4-1 雨音の依頼

 ケースケが『宇宙人の科学館』に戻ってきたのは、もう陽が沈みかけている頃合だった。

 ここまでどこをどうやって戻ってきたのか、記憶にない。幽鬼のような状態のケースケが科学館にたどり着けたのはある種の奇跡だったろう。頭に浮かぶのは、自分を逃がすために犠牲になった雨音の姿だけ。彼女の最後の姿がケースケの網膜に焼きついていた。


「う、あぁ……」


 雨音を見捨てて、逃げた。その罪の意識から、ケースケはその場に崩れ落ちそうになる。

 実際のところ、あの場でケースケにできたことなど一つもなかっただろう。だが、あの状況を作り出した原因は自分であり、ただ逃げるしかなかった現実は、彼の両肩に重くのしかかった。すべてを風香のせいにして自分の言い訳にすることはできたかもしれないが、それをするにはケースケはいささか誠実で、自分に素直すぎた。

 無力感に打ちのめされたケースケは、おぼつかない足取りで科学館の扉を潜る。扉の彫刻が、彼を冷たく見下ろし、無力な自分を嘲笑っているようにケースケは感じた。

 和葉は、入ってすぐの受付に座って、例の革装丁の本を読んでいた。彼女自身が受付席にいる様子を見ると、アルバイトはいないのかもしれない。相変わらず客の姿が見えないところからすると、そもそも誰かを雇うような金銭的余裕がないのかもしれない。

 扉が開く音で顔を上げた和葉は、本を閉じてケースケの方に体を向ける。


「お帰りなさい。……ひどい顔をしていますね」


 言われ、ケースケは顔に手を当ててみるが、あるのは包帯の感触だけだ。きっと、和葉は外見ではなく、精神面を言ったのだろう。心がひどく荒んでいるということは自覚していた。包帯の上からでもそれがわかるほどケースケはうなだれていたようだ。

 雨音のこと、記憶のこと、風香のこと。気にかけるべき出来事はあまりに多く、それなのにただの一つも答えを導き出せていない。何かをしなければならないと感じていても、どうすればいいのかがわからないという焦りが心の中を占める。

 ただ一つ、絶対にやらなければいけないことがあるとすれば、それは和葉に話を聞くこと。雨音が最後の最後にケースケに告げたことだ。ぐちゃぐちゃになって何をすればいいのかわからない心情の中、頼れるものはもはやその言葉しかなかった。


「……雨音が、ショゴスに殺された。ショゴス使いの正体は風香で、俺が風香に会いに行ったせいで、雨音はやられちまったんだ」


 あまりうまく説明はできなかったが、その短い言葉で、和葉はすべてを察したようだ。小さくうなずくと、受付の椅子を引き、ケースケを導いた。


「まずは落ち着いてください。あなたは無理矢理にでも、心を休める必要があります」


 和葉は入口まで行き、科学館の立て札を閉館に変える。その後、受付に備え付けていたコーヒーメーカーで二人分のコーヒーを用意してから、ようやく席に座った。

 だが、当事者であるケースケは、いささかも休む気になれなかった。カップを手にするも口はつけず、話を急かすように和葉を見る。


「知ってたのか?風香がショゴス使いだっていうこと」

「……涼森家は、戦前からショゴスの品種改良研究を行なってきた家系で、布槌の研究者Chaserで知らない人はいません。神話生物研究に特許は適用されませんので、研究成果を一族の秘伝とすることは珍しいことではないんです。人間でも操作可能なように改良されたショゴスは引く手数多なので、富豪に売りつけてひと財産築き上げたとか」


 あっさりと告げられた衝撃の事実に、ケースケは目眩を覚え、頭を抱える。その様子を見て、黙っていたことに罪悪感を受けた和葉の顔が曇る。


「生憎、私は生きたショゴスなんて持っていないので、噂で聞いた程度ですけどね。便利そうではあるんですけど、品種改良が施されたショゴスは値段が張りますから」

「雨音も知ってたのか?」

「もちろん。先輩が記憶を取り戻すまでは、このことは黙っていようと提案したのはあの人ですから。病院を襲ったのが風香さんであることも……察してはいたでしょう」

「……そのことがよくわからない。俺と風香は兄妹なのに、なんで風香は俺を襲ったんだ?死にかけたっていうか、雨音や和葉がいなかったら、確実に死んでたぞ」

「ケースケ先輩を襲ったというより、雨音さんを襲ったんでしょうね。先輩を狙うつもりなら、わざわざ人目につく危険を冒してまで襲う必要はありません。記憶喪失のケースケ先輩は、遅かれ早かれ自分から彼女に会いに行ったでしょうから。巻き添えを恐れなかったのは……そうそう死なないだろうと思ったか、死んでもいいと思っていたか、でしょうね。そのあたりは推測が入るので、断言はできません」


