5-2 一人の人間

「なんでだよ。……なんで、俺なんだ!俺は、雨音が身体を切り売りしてまでして救う価値のある男じゃない!なのに、なんで雨音はそんなことまでして俺を!?」


 答えられる者などいないと分かっていても、ケースケは問わずにはいられなかった。


「……先輩自身に、選んでほしかったからではないでしょうか」


 壁に叩きつけられたことを怒るでもなく、和葉は静かに言う。それはきっと、和葉の想像でしかなかっただろう。だが、すっとケースケの胸に入ってきた。


「選ぶ……」


 ――ケースケくん、あなたがすべてを思い出した時、あなたは選択をしなきゃならない

 その言葉は、雨音が最後にケースケに告げた言葉。

 自分は本当にバカだ、とケースケは思う。雨音が自分を恨んでいるなどと勘違いしてしまった。雨音は、自らが死の淵に立ちながらも、最後まで彼のことを心配していたのだ。あんな言葉を恨んでいる人間に言えるわけがない。

 だが、それでもケースケには、雨音の思いが理解できなかった。自分は雨音の憎悪の対象となってもおかしくないというのに、何故彼女は負の感情を抱かずにいれたのか。


「……ただ一言で、よかったんだ」


 ケースケは顔に手を当て、深く溜息を吐く。


「『命がけで助けろ』とか『苦しんで死ね』とか。その一言がどんなことであっても、俺は雨音の望みのためなら、なんでもやった。なのに、どうして雨音はこんな選択肢を俺に残したんだ?なぁ、和葉。頭の悪い俺に教えてくれよ。あいつは、俺に何をしてほしいんだ?」

「……その質問には答えられません。私にはその権利がありませんから」


 助言すらしないのは、それこそが和葉の優しさだろう。

 雨音や風香のことを忘れ、新しい人生を歩むか、報われないと知りながらも、雨音を救うために勝ち目のない勝負を風香に挑むか。それを、ケースケ自身に選べと言うのか。

 ――後悔だけはしないようにしてください


「……ったく、無茶言いやがるぜ」


 まったくもって酷な選択としか言いようがない。極めてアンフェアだ。片方は確実に命を拾い、片方は確実に命を落とす選択肢なのだから。


「……和葉から見て、俺が風香に挑んで勝てる確率はどれくらいだと思う?」

「ショゴスに詳しいわけではないので断言できませんが、極めてゼロに近いと思います。あらゆる点から見て、あなたに勝ち目はありません。せっかく雨音さんが身体の一部を犠牲にしてまで用意した戸籍も無駄になるでしょう」

「和葉が助力してくれることを前提に考えた場合は?」


 和葉がぐっと詰まった表情になる。一度眼を伏せ、何かを堪えるようにしてから、強い意志を込めた瞳をケースケに向ける。


「希望を持たせるわけにはいかないのではっきり言いますが、ショゴスの操作を防ぐ手段を私は持っていません。戦力としても先輩の期待に答えられるだけの力を持ち合わせていません。だから、私が力を貸したとしても勝率はそれほど変わりません」


 手が真っ白になるほど握りしめながら、心底口惜しそうに和葉は吐き捨てる。


「私は無力な探究者Chaserなんです」

「……そうか」


 そも、純粋な戦闘力で見るなら、ショゴスは神話生物の中でも上位に入る。それに対抗できる手段を即席で用意するという方が虫のいい話だ。

 必要な時に必要なカードを持っていることは稀だ。人は今ある手札だけで、結果を出さなくてはならない。どうしてもそれが達成することができそうにないなら、諦めて生き残ることを選択するのが探究者Chaserとして正しい判断なのだろう。

 やはり、自分と涼森螢助は同一人物なんだな、とケースケは思う。ほとんどゼロに近い可能性に賭け、何も得ることのできない結果を求めようとしている。探究者Chaserとして間違っている行動をとろうとしている。


「……それでも、行くんですね?」

「あぁ」


 床に落ちていたマッチを拾い、火をつけて投げる。

 淡い火はガソリンに燃え移り、瞬く間に炎の海へと変わった。煙に捲かれる前に、二人は地下室を後にする。

 和葉が資料や機材の一部を持ち出していたが、ケースケは特に気にしなかった。所有権を主張する気はない。ここにあるものは、涼森螢助にとっても、ケースケにとっても無価値なものだ。自分で活用するなり、売り捌くなり、好きにすればいい。

 最後に一度、ケースケは実験室を振り返った。

 かつて、一人の研究者が追い求めた夢の跡。才能に溢れながらも、人間としての情を捨て切れずに探究を続けた結果に起きた悲劇。結局、誰一人救うことができず、ただただ不幸な人間を作るだけに終わってしまった結末。

 人間を実験材料にすることに対して、最初は罪の意識があった。だが、罪を重ねるごとに精神は削れていき、末期には何も感じなくなっていた。涼森螢助が積み重ねてきた罪は彼の分身であるケースケの双肩にずしりと重みを与える。

 死者の怨念が実体化したかのように燃える劫火を瞳に映し、少年はポツリとつぶやく。


「……こんなことなら、この世に生まれたくなんてなかった」


◆◆◆◆◆◆


「そういえばさぁ、あんたって兄貴に復讐に来たんでしょ?なら、なんであいつを助けたの?惚れたの?吊り橋効果ってやつ?」


 スナック菓子をバリバリ食べながら、風香が雨音に問いかける。食事を買いに行くと言っておきながら、買い物袋の中は菓子類ばかりだった。

 初めは体内のショゴスに苦しむ雨音を楽しそうに見ていたが、すぐに飽きてしまったようだ。猿轡を外し、彼女との会話を楽しむ姿勢に入る。

 ちなみに、雨音の目前には、本当にドッグフードが盛られていた。当然、雨音は口をつけていない。もっとも、それが普通の食事であったとしても、雨音にはそれを食するほどの体力は残っていなかっただろう。

