3-4 ハヤニエの言葉

「病院をショゴスに襲わせたり、お兄ちゃんを餌に虫女を誘き寄せたのも私。あぁ、あと、手駒を増やすために、『友だち』をショゴスに変えたのも私。涼森風香だよ」


 子どもショゴスの残骸を、ゴミでも踏むように踏みつけながら答える風香。

 子どもショゴスが元人間であったこと、妹に餌扱いにされたこと。理解できない――理解したくないことが多すぎて混乱するケースケを、風香は小バカにしたように笑う。


「でも、それじゃあ、おまえが俺の妹だっていう話は……」

「お兄ちゃん、それは半分本当だよ。私は正真正銘、あなたの妹よ?でも、妹じゃないって言うのでも正解なの」

「半分?どういう意味だ!?曖昧な言い方して、煙に巻くんじゃねえよ!おまえは俺の何なんだ!?どうして俺や雨音を狙うんだ!?いや、違う。それよりも――」


 今まで自分の中で積み上げてきたことが崩れていく。それもそのはずだ。自分が積み上げてきたものなど、結局は周囲の人間からの伝聞でしかない。自分自身が何者であるかが思い出せないケースケは、記憶の土台と言えるものが存在しない。その上にいくら伝え聞いた過去を重ねて行っても、土台が存在しなければいずれは崩れる。

 風香の嘘だけが原因ではない。崩れることは遅いか早いか程度の差でしかなく、それが今この瞬間であったと言うだけに過ぎなかった。

 そして、崩れ去った後に残る疑問は、いつも一つだった。


「俺は、誰なんだ?」


 答えを求めて、その場にいる二人を見つめるが、一人はにやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべて面白がるだけで、もう一人は辛そうな顔をして視線を逸らすだけだった。


「お兄ちゃん、そんなに真実を知りたいの?」


 意地の悪い笑みを浮かべていた方――風香が、ケースケに問いかける。悪魔のささやきめいた声音に、一瞬躊躇しつつも、ケースケは応じずにいられなかった。


「当たり前だろうが!早く答えろよ!」

「そうだね。でも、ただじゃ教えてあ・げ・な・い」


 少女の姿をした悪魔は、雨音の方にすっと指を走らせる。


「その女を殺して。本当は生け捕りが一番なんだけど、思った以上に生命力が強いみたいだから、殺す気でいった方がいいみたい。がんばってね」

「はあ!?そんなこと、できるわけ――」


『コ ロ セ』


 銀の爪が一際強く輝くと、その声が再び脳内に響いた。風香自身は一言も発していないのに、まるで脳に直接言葉を叩きこまれるような感覚を受ける。

 逆らえなかった。先刻と同じだ。ケースケはその言葉を受けた瞬間、一瞬だけ意識が飛び、床のガラス片を拾い上げる。今度は一切の躊躇がない。傷口に手を当て、息も絶え絶えといった状態の雨音の首筋目掛けてガラスの破片を振り下ろす。

 二度目なので耐性がついたか、今回は意識だけははっきりしていた。ただし、意識があるだけで、身体は言うことを聞かない。振り下ろした瞬間、ケースケは悲鳴を上げた。


「いってえええええええええええええええええええええええええええ!?」

「痛がるようにやったんだから、当然でやがります。それより、眼は覚めやがりましたか?」


 問われ、ケースケは自分の意識がはっきりしていることに気付く。

 事は単純だった。ガラス片を振り下ろそうとした瞬間、雨音の裏拳が飛んできて、ケースケの顔面を強かに打ちすえたと言うだけのこと。

 大怪我をしているとはいえ、雨音の反射神経と身体能力はずば抜けている。不意打ちでこそケースケの攻撃を一太刀浴びる結果となってしまったが、警戒さえしていれば、眠っていても反応できる。再度ケースケに傷つけられる道理など、存在しないのだ。

 とはいえ、雨音の負傷は軽いものではなかった。傷口から途切れなく血が滴っており、傷口を抑えている左手は真っ赤に染まっている。顔色は青を通り越して蒼白となっており、今にも倒れてしまいそうなほど足元が覚束なくなっていた。


「あ、雨音!?悪い、俺、また……」

「落ち着きやがってください。ケースケくんは、一種の催眠術にかけられたんでやがります。あの右手の機械、ショゴスを操るのが本来の用途でやがりますが、人間相手でもわずかながらの効果があるんでやがります。心配しないで。私は人間と違って、頑丈なんでやがります。この程度で死ねるなら、とっくの昔に楽になってやがります」