 実際、ケースケは風香を信用できる人間と勘違いして会いに行ったのだから、その推測は的外れではない。その結果、まんまと騙され、雨音を釣るための餌として使われたのだ。


「……風香は、どうして雨音を狙ったんだ?」

「理由は二つあります。一つ目は自衛のため。雨音さんには先輩や風香ちゃんの命を狙う理由があり、事実、あの人は二人を殺すつもりでいました」

「…………は?」


 雨音が自分を殺す気だったと聞かされ、ケースケは間の抜けた声を出してしまう。だが、同時に少しだけ納得がいった。

 思い出すのは、布槌総合病院の病室で、夜中に雨音にのしかかられた時のことだ。

 あの時、雨音がケースケに向けていた殺意は本物だった。喉元に当てられた針は脅しではなく、雨音の気分次第ではケースケの喉を貫いていただろう。動機はさておき、雨音がケースケを殺そうとしていたことは事実なのだろう。


「雨音が俺を殺したがる理由ってなんだ?」

「雨音さんがシャッガイであるように、彼女のご両親もシャッガイです。そして、涼森兄妹は実験材料として、シャッガイを欲していました。彼女の家族は運悪く目をつけられてしまったんです。ご両親は雨音さんを逃がすために盾となり、彼女だけが助かりました」

「……雨音が俺や風香の命を狙った目的は、両親の救出ってことか?」

「いいえ」


 和葉は、ゆっくりと首を振る。


「目的は救出ではなく、復讐です。雨音さんがご両親の行方を追ってこの街に辿り着いた時にはもう、ご両親は螢助先輩の手にかかり、亡くなっていましたから」


 ケースケは天を仰ぎたい気分になった。すべて嘘だと……自分が記憶喪失であることにつけこんだ嘘っぱちだと言ってやりたかった。

 だが、和葉が嘘を吐く理由などない。大罪人と罵られてもおかしくない話と自らの罪を思い出すこともできない罪悪感から、ケースケは心臓が握られるような気持ちだった。


「つまり、雨音が俺を助けたのも、優しく接してくれたのも……だけど、決して目を離そうとしなかったのも、風香を釣るための餌として俺を使うためか」


 ケースケは、ようやく自分の役割を理解した。

 自分が風香の兄であるというのは事実なのだろう。そのことについては、奇妙な確信があった。雨音はケースケが記憶喪失であることを知り、風香を誘き寄せるための餌として使うことに決めたのだろう。兄妹を一カ所に集め、復讐を遂げるために。

 ケースケは、自分の道化ぶりに苦笑を浮かべる。真実をなかなか教えてもらえないはずだ。自分の記憶が戻れば、雨音にとっては障害にしかなりえないのだから。

 雨音は、一体どういう気持ちでケースケに笑顔を向けていたのだろう。

 ケースケの中に、雨音に対する怒りはなかった。雨音の復讐心には同調できる部分が多く、それが自分に向けられるのは自業自得だ。恨むことなどできるはずもなかった。

 ただ、雨音が自分に向けた笑顔が本物でなかったことが、なにより悲しかった。


「……一部は正しいだと思います。そういう気持ちがまったくなかったわけではないでしょうし、どのような形であれ、風香さんとは決着をつけるつもりだったでしょうから」


 和葉は否定も肯定もしなかった。ケースケは、虚ろな瞳で、話の続きを促した。


「風香が雨音を狙うもう一つの理由はなんだ?」

「先刻話した通り、涼森家が行っている神話生物研究は、ショゴスの品種改良です。雨音さんは……正確にはシャッガイはその原料になるそうです。雨音さんのご両親を捕らえたのものそのため。ご両親は、新種のショゴスを作るための実験材料にされたんです」

「…………は?」


 あまりにおぞましい内容を、いとも平然と言ってのけることにケースケは呆然となる。本当にここは法治国家なのだろうか?


