4-2 地下室の瓶

 家々の窓には明かりが灯り、一家団欒の声がかすかに聞こえてくる。街灯照らす夜道は人通りがなく、二人分の乾いた靴音だけが寂しく響く。


「どこに向かってるんだ?」

「すぐそこです。今日、この時間に迎えに来てくれるようにお願いしました」


 誰に、と聞く前に目的の人物らしき人影が目に入る。博物館を出て少し歩いたところにある大通りの駐車スペースに、白い車とそれに負けない白い髪を持つ女性が立っていた。

 常夜灯に浮き上がる白い髪と肌、それらに引き立てられる真紅の瞳。ぴしりと伸ばされた背筋は定規でも入れているかのようにまっすぐで、彫像的な印象を与える美女だった。


「お久しぶりです、白兎さん」

「肯定。42日3時間17分32秒ぶりだ、八城和葉。質問。そちらが涼森螢助か?」


 和葉が頷くのを確認すると、白兎は挨拶もそこそこに車の後部扉を開ける。


「推奨。速やかなる乗車。会話は車中で行うのが効率的と判断」


 ケースケは状況についていけていなかったが、和葉が車に乗り込むので、それに続いて後部座席に座る。二人のあとに運転席に座った白兎は、行き先も言わずに発車させた。


「……で、誰なんだ、こいつ」

「回答。布槌警察捜査一課及び特殊災害資料室所属の荒木白兎。コードネームは『機脳マシンブレイン』。和葉とは仕事の関係で接触経験あり」

「……警察?」


 先刻の和葉との会話を思い出す。人外である雨音にとって、警察は味方ではない。白兎がどこまで事情を知っているのかわからない以上、うかつな話題を振るのはためらわれた。


「……あー、捜査一課はわかるけど、特売野菜シチュー室ってなんだ?」

「修正要求。特殊災害資料室。主な任務は神話生物関連事件の解決と隠蔽工作。外部の人間から存在を隠すため、部署名はあえてわかりづらいものに設定されている」


 ケースケのバカな反応にも一切表情を変えず、機械的に返答する。感情というものをどこかに置いてきたかのようなキビキビした対応だった。


「追加情報。外部の人間というのは捜査一課の一般課員も含まれる。私の任務は神話生物関連事件に捜査一課が絡んだ際、事件の真実を隠蔽し、迷宮入りさせること。そして、その事件を特殊災害資料室――通称、特災に割り振って処理すること」

「……特災は、今回の事件をどういうふうに対応するつもりなんですか?」

「回答。涼森風香の処断。すでに手配は終了しており、近日中に『炎血ファイアブラッド』が布槌に到着し、すべて処理する。何かするつもりなら早めの行動を推奨する」


 横から口をはさんだ和葉に、白兎はさらりと答える。ケースケが涼森家の人間であると知っているであろうに、その流れるような口調はまったく澱みがなかった。


「わかりました。お願いしたものは用意してもらえましたか?」

「肯定。助手席後部の収納」


 和葉は言われた場所を探って茶封筒を取り出す。彼女は中身を改め、一つ頷いた。


「完璧です。さすが白兎さんですね。ありがとうございます」

「推奨。よりいっそうの賞賛。これで以前の借り分は返したと判断」


 ケースケには二人の会話の意図がさっぱりわからなかったが、当事者たちはその短い会話で十分だったようだ。それ以降、茶封筒の話題には触れず、やがて車が止まる。


「到着」


 手短に言って、車を降りる運転手。ケースケとしても口で説明されるより、実際に見る方が楽なので文句を言わずに降りる。

 海が近いのだろうか?潮の匂いが風に乗って鼻をくすぐる。

 目の前の建物は、警察などが使う立ち入り禁止のテープが張り巡らされていた。崩壊寸前な上に夜中とあって人の気配はなく、まさしく幽霊がでそうなと形容できる建物だ。


「ここは……」


 初め、その建物がなんなのか、わからなかったが、すぐに気付く。

 雨音と出会った場所。大勢の死者を出した事故現場。残っている記憶の始まり。ケースケと雨音が倒れていた、立体駐車場だ。ここで目を覚ましたのは昨日のことのはずだが、ケースケには遠い昔の出来事のように感じられた。