 人間ならば、とっくの昔に死んでいてもおかしくないほどの重傷。その上、腹の中で異物が蠢くたびに激痛が走り、息も絶え絶えといった状態だ。

 それでも口を利いたのは、雨音の精神力の高さか、あるいは風香に対する反発心か。


「まさ、か、あなたの、お兄さんは、大嫌い、でやがります、よ。私の両親を、殺した、男のことなんて、好きになれるわけ、ないでしょう?」


 弱々しくも、きっぱりと言い切る雨音に、風香は意外そうな顔をする。彼女の視点から見ても、雨音がケースケに対して極めて献身的であることは明らかだった。実際、ケースケを助けることを優先させたせいで、こうやって捕縛されているのだ。

 だが、彼女がケースケを気遣う理由が一向にわからない。涼森螢助の分身であるケースケは、雨音からすれば敵同然の存在のはずだ。ケースケがそうであったように、風香にも雨音の献身的行為の理由が判然としなかった。


「そもそも、ケースケ、くんと、あなたのお兄さんを、同一人物と考える、ことが間違ってるんで、やがり、ます。彼はあなたの、お兄さんじゃ、ない。お兄さんと、同じ記憶を、持ち、同じ姿を、している、けど……ただの同姓同名の、別人で、やがります」

「……はぁ?なにそれ?記憶も姿も一緒なら、同一人物みたいなもんでしょ?」

「いいえ、違います」


 凛とした声で、雨音は風香の瞳を真正面から見据えて答える。


「彼は、涼森螢助の分身じゃ、ない。同じ知識、同じ身体だけど、ケースケくんっていう、一人の人間、でやがります。……私は、そう信じる、ことにしました」


 雨音とて、迷わなかったわけではない。病室では涼森螢助とケースケを同一人物とみなして殺そうとした。だが、今の彼女は一切の迷いなく言い切った。

 食べかけの菓子を無造作に捨て、風香が歩み寄る。雨音の言葉の何かが琴線に触れたのか、やや気分を害したような顔をしている。


「私、あんたのこと嫌いだわ。うん、兄貴を捕まえてから、一緒にいたぶってやろうと思ったけど予定変更。兄貴はメインで、あんたはオードブル。今すぐ料理してあげる」


 風香は脇に置いてあったずだ袋の中から、糸のこやペンチといった工具を取り出し、雨音の目の前で見せつけるように並べて行く。

 何をされるか察した雨音の瞳に恐怖が浮かぶ。気が強く、シャッガイという強靭な肉体を持つとはいえ、雨音の心はただの高校生と変わらない。腹部にショゴスを埋め込まれた事実だけでも気が触れそうなのに、これ以上の拷問など、耐えられる気がしなかった。


「やめ、て……」


 決して折れるまいと思う心に反して、震える声で懇願してしまう雨音。その言葉を聞いただけで、風香は楽しそうな顔になる。


「大丈夫大丈夫。ここ数日でいろいろ試したんだ。どこまでやったら人間は死んで、どこまでなら死にたくても死ねないかって。死なない程度に、じっくり痛めつけてあげる」


 それは、昆虫の足を一本一本引き抜いて楽しむ子どもと同じ思考だった。

 螢助と風香の最大の違いはそこだろう。螢助の実験は、やっていることこそ残虐そのものではあったが、あくまで研究者であった彼は実験動物を無駄に傷つけたり苦しめたりしない。だが、風香は実験動物を痛めつけることに快感を覚え、それを優先させる。怯える雨音の姿は、風香の嗜虐心に火をつけただけだった。

 現在、雨音の心を唯一支えているのは、風香への反発心だけだ。彼女だけには負けたくない。彼女には涙を見せてやるものかというプライドだけが、雨音を支えていた。

 だが、いくら気丈にふるまっていても、雨音が恐怖で震えていることは明白だった。

 風香は工具の中からペンチを取り出すと、雨音の口元へと持って行く。


「じゃあ、まずは歯からいこっか。歯はねえ、神経が詰まってるから、と~っても痛いんだよ?歯医者では麻酔を使うけど、それでも痛いくらいだから、麻酔なしでやったらどれくらい痛いか想像つく?貴重な体験ができるよ。よかったねぇ?」

「…………う」


 雨音の瞳から、涙があふれてくる。一度流れ出すと、止まらなかった。

 雨音は、意気地なさが恥ずかしかった。たった今、涙を見せないと決心したばかりなのに、もう泣いてしまっている。死を覚悟したはずなのに、生きたいと思ってしまっている。

 突如、泣きすすり始めた雨音を見て、風香は機嫌がよくなる。この女は、いったいどんな風に命乞いをするのだろうと思い、雨音の口元に耳を寄せる。


「なん、で……」


 汗と血と涙でぐしゃぐしゃになった顔で、雨音は言葉を発する。そこで初めて、風香は雨音の視線が自分ではなく、背後に向いていることに気がついた。


「なんで、来たの?」


 雨音の視線を追って、風香は振り向く。廃工場の入り口に、緑光を背にした一人の人間の姿が浮かび上がる。人影は日本刀のようなものを担いだ状態で、肩をすくめて呟いた。


「……うっせ。んなこと知るか、バーカ。俺は頭悪いんだ。細かいこと考えて行動してねえよ。可愛かったから、つい来ちゃったんだよ。……バーカ」


 ケースケが、そこにいた。

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