5-5 独りぼっち

「あんのバカ。手加減なしでやりやがって。死んだらどうすんだよ」


 適当な小部屋に身を隠したケースケは悪態を吐く。その腕には、瀕死の雨音がいた。

 ひどい有様だった。四肢は腱が斬られ、傷口には最低限の治療しか施されていない。その顔は血と汗と吐瀉物で汚れていたが、ケースケはそれでも彼女を美しいと思った。


「雨音、大丈夫か?俺の声、わかるか?」

「来ちゃった、んだね」


 出血で朦朧としながらも、彼女は優しい瞳をケースケに向ける。肺も傷つけられたのか、一言話すだけでも辛そうだ。その口元にはわずかに笑みが浮かび、仕方ないなぁ、ケースケくんはとでも言いたげだった。

 だから、ケースケも努めて笑顔で応じた。彼女が普段通りの会話を望むなら、自分もそうするべきだと思ったからだ。泣き笑いのようになって、うまくできてはいなかったが。


「雨音だって同じだろ?親父さんやお袋さんを助けるために、戦ったって聞いたぜ」

「違う、よ。私、は、二人とも、死んでると、わかってた。私はただ、父さんと母さんの敵討ちのために、この街に、来た、んで、やがり、ます。こんな、化け物の身体で、一人、生きていても、仕方ないって、思って」


 それは、ケースケが初めて聞く、雨音の弱音だった。

 自分はバカだ、とケースケは思う。記憶喪失で悲観し、被害者ぶって、周りを見ていなかった。自分以上に苦しんでいる人間が、すぐ隣にいたというのに。


「和葉ちゃんに、言われた、よ。復讐なんて考えず、生きる道もある、って。だけど私は、そんな、言葉、聞きもしなかっ、た。父さんと母さんを殺した奴に、復讐してやる、ことしか頭に、なかった。それで、死ぬことになっても……まぁいいやって、思って」

「……なら、なぜ、俺を助けた?自分の羽を斬り落してまで」


 どれだけ悩んでも、それだけがどうしても腑に落ちなかった。

 雨音は、普通の女の子だ。無限の慈愛を持つ女神なんかじゃない。本来ならケースケは雨音に恨み、殺しに来たとしてもおかしくない。

 だが、彼女は自らが背負う代償を気にせず、ケースケを支え続けてきた。普通そうあるべき行動とは真逆の対応。どうしてそんなことをしたのか、ケースケはずっと考えていたが、彼にはついにわからなかった。


「君は、違い、やがり、ます、よ。父さんと、母さんの仇は、もう、死んだ、から」


 雨音は、自嘲的な笑みを浮かべる。


「ここにいるのは、涼森螢助、じゃなくて、ケースケくん。自分の、未来を捨てて、私に会いに来て、くれやがって、しまう、ような、おバカ、さん」

「……うっせ、バカは余計だよ」


 雨音の言うことは、理屈では理解できた。『涼森螢助』本人とその記憶と身体をベースに作られたショゴスである『ケースケ』。両者は厳密には違う存在なのかもしれない。

 だが、それで納得できるのか。自分自身ですら、自分が『涼森螢助』本人であると思い込んでいた男に、どうしてそこまで尽くすことができるのか。


「不思議、だよね」


 ケースケの疑問を見抜き、安心させるように微笑みながら、雨音はつぶやく。こんなになってまで自分に気遣う雨音の言葉を、ケースケは女神の啓示のように受け止める。


「死んでもいい、って思ってた、のに。あの夜、病院で目を、覚ました時、私、ほっと、したんだ。ケースケくんの、寝顔を見たときなんか、泣きそう、になったよ。あぁ、私、生きてるって。死にたくなんか、ないって」


 病院で、自分の上に乗りかかる雨音の瞳を、ケースケは思い出していた。彼女の瞳はとても綺麗だったけど、とても悲しそうだった。


「それでも、ケースケくんは、殺すつもりだった、よ。病院で。だけど、ケースケくん、全部、忘れやがって、いて、私も戸惑った。そのとき、聞こえた気が、したんだ。父さんと、母さんの声。手を汚しちゃ、いけない。その子はあなたと同じなんだよ、って」