 この建物が炎に包まれていたとき、建物の周囲に目を向けている余裕はなかった。そのため、こうして現場に到着するまでこの場所に向かっていることに気付かなかった。


「提案。自身の待機。二人での自由行動」


 白兎は車の傍で二人を見送る構え。和葉とケースケだけが廃墟に足を踏み入れる。


「ここに、なにかあるのか?」


 ケースケの質問に、和葉は答えなかった。建物内の入り口で立ち止まり、じっとケースケを見つめ返すだけだ。だが、そのことに対して特に苛立ちを覚えなかった。

 返答など必要なかった。以前は気付かなかったが、今は涼森の屋敷を訪れたときの懐かしさと同じものを感じる。和葉に見守られる中、ゆっくりと建物内に足を踏み入れる。


『てけり・り』


 屋内に入ってすぐ、何度も聞いた、ショゴスのおぞましい鳴き声が響く。だが、ケースケは、その声に恐怖や嫌悪ではなく、自分を優しく導いている温かみを感じた。

 それは幻聴だったのだろうか?そうでないのなら和葉にも聞こえたはずだが、彼女に動揺する様子はない。やはり幻聴だったのだと思い、少年は立体駐車場の奥へと進んでいく。

 建物の中はひどい惨状だった。建物自身もそこにあった車も、原形を留めているものなど一つとしてなく、崩壊による瓦礫がそこかしこに散乱していた。元々綺麗な場所だったわけではなく、不良が描いたと思われる落書きが、荒廃の度合いをより強く感じさせた。

 ケースケは上の階に上がろうとして、ふと気になって壁に描かれた落書きに目を向ける。スプレーで描かれたコミカルな竜やよくわからないエムブレムなどが煩雑に並んでいる。

 そのうちの一つ。幾何学的模様の中に手形と瞳というデザインの落書きを見つけ、ケースケは迷うことなくそこに手を重ねる。

 一瞬、幾何学的模様が緑色の光を放ったかと思うと、炭酸が抜けるような音がし、壁の一角がひとりでに開いた。隠し扉のその先には地下への階段があり、奈落の底に繋がっているような不気味な雰囲気を醸し出していた。


『てけり・り』


 先刻よりはっきりとした声が、地下からケースケを呼ぶ。

 少年の心は平静だった。ここに隠し扉があったことはわかっていた。記憶がないだけで、彼はこの場所のことを知っていたのだから。

 背後から和葉が懐中電灯を差し出してきたのでそれを受け取り、地下への階段を一歩ずつゆっくりと降りて行く。慎重に降りて行くというより、ゆっくりと目覚めて行く記憶を時間をかけて咀嚼するように、階段の一歩一歩をしっかり感じ取りながら進んでいく。

 たどり着いた部屋は、入口の狭さに比べれば、思いのほか広い。懐中電灯を室内に向けるが、明かりで照らすまでもなく、そこに何があるのか、ケースケにはわかっていた。

 明かりに照らし出されるのは、無数の瓶だった。人一人入るほどの大きなものもあれば、手のひらサイズの小さなものもある。ほとんどの瓶は割れていたが、無事なものには赤い液体が満たされている。瓶には機械がついていたが、電気が通っていないせいか今は沈黙している。その機械からは管が何本も伸びており、中は赤い液体が満たしていた。それらは床や天井に張り巡らされており、まるで体を走る血管のようだ。


「…………」


 ケースケは、割れて飛び出た中身も含め、一つ一つ視線を投げていく。不快感こそあれ、驚きはない。瓶の一つ一つが、涼森螢助の犯した罪の産物だ。自らの罪を確認していくように、己が願望のために犠牲にしてきた者たちのなれの果てを見て行く。