「そんなこと、許されるわけがないだろ!?そいつはつまり、人間を材料にして、怪物を作るってことだろ!?警察……そうだ、警察だ!警察はどうしてるんだよ!?」

「そうですね。隠しきれないほどの事件を起こした以上、警察は動くでしょう。神話生物の存在は一般人に対して隠しているだけで、政府はそのことを知っていますし、神話生物事件専門の部署もあります。でも、彼らは決して雨音さんを助けてくれないでしょう」

「はぁ?どうしてだよ?雨音は明らかに被害者じゃねえか。どうして、警察は雨音を助けないなんて言えるんだよ」

「雨音さんは人間じゃないからです」


 当然のことのように告げる和葉に、ケースケは絶句した。


「確かに人間じゃないかもしれないが、あいつは……」

「はい。雨音さんは理由もなく人間を襲ったりしないし、食べたりもしない。だけど、危険生物であることには変わりないんです。先輩は彼女を人間として見過ぎているんです。警察は人間社会の守護者であって、怪物の護り手ではありません」


 人間として見過ぎている。確かに、和葉の言う通りなのかもしれないとケースケは思う。

 冷静に考えるならば、雨音は人間とはかけ離れた昆虫人間であり、その気になれば人間を大量虐殺できる力を持っている点はショゴスと変わらない。


「本人に人間を傷つける意思があるかどうかは重要な問題ではありません。ライオンに人間を傷つけないような調教を施したからといって、ライオンが人間になるわけではないでしょう?まして、危険を冒してまで、そのライオンを守るような行動には出ません」

「そん、な、でも、あいつは……」


 思い出すのは、バーガーショップでの雨音との対話。

『私は怪物だと思いますか?それとも、人間だと思いますか?』

 諦観の入り混じった複雑な感情の問い。

 思えば、無責任な答えを返してしまったものだ。ケースケの返答で現実が変わるわけではなく、彼女が周囲から怪物だと認識されているというのが事実であるというのに。

 そこまで考えて、ケースケはふと和葉の言葉に引っかかりを感じた。


「……おい、待て。あんた、先刻から、雨音が生きてる前提で話してないか?俺は雨音が何本もの触手で貫かれるのを見た。あれは確実に致命傷だったはずだ」

「普通の人間なら、確かに。ですが、シャッガイは体が強固だし、なにより風香さんが死なないように手を尽くすと思います。死体を使うより生きた個体を使うほうが用途が広いですから、少なくともすぐに殺すということはないでしょう」

「なら、雨音を助けられるんだな!?」

「……先走り過ぎです。助けるなんて簡単に言いますが、どうやって助けるつもりですか?人間がショゴスに立ち向かうことが、いかに無謀であるかはわかっているでしょう?」


 それは事実だったが、雨音を助けられるかもしれないという話に、ケースケは目に炎を取り戻した。彼はかつてないほどに必死に頭を巡らせ、考えを口にする。


「俺は、ショゴスの研究家だったんだよな?風香と同じで」

「……そうですね。そうなります」

「なら、記憶さえ取り戻せば、ショゴスの弱点がわかるんじゃねえか?……いや、戦う必要すらないかもしれない。記憶を取り戻せば、交渉の材料が手に入るはずだ」


 自分が考えた作戦の割には、悪くない案だとケースケは感じた。少なくとも正面切って戦うよりは遙かに勝機があるはずだ。

 だが、和葉はそう思わなかったのか、黙って首を振る。


「確かに、雨音さんを救うことを目標にするなら、一番可能性がある手段でしょう。けど、一つ問題があります。……先輩は、本当に記憶を取り戻してもいいんですか?」

「……それは」


 もちろんだ、とは言えなかった。今のケースケには、かつてほど記憶を取り戻したいという気持ちはなくなっていた。むしろ、記憶が戻ることに恐怖すら感じている。

 なぜなら、和葉の言葉を真実と捉えるなら、本来の涼森螢助は、雨音の両親を捕らえ、人体実験に使うような外道だからだ。自分の知らないところで、自分の知らない自分が、どれほどの罪を重ねてきたのかと思うと、思い出すことが怖い。

 思い出したが最後、『記憶喪失のケースケ』という人格が消え、『本来の涼森螢助』に戻ってしまうのではないかと思った。『記憶喪失のケースケ』が雨音を助けたいという思いは本物だ。だがしかし、記憶を取り戻し、『本来の涼森螢助』に戻った時、変わらず、その思いを持ち続けることができるかどうか彼にはわからなかった。

