかと窓の外を見ようとした少年の肩がぎゅっと握られた。


「後ろっ!」


 満身創痍であるにも関わらずに発せられた少女の鬼気迫る叫び。

 何事かと思って背後を見るが、炎と煙で視界は優れない。煙の隙間から、ゆらゆらと揺れる玉虫色のきらめきが覗くのが見えただけだった。


「っ!!」


 炎の中から、少年に向かって何かが飛び出してくる。

 少年の動体視力では、それが何かすらわからなかった。少女が最後の力を振り絞って少年の体を押し、炎から飛び出した何かが少年にぶつかるのを回避する。

 自分に向かって飛んできた物が何かを確認したかったが、少年にそれはできなかった。

 想像してほしい。少年は煙から逃げるために窓際にいた。少女を抱えていたので、バランスが不安定だった。建物側から何かが飛んできて、かわすために少女に押された。

 だからまぁ、窓から身を投げ出す形になったのはある意味自然な結果であった。


「いいいいいいいいいいいいいいいいっ!?」


 人間とは思えないような叫び声を上げながら、少女を抱えた少年が自由落下する。

 眼下には、こちらを見上げる大勢の野次馬に、赤いテールランプの車両が3・4台確認できた。誰もが崩壊寸前の立体駐車場を、不安一割・好奇心九割で見上げる中、少年が窓から飛び出した瞬間を目撃した者も大勢いた。

 叫び声を上げる者、携帯を向けて撮影する者、何が起こったかわからずにぽかんとする者たちが見守る中、少年は浮遊感に顔を青くさせた。

 ……ちなみに、少年たちがいたのは5階だったようだ。真下はコンクリート。どう足掻こうとも結果が見えているし、そもそも空中では足掻くことすらできない。


「くっそ、ふっざけんなああああああああああああ!!??」


 人は死ぬ時に走馬灯が頭によぎるというが、記憶喪失の少年の頭に浮かぶものはなく、真っ白に塗り固められた思考だけがあった。風が頬を切る冷たさと抱きしめた少女の温もりだけが、妙にはっきり感じられた。

 腕の中に生きている少女がいるという思いが少年を奮い立たせ、自分の身体が下に来るように、空中でとっさに位置を入れ替える。

 明確な意志を持ってとった行動ではない。落下の時間など数秒にも満たず、考えている時間などなかったのだから。ならば、とっさに少女を庇うような行動に出たのは、少年が元から持つ気質からであろう。少女が僅かに身じろぎしたのを包み込むようにし、これから起こる凄惨な結末を予想し、目を閉じる。

 だが、運命は少年が予想したのと違う結末を用意した。……飛び降りた直後、立体駐車場が爆発したのだ。

 空中で衝撃波を受けた少年と少女は、爆風に軽く10mは吹き飛ばされた。

 面白半分で見ていた野次馬たちは瓦礫の雨の洗礼を受け、あたりは突如、阿鼻叫喚の様子へと変わる。野次馬たちに下がるように言う消防隊員たちの言葉が、パニックを起こした群衆に届くのは当分先のことになるだろう。

 一方、吹き飛ばされた少年と少女は、その先にあった街路樹に身体を叩きつけられる。葉や枝が緩衝材の役割を果たしたが、それで衝撃が全て防げるわけもなく、少年は背中を強打してしまった。背中から伝わる運動エネルギーが内臓をシェイクし、ぐちゃぐちゃになってあふれ出した体液が口から零れ出る。

 少年の苦難はそれでは終わらず、街路樹の頂点から地面へと枝葉を掻き分けながら落下していく。まだ意識があったことは幸か不幸か、背中から落下することが――少女を抱きしめたまま、自分自身をクッションとすることができた。

 地面から見上げた空は、赤く染め上げられていた。

 スフィアの影響で空は昼夜問わず緑色。赤く見えるのは、自らの血で眼球が赤く染まったからに他ならない。少年の肉体はもはやぴくりとも動かず、痛みすらも感じず、ただ眼球から送られてくる映像を脳が機械的に受け取っているだけだった。


「どうして……」


 少年の視界に、少女らしい影が写りこむ。眠りに落ちるように視界が歪み始め、それが自分の助けた少女なのかどうかを、ただ予想することしかできなかったが、少年の脳はその影が彼女だと確信する。

 ただ一言。最後に一言くらい、少女に残そうと唇を動かす。


「……うるせぇ、知るか」


 きちんと言葉にできたかはわからない。舌と唇がうまく動いてくれなかったから。だが、最後の力でそれだけ口にし、少年の意識は闇に落ちて行く。


「……っ!?……っ!?」


 誰かが叫んでいる気がしたが、少年の耳にはもう届いていなかった。眠りに落ちるように、少年の身体から徐々に力が抜けていく。

 だがしかし、そんな中――


「……リ!……リ・リ!」


 ただ一つ、嘲るような奇妙な鳴き声が、岩の隙間から流れ込む水のように少年の聴覚に沁みこんできた。

 何故かとても懐かしいその不思議な声に誘われ、失われた記憶の扉が開ききる前に少年の思考は灰色の靄に沈んだ――。

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