「おな、じ?」


 雨音は穏やかな顔でうなずく。


「自分と同じで、独りぼっちなんだ、って」

「っ!?」


 あぁ、そうか。と、ケースケは納得する。

 ケースケと雨音の境遇は似ていた。自分は人間だと思っていたのに、実は化け物だった。仲間と呼べるものはなく、独りぼっちの存在だ。

 雨音は、そんなケースケを自分と重ねたのだ。

 それは、傷ついた獣が互いの傷を舐め合うような行為だったのかもしれない。他人から見れば、取るに足らない理由だったのかもしれない。だが、雨音にとっては、命を賭けるのに十分な思いだった。


「あなたは、恩人、で、やがり、ます。あなたのおかげで、私、誰も、殺さないで済んだ。私がしてきたのは、それの、恩返し。それ、とね?あなたが、すべてを知りやがった、たとき、こう言ってあげようと、思ってたの」


 小さなきっかけではあったが、雨音にとっては大きな救いだ。だからこそ、彼女は自分の心を救ってくれた存在に、精一杯の愛情を込めて言った。


「生まれてきてくれて、ありがとう」

「――――」


 何か返そうと思ったが、胸がいっぱいで何も話せなかった。代わりに、言葉では言い表せない感情が、涙となってケースケから溢れ出た。

 病院で目覚めたとき、雨音もこんな気分になったんだろうか。ケースケは、その一言だけで、この人のためなら何でもしてやろうという気持ちになった。

 雨音が咳きこみ、血痰を吐く。ケースケは、雨音が呼吸しやすいように、抱え直す。これだけの怪我を負っていても、雨音の命に別条はない。それがシャッガイの生命力。


「……ねぇ、一つ、お願いしても、いいで、やがります?」


 呼吸を落ち着かせ、雨音が穏やかな瞳でケースケを見つめる。


「なんだ?」


 何を頼まれるのか、分かっていた。聞きたくないと思った。それでも、ケースケは聞いた。この人のためなら、なんだってやるつもりだった。例えそれが、自分がもっとも忌み嫌う行為だったとしても。


「――して」


 ケースケだけに聞こえるように、雨音が耳元でささやく。


「ショゴスに、生きたまま、食べられるなんて、いや、で、やがり、ます。それならせめて、初恋の人に、――され、たい」


 それは最高で最悪な告白の言葉。

 ケースケは半端に人間な自分の身体が憎らしかった。ただの怪物であるなら、こんなにも涙があふれることはなかったのに。こんなにも胸が苦しくなることはなかったのに。

 助けたい、と思った。彼女を助けられるのなら、自分の心臓をくれてやってもいいとすら思った。だが、それが不可能であるということは、誰よりもケースケ自身が知っていた。数々のショゴスを育ててきた探究者Chaserとしての記憶が、それを確信させた。

 雨音を殺す以外に、雨音の体内のショゴスを殺す方法はない、と。


「だめ、かな?」


 不安そうに聞く雨音に、ケースケは頷いて答える。

 ケースケの答えに、雨音はほっと安心したような笑顔を浮かべる。あぁ、こんな状況でさえなければ、最高の笑顔だったのに、とケースケは思った。

 ケースケは、右手に刀を握りこむ。

 本当は、死んでもやりたくないことだ。だが、それでもやらなくてはならない。ほかならぬ、自分自身の手で。まぁ、これもいわゆる、惚れた弱み、というやつなのだろう。


「……俺からも一つ頼みがあるんだけど、いいか?」

「なんで、やがります?」

「キスしても、いいかな?」

「……しょうがないなぁ、ケースケくんは。甘えんぼさんなんで、やがりますから」


 雨音は優しく笑い、目を閉じる。

 ケースケは雨音に顔を寄せ――玉虫磨穿を雨音の腹部に突き刺した。

 できるだけ苦しまぬよう、一切の躊躇のない一刺しで命を奪う。僅かに身体が跳ねるが、苦悶の声一つ挙げずに、雨音の命の灯火が消える。

 血の味のファーストキス。生命が燃え尽きる直前、雨音が唇を離して囁きかける。


「――――」


 その言葉に反応する前に雨音の瞳から光が消え――


 直後、ケースケの身体は横殴りの衝撃で吹き飛ばされた。

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