序章
0-1 燃える駐車場
「うっ……」
胃から咽喉に一気に駆け上がる酸っぱい液と入れ替わりに、鼻腔から容赦なく侵入した刺激臭が、少年の意識を覚醒させる。
朦朧とした頭をゆっくり振ってコンクリートのベッドから起き上がると、少年の体に乗っていた小さな瓦礫がパラパラと軽快な音を鳴らす。
壁という壁にエメンタルチーズのごとく穴があき、重機に破壊されたかのようにめちゃくちゃな状態の車が何台も転がっている。破壊された車から燃料が漏れたのか、方々から火の手が上がり、充満していた煙を吸ってしまった少年は噎せて何度も咳をする。
誰が知ろう。この錚々たる惨状の建物が、ほんの一時間前まで、ごく普通の立体駐車場として機能していたということを。
「なんだよ、これ……」
誰もが思うであろう疑問を、目を覚ましたばかりの少年も当然のように抱く。
しかし、それは奇妙なことだ。彼はこの場にいた人間であり、ここで何が起きたかは、記憶を辿ればすぐに行き着くはずの答え。自分自身でその矛盾に気づき、さらに困惑することになる。
――思い出せない。
自分が何者であり、どうしてこんなところにいて、なぜこのような状況に陥っているのか。まるで思い出せなかった。
室内は瓦礫と炎にまみれているが、大きな怪我はしていない。しかし、化物の腹の中に一人取り残されたかのような悲痛と焦燥が、少年の胸を蝕んだ。不安から逃れるように、少年は声を上げながら、廃墟の中を歩き始める。
「おい!誰か、いないのか!?」
声に応える者はいない。だが、火が爆ぜる音にまぎれ、外からの喧騒が聞こえてくることに少年は気づいた。野次馬のものらしき雑多なざわめきに、消防隊員たちの呼びかけ。
近くの窓に目を向ければ、スフィアの緑に赤いテールランプの色が混じっていることに気づく。よくよく耳を澄ませば、消防車や救急車のサイレンも聞こえる。火災に気づいた人々がすぐそこまで集まってきていることを少年は察した。
救助が来るという事実と自分以外の人間の気配に安堵し、気の抜けた少年はその場に膝をつく。なぜか、泥の中にいるように身体が重く、気だるかった。地面に着いた手が、ぴちゃりと音を立てる。
「……あー?」
間の抜けた声を上げながら、濡れた手を見つめる。――その水は、赤かった。
赤く染まった手から錆びた鉄のような匂いが香る。そこでようやく少年はそれが水ではないということに気づいた。
「これ、血か?」
明らかに致死量を超える量の血液。出所に目を向けると、巨大なコンクリート塊の下から、人の腕だけが覗いているを見つけた。コンクリート塊は明らかに持ち上げられる大きさではなく、地面との間にできた隙間は明らかに人が入れる広さではない。そこから出ているピクリとも動かない腕と大量の血液から、その下に何があるかは容易に想像できた。
少年の意識を覚醒させた刺激臭のせいで気づかなかったが、血液特有の鉄臭い匂いは部屋中から漂っていた。よくよく見渡してみれば、赤黒い液体がにじみ出している場所はそこかしこに存在していた。炎の中にも、もう動かなくなった黒い人影がちらついている。
考えてみれば当たり前のこと。ここで何が起きたのかは未だ判然としないが、大きな事故か何かが起きたことは間違いない。そして、立体駐車場というのは車と人が行きかう場所だ。自分がそうであったように、巻き込まれた人間が他にいて当然ではないか。
「うぐっ……」
すぐ近くにあった死体と目が合う。光の宿っていない瞳に見つめられ、少年は気分が悪くなって口元を抑えた。
「……くそが。おい、誰か……誰でもいい!誰かいないのか!?」
大人しく待っていれば、外から救助が来るだろうが、少年はいてもたってもいられなくて、大声を上げながら室内を探索し始める。
誰かを助けるためのその叫びは、まるで自分自身が助けを求めているかのような必死さが込められていた。これ以上煙を吸い込まないようにシャツの裾で口を押さえ、壊れた機械のように覚束無い足取りで進む。しかし、少年の声に、答える者はいなかった。
生き残った者はいない。
その事実は、少年に深い喪失感を与え、再び膝を付きそうになる。しかし、立ち止まってはいられない。火の手はますます強くなっており、目もまともに開けていられないほどになっている。
このままのんびり救助を待ってはいられない。すぐにでも脱出しなければ、自分もここに転がっている死体たちの仲間入りすることになる。
だが、そう決断した直後、少年の背後から微かな音が響いた。何かが崩れたのだろうかと思って振り返った少年の瞳に、壁に寄りかかるようにして倒れている少女が映る。
少女はかすかに身じろぎして、呼吸をしているように見えた。
少年は火や瓦礫を避けながらも急いで駆け寄り、少女の様子を見る。頭から一筋の血が流れしてぐったりしているのは心配だが、四肢はきちんと繋がっているし、ところどころ破けている服の隙間からは、大きな怪我も見当たらない。
少女の手を取り、脈を取る。
とくん、とくん、と小さく響く生命の脈動。それを感じ取った少年は、深い安堵の息を吐いた。握った手を、自分の額に持って行き、祈るように目をつむった。
「よかった。……生きてた」
その声を聞きとったのか否か、少女がうっすらと目を開けた。
美しい少女だった。瓦礫と埃で全身が汚れていたが、そんなもので少女の美しさがいささかも損なわれることはなかった。
シルクように流麗な黒髪は、片目を隠すように伸ばされ、長い部分は腰辺りまであり、思わず触りたくなるような色艶があった。色白できめ細かな肌は、茶色よりも赤に近い瞳を際立たせており、儚げな中にも燃える意志を持つことを印象付けた。
しばし少女に見惚れていた少年だったが、危急の事態に気付く。少女の片足が瓦礫に挟まっていたのだ。骨折や脱臼の様子はないが、何かに引っ掛かっているのか簡単には抜けそうにない。救助を待とうにも、火の手はそこまで迫ってきていた。
「逃げ、て」
鈴の音が鳴るような声が少年にそう告げた。
空をさまよっていた深紅の瞳が、少女の手を握っていた少年をとらえている。頭を打っているせいか、その声音ははっきりせず、視線も定まっていない。ぼんやりとした瞳で、現状を把握できているかどうかも怪しい様子だ。
「……できるわけねえだろ、バカ」
少女の手を離し、瓦礫に手をかける。どうにかして動かそうと力を込めてみるが、ぴくりとも動かない。素手では持ち上げられそうになかった。
何か道具はないかと周囲を見回そうとした時、天井がピキリと不吉な音を立てる。
嫌な予感がして上を見上げると、案の定、天井が崩れかけており、火の粉と瓦礫がぱらぱらと落ちてきていた。まずいと思って焦る少年を急き立てるように、一際大きな音とともに天井の亀裂が広がる。
「やば――」
深く考える時間もなく、天井が崩れて炎を纏った瓦礫が落ちてくる。足を挟まれて身動きの取れない少女に炎の雨が降り注いだ。
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