 ――瓶の中にあったのは、あるいは、割れてぶちまけられているのは人間の体だった。

 ある瓶には脳髄が。ある瓶には目玉が。ある瓶には手足が入っており、またある瓶には内臓が一つずつ保存されていた。全身を保存されている容器も存在し、中には全裸の人間や、見たこともない異形の怪物が眠るような表情で収められている。

 老人も子どもも男も女も善人も悪人も病人も健康体も人間も怪物も、様々な生い立ちの様々な生物の肉体が、丁寧に分類分けされ、保存されている。

 あぁ、考えてみれば、当然のことだ。シャッガイなどというレアな生物をショゴス作成の材料に使うなら、他にもさまざまな生物を実験材料として使っていてもおかしくない。それなら個体数の少ないシャッガイより、もっと手に入れやすい種族がいるじゃないか。

 日本国内だけでも、億単位で存在する種族――人間。

 法律や道徳を無視するならば、ラット並に実験に適した生物だ。

 騒ぎを起こさず、検体を集め、この場所に保存する。ホルマリン漬けではない。あれは死体を保存するための方法だ。和葉も言っていたが、検体は生きている方が望ましいし、汎用性も広い。だから、この場に存在するあらゆる部品は、どれも死んでいなかった。

 これこそ涼森家秘蔵の神話科学。ショゴスの品種改良以上に非道徳的で、決して表に出すことができなかった技術。涼森家の祖先が、『ミ=ゴ』と呼ばれる神話生物の科学技術を研究することで手に入れた、死にゆく肉体を生かし続ける機械。

 今は電気の供給が途絶えたためにすべて死に絶えてしまっているが、それ以前はどの部品も生きていた。心臓は以前と同じく脈打ち続けていたし、摘出後の脳も思考を続けていた。それらを生きていると表現すべきかどうかはわからないが、思考可能な状態を生きていると仮に表現するなら、この施設の稼働中、死人はこの場に一人もいなかった。


「ごめんな、さい」


 謝ってすまされる問題ではない。そもそも、謝罪を受け取れる者はいない。

 ここで生きていた脳たちは、見ることも聞くことも嗅ぐことも味わうも触れることも死ぬこともできない。ただ、終わりのない夢を見続けるだけの存在。魂というものが存在するのなら、まさにこういったもののことを言うのだろう。ここはまさに魂の牢獄であった。


『てけり・り』


 再び呼ばれた気がして、部屋の中央に明かりを向ける。

 大きな瓶だ。水槽と言ったほうがいいかもしれない。人間が丸々一人入れるほどの巨大な瓶は割れており、中身は入っていない。漏れ出た赤い液体だけが床を濡らしていた。

 それは空っぽだったが、それこそがケースケの探して求めていたものだった。同時に、見つけたくなかったものだった。その瓶こそが彼の最初の記憶であり、すべてだった。


「あぁ……」


 すべてを、思い出した。もっと劇的なものだと思っていたが、記憶というものは一度掘り返すと、すんなりとケースケの中に入っていき、自然と溶けていった。

 いっそのこと、記憶が戻ったことによるショックで狂ってしまえていれば、どんなに楽だったことだろう。――だが、それはできなかった。

 この場所に囚われている者たちの魂が、そんな楽に狂わせてたまるかと、ケースケの心を緊縛しているのかもしれない。


『てけり・り』


 これ以上、その声を聞きたくなかった。だから、ケースケは手で口を塞ぐ。

 反射的に行ってしまったその動作が悲しくて、ケースケは和葉の目の前であることも忘れ、ぼろぼろと泣き始めた。零れた雫が口を塞いだ手を伝い、温かく濡らす。

 その鳴き声は、幻聴ではない。だが、耳を塞いでも、その声は止まってくれない。自らの口から漏れ出ているのだから、塞ぐべきは耳ではなく、口であるとわかってしまった。

 理性は認めたくないと思っていても、心はすでに気付いてしまっているのだ。


 ――自分はショゴスだ、と。

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