 額に脂汗を流しながらも、努めてなんでもないという様子を見せる雨音。だが、彼女が弱り切っていることは誰の目にも明らかなことであり、強がりであることは明白だった。

 風香はその様子を見て、上機嫌に指を振るう。


「あ~あ、そんなに簡単にはいかないかぁ。ほんと、シャッガイのしぶとさって、ゴキブリ並みで嫌になっちゃう。さすがは虫人間ってところね」


 指揮者のごとく振るわれる指に合わせ、背後のショゴスがその形状を変えていく。

 先ほどのような小さなショゴスではない。病院で見たのと同型の大型ショゴスだ。ケースケがスケッチで見た『ショゴスD型』というやつだろう。

 そのショゴスは一部から無数の触手を槍衾のように生やすと同時、残りの身体が風香を守るように包み込む。それはまさに槍と盾を構えた重装歩兵。使い古されながらも決して突破できない堅固な型。ショゴス使い風香の戦闘態勢だった。


「この間捕まえた奴らも、両腕両足切り落として、ようやく大人しくなったくらいだし、あなたもダルマにしてあげたら大人しくなるかしら?お願いだから、手足がなくなっても死なないでね?あなたの身体は貴重な実験材料なんだから」

「…………」


 雨音の側が劣勢であることは火を見るより明らかだった。手負いである上に、戦いの場は速さを十分に生かせない狭い室内。おまけにケースケという足手まといが一人いる。

 ケースケ自身、自分が雨音の足を引っ張っているという自覚はあった。そもそも窮地に立たされる結果となった原因は自分自身の身勝手な行動のせいであり、その上、何もできない自分はあまりに情けなく、格好悪いと思う。

 だが、ここで余計な見栄を張っても仕方ない。どれだけ格好悪くても、この場は雨音に頼る他はない。ケースケは雨音に身を寄せ、彼女にだけ聞こえる声でそっと語りかける。


「雨音、頼ってばかりで情けない話だが、病院の時みたいに空を飛んで逃げられねえか?誰かに目撃されるかもしれないが、そんなこと言ってる場合でもないぞ」

「…………」


 ケースケとしては、この場で思いつく最善の策を話したつもりだが、雨音は暗い顔をして黙りこんでしまった。

 とうとう愛想を尽かされてしまったのだろうか?彼女に恨まれてもおかしくないようなことをこれまで何度もしてしまった。この場で見捨てられても、それはそれで仕方のないことだとケースケは思ったが、黙りこんだ雨音からはそのような空気は感じられない。

 ならば、何をそんなに迷っているのだろうか?疑問でケースケの眉が寄る。


「雨音?」

「……ケースケくん、時間がないから、よく聞きやがってください」


 雨音はぱっと顔をあげると、真剣な表情でケースケを見つめる。

 ケースケはその瞳にぞっとさせられた。ある種の覚悟を決めた者だけがする、悲壮な決意が宿った瞳。ケースケは雨音の眼差しから、そのような印象を受けた。


「ここを離れたら、すぐに和葉ちゃんのところへ行きやがってください。私に言われたと伝えれば、後はあの子がすべてやってくれるはずでやがります」

「は?ちょっと待てよ。何の話だ?そんな、自分は死ぬみたいな言い方……」

「時間がないでやがります!黙って聞きやがりなさい!」


 雨音の気迫に押され、ケースケは口をつぐむ。

 言いたいこと・聞きたいことはたくさんあった。目の前にいる風香やショゴスの挙動も気になった。だが、今この時、彼女の言葉を聞き逃してはならないという予感があった。


「私、自分のことが大嫌いでやがります。私は、自分は普通の人間じゃないって知った。怪物そのものになって、それが原因で父さんや母さんが死んで……。私、特別な力なんて、欲しくなかった。こんな姿で生きていたくないと思って、死のうとしてたんでやがります」


 それは、初めての雨音の独白だった。ケースケは、雨音の瞳を見つめ返す。

 左右色違いのオッドアイ。ケースケは初めその瞳を見て、とても綺麗だと思った。雨音が片目を髪で隠すのがもったいないとも。

 だが、こうやって近くから見つめ返すと、彼女が片目を隠していた理由がわかった。黄色い瞳は昆虫の――シャッガイの瞳だった。シャッガイになってからまだ日の浅い雨音は、完璧に人間に化けることができないのだ。人ではありえないその輝きは、知らない者から見れば美しいかもしれないが、雨音にとってはコンプレックスでしかなかったのだ。