 人格というものは、記憶に引っ張られるものだという。記憶を取り戻した時、今のケースケと記憶を取り戻したケースケが同じ人格であるという保証はない。

 だが、それでも、とケースケは思う。


「『今の俺』には、雨音しかいないんだよ」


 記憶を取り戻した時のことは、取り戻した時に考えればいい。今の自分にとって、最も大切なものは何かを考えたとき、心に浮かびあがるのは、ただ一人の女性の顔だけだった。


「記憶喪失の俺に、笑いかけ、助けてくれたのは雨音だ。あいつの笑顔は偽物だったのかもしれない。心は憎しみにあふれ、俺を嫌悪していたかもしれない。それでも、俺は雨音を助けたい。そのために必要なことなら、どんなことだってやってやるさ」


 そう言って、ケースケは和葉を見つめ返す。不安や恐怖はあったが、迷いはなかった。

 その真剣な瞳に気圧されたのか、和葉は少し顔を赤面させ、自分を視線から庇うように本を持ちあげ、顔を隠す。本の裏で、和葉は大きくため息を吐いた。


「そんな恥ずかしいセリフ、よく言えますね。聞いているこっちが赤面しそうです」

「うっせえよ。それに、別にかっこつけてるわけじゃねえ。記憶を取り戻さずに、もっと楽に雨音を助けることができるなら、俺は迷わずそっちを選ぶ」

「賢明ですね。念のため言っておきますが、私は力を貸すつもりはありません。私がこうして先輩に真実を話しているのは、それが雨音さんからの依頼だからです」

「雨音からの依頼?なんのことだ?」


 ケースケは二人の関係を、友人とか親戚とかそういう関係だと思っていたのだが、今までの会話の内容からして、そうではなさそうだと感じていた。雨音が危機的状況であることを知っても焦った様子を見せないところから、もっとドライな関係のように思える。


「雨音さんと私は雇用被雇用関係にあります。私は涼森家と違って、神話生物研究家の家系ではありませんし、研究実績も皆無ですが、少し特殊な人脈があります。雨音さんとは一か月前に知り合って、ご両親をさらった人物とその拠点の調査を依頼されました」

「……あぁ、なるほど」


 そういえば、雨音は元々この町の出身ではなく、復讐のために他の街からやってきたのだったとケースケは思い出した。アウェイで情報を集めることになるのだから、当然情報収集のための情報屋が必要になってくる。それが、この和葉だったということだ。


「先輩への事情説明は……サービスです。貰った報酬が相場より多かったですから。でも、報酬分を上回るような仕事をする気はないですし、その実力もありません」

「……なるほどな。思った以上に浅い関係だったんだな、おまえら。仲がよさそうだったから、もっと個人的な知り合いだと思ってたぜ」

「私はそこまで親しくしているつもりはありませんでした。雨音さんの方が、初対面の人でも親切に接する人だったというだけです」

「……そうか。そうだな」


 ケースケは、雨音救出に和葉の力を借りるのは極めて難しそうだと断念した。報酬を支払えば手を貸してくれるかもしれないが、記憶喪失で所持金もないケースケには、和葉を雇うだけの代償は支払えそうになかった。


「日が落ちましたね」


 悩むケースケの耳に、ぽつりと和葉のつぶやきが届く。

 ケースケが窓に目を向けると、和葉の言う通り、外が暗くなっていた。鮮やかな緑の空は消え、夜空にスフィアのオーロラが浮かぶ。思ったよりも話しこんでいたようだ。夜の帳が訪れ、人工の光が家々を照らし始めている。

 和葉が席から立ち上がる。持っていた本を小脇に抱えると、そのまま外へと向かった。


「どこに行くんだ?」


 突然のことにワンテンポ遅れ、ケースケは和葉の後を追いかける。


「記憶を取り戻したいと言ったのは、ケースケ先輩の方でしょう?報酬超過分として、そこまでは手伝ってあげます。その気があるなら、ついてきてください」


 和葉はコートを引っかけ、ケースケの返事も聞かずに外へと向かう。ケースケに迷う時間を与える気はないとでも言うようだ。

 是非もない。悩んだところで、これ以上いい案が出せるほど頭は良くない。ケースケは和葉の後を追い、夜の街へと足を踏み入れた。

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