「でも、不思議ですよね。いざ生死の境に立つと、情けないことに、死にたくないって思っちゃったんでやがります。死にたくない。生きたい。誰か助けてって」


『どうして、私を助けやがりましたか?』

 あの病室で、彼女はケースケにそう問うた。

 その問いは、怪物のような存在であり、一度は命を捨てるような選択をした愚か者である自分であっても、生きていていいのかという、雨音の心の叫びだったのかもしれない。


「そうしたら、来てくれたんです。あなたが」


『うっせえよ!んなこと知るか!俺は頭悪いんだよ!そんな細かいこと考えて行動するか!可愛かったから、つい助けちゃったんだよ!』

 ケースケの答えは、深く考えてのものではなかった。記憶喪失な上、そもそも頭の出来があまりよろしくないケースケに論理的返答を求めることがナンセンスだ。

 だが、その言葉は、雨音にとってなによりも救いだった。自分が嫌っていた容姿を可愛いと形容し、ただの女の子として扱い、命をかけて救ってくれた。その行動は理詰めではないからこそ純粋なものであり、より雨音の心に響いた。


「もっとゆっくり教えて、あなたにじっくり考える時間をあげたかった。その時間をあげることが、あなたへの恩返しになると思ったんでやがります。でも、かえって混乱させちゃったみたいで……ごめんなさい」

「いや、そんなこと……」


 雨音はなにも悪くない。むしろ、ケースケ自身は、悪いのはすべて自分だと思っていた。自分はピンチになるたびに雨音に助けられたにもかかわらず、勝手に一人で行動し、現在の最悪な状況を迎えている。彼に雨音を責める気持ちなど、欠片もあるはずがなかった。

 だが、雨音はゆっくりと首を振る。


「本当はもっと早く教えてあげることもできたんでやがります。それをやらなかったのは、私が怖かったからなんでやがりますよ。すべてを知ったら、ケースケくんが心変わりをして、私のこと嫌いになっちゃうんじゃないかって思って」

「はぁ!?俺が雨音のことを嫌いになるわけないだろうが」


 間髪入れず、ケースケが答える。

 元よりあまり深く考える性質ではない。恋愛感情以前の問題で、純粋に、ケースケには雨音のことを嫌うような未来が思い浮かばなかった。おそらく、雨音が男であっても、同じ答えを返しただろう。しかし、一切の迷いのない返答に、雨音は微笑を浮かべる。


「……ねぇ、そろそろいい?三文芝居を見てるのも、飽きてきた頃合いなんだけど?」


 唐突に割って入る第三者の声。ケースケと雨音が声の主へと顔を向ける。

 無視していたわけではない。常に意識は向けていたが、意外にも、風香はケースケと雨音の会話を邪魔しようとはしてこなかった。

 会話の間中、風香がやっていたことと言えば、右手の銀の爪を時折動かしていたくらいだ。それが不気味と言えば不気味だった。


「……一応、わざわざ待っていてくれてありがとうと言っておいたほうがいいでやがりますかね?時間が欲しかったのはお互いさまでしょうが」

「あら、気づいてたの?それを知っていて無駄話をするなんて、バカなのかしら?」


 風香の指が躍る。と、同時に、緑の夕日が差し込んでいた室内が、突如暗くなる。

 壁伝いに階下から這い上がっていたショゴスが、逃げ道を塞ぐように窓を覆い尽くしたのだ。日光を遮られた室内は、ショゴス自体の発光により、薄暗く玉虫色の光に塗られる。さらに、扉を突き破り、玉虫色の液体が流れ込んできた。

 風香が二人の会話を邪魔しなかったのは、情や慢心によるものではない。獲物を逃がさないよう、集められるだけのショゴスを集結させ、出入り口を塞ぐためだった。そして、窓と扉を塞いだ今、これ以上待つ理由はない。


「さぁ、互いに遺言は残した?そろそろフィナーレと行きましょうか」

『てけり・り!てけり・り!てけり・り!』


 餌を前にした魔獣の合唱が室内を反響する。その指揮者たる風香の身体は、玉虫色の怪物の中へと沈み込み、見えなくなった。

 出口と窓はショゴスの巨体で完全に防がれた。風香を直接攻撃しようにも、分厚いショゴスの肉体に隠れた彼女に攻撃を届けるのは至難を極める。加えて、雨音は満身創痍であり、ケースケという足手まといつきだった。

 ケースケと雨音にとって、考えうる限り最悪の状況だった。

 もっと早く窓から逃げるべきだったのではないかとケースケは考えたが、即座にそれを否定する。雨音だって、それくらいのことは思いついていたはずだ。だが、この窓の様子を見る限り、彼女がこの部屋に飛び込んできた段階で、すでにショゴスは窓の外に待ち構えていたのかもしれない。

 だが、希望がないわけではない。先刻の会話の内容からすると、雨音は逃げ道が塞がれつつあるのを承知でケースケと会話していたことになる。彼女に打開の策があるのではないかと思い、ケースケは少女に視線を投げる。


「ケースケくん、あなたがすべてを思い出した時、あなたは選択をしなきゃならない」


 だが、こんな状況に置いても、雨音の口から出たのは、先刻の会話の続きだった。

 先刻とは状況が違う。相手側はもう、時間を稼ぐ必要はない。眼前を覆い尽くすほど巨大なショゴスの表面が泡立ち、無数の槍を構成する。それらは罪人を銃殺処刑するための銃口のように、ケースケと雨音へと向けられる。


「……おい、雨音。さすがに、その話は後にしたほうが――」

「それはきっと、ケースケくんの人生の分岐点。どんな選択をしても間違いじゃないし、正解もない。ケースケくんがどんな選択をしても、私は恨みやがりません。ただ――」


 制止の声も聞かず、雨音は言葉を続ける。

 途中、一瞬だけ言葉を切った雨音は、ケースケに目を向ける。宝石のように美しいとケースケが感じた金の瞳が、夜空に浮かぶ月のように暗闇の中で映えた。


「後悔だけはしないでください」


 どういう意味かを尋ねる時間は、なかった。

 それからの出来事はすべて一瞬。めまぐるしく展開される事態に身体が追い付かず、ただ起こった出来事がケースケの網膜を通して脳に焼きついた。

 最初に動いたのは雨音だった。雨音は窓や扉からの脱出も、一か八かで風香を打ち倒す挑戦もせず、自らの拳を、力任せに背後の壁に叩きつけた。人間をあっさり引き潰すショゴスと渡り合える、昆虫人間シャッガイの膂力。コンクリートの壁が発泡スチロールのように飛び散り、壁に人一人分の穴を空けるには十分すぎた。

 力技で逃走経路を確保することを予測していなかったのだろう。ショゴスの行動はワンテンポ遅れた。雨音は、僅かな時間できた隙を逃さず、ケースケの身体を掴むと、シャッガイの腕力をフルに活用して、穴から外へと投げ飛ばした。通常の人間ていどの反射神経しかないケースケは、反応することすらできず、気が付いたら宙を舞っていた。

 ケースケの身体は運良く――いや、恐らく、雨音が狙ってその場所に落ちるようにしたのだろう――隣家の庭の植え込みへと落下した。

 植え込みがクッションになったとはいえ、落下の衝撃は完全には殺せないし、枝もいくつかが肉体に刺さる。死ぬほど痛かった。声の限り叫び、痛みを訴えたかった。だが、ケースケはそれらの情動を精神力でねじ伏せ、自分が飛び出した穴の方へと目を向ける。


 ――――思考が真っ白になった。


 ハヤニエ、というものがある。モズという鳥の習性で、捕らえた獲物を枝などに突き刺す行為のことをいう。その光景は、まさにモズのハヤニエを思い起こさせるものだった。

 ハヤニエとされた動物は、しばらくの間生きて、もがき続けることがある。ショゴスの触手によって貫かれた雨音もまた、貫かれた状態でピクピクと身体を痙攣させていた。

 十字架に磔にされたキリストのように、中空に高々と掲げられた雨音は、虚ろな瞳をケースケの方に向ける。もしかすると、もう光が見えていないのかもしれない。死んでいてもおかしくない重症で、雨音は唇を動かし、声にならない言葉を紡いだ。


 ニ ゲ テ


 ケースケが呆然とする中、雨音の肉体が建物の中へと引き戻され、見えなくなる。ぐちゃぐちゃと肉を引き潰すような音を耳に、ケースケはかつてないほどの慟哭を上げた。

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