6-2 ケースケ

「(くっ、まじぃ。今のは危なかった)」


 突き刺された腹部を抑えながら、ケースケは焦る。傷は塞がっているが、失った分の質量は戻らない。このまま戦い続ければ、いずれ削り殺されるか、脳を破壊されて死ぬ。

 ケースケにとっても、風香の戦い方は予想外だった。あの調子でショゴスを操り続ければ、脳に障害が残ることは必至なのに、まるで手加減しようという意思が見えない。

 その傾向は以前からあった。自分がショゴスであると知らずに『銀の操手』を使い続けた結果、風香の脳死は進行し、思考が徐々に支離滅裂なものへと変わって行っている。今この勝負に勝てたとしても、風香はいずれ自滅するだろう。


「(だが、俺は今この勝負に勝たなきゃいけないんだ)」


 風香を殺すためだけなら、この場を捨てて逃げるだけでいい。後は放っておけば勝手に死ぬ。だが、自分が負けたり逃げたりすれば、風香は雨音の遺体に筆舌に尽くしがたい行為を行うだろう。それだけは死んでも許せなかった。

 雨音を生きているままで救うことはできなかった。ならば、せめて、死後の尊厳くらいは守らなくてはならない。


「(しかし、どうする?鉄パイプくらいなら、そのあたりでまた拾えるとしても、風香に近づく方法がねぇ。速さには慣れてきたが、攻撃が多すぎて、目で追い切れねぇ)」


 ケースケがどれだけ素早く動けるようになろうと、死角からの動きには対処できない。必ず捌ききれない攻撃が出てきてしまう。物量で圧倒的に負けている以上、その問題だけは避けて通れない。


「(考えろ。バカな頭フルに使って、思いつけ。風香は明日からの命を削って、更に強くなった。俺はどうだ?これ以上、いったい何を捨てれば、あいつに勝てる?)」


 瓦礫から少し顔を出し、風香の様子を伺う。少女は目・鼻・耳から血を滴らせ、兄の名前を何度も呼びながら、羅刹のような笑みを浮かべて周囲を探している。その周りでは無数のショゴスが彼女に付き従っている。

 雨音の遺体を盾にとれば、簡単にケースケを誘き出せるのだが、脳死の影響かそこまで頭が回っていないらしい。だが、いつその考えに至ってもおかしくないので、あまり悠長にもしていられない。


「(何か、何かないのか。雨音を守るための方法――)」


 ――ここにいるのは、涼森螢助じゃなくて、ケースケくん。自分の未来を捨てて、私に会いに来てくれるようなおバカさん。

 視界に入った雨音の姿を見て、彼女の言葉を思い出す。


「……あぁ、そうか」


 ここに来るまでに、さまざまなものを捨ててきた。自分の家族、自分の過去、自分の未来。自分に残っているのは、雨音との思い出くらいなものだと思っていた。

 だが、違う。自分にはまだ、捨てられずにいるものが一つある。

 それはきっと、風香には決して捨てられないもの。ケースケと風香は似た者同士だが、その一点に関する認識だけはまったく異なっていた。


「涼森螢助じゃあ、風香には勝てない」


 覆しようのない事実を口にする。それは工場に来る前からわかっていたことだが、決意の証として改めて口にした。一線を越える覚悟はできている。愛する女の言葉が、彼の背中を押してくれた。


「だから、俺は涼森螢助を捨てる。俺は涼森螢助じゃなくて、ケースケだ。ここからは俺自身が相手してやるよ、風香」


◆◆◆◆◆◆


「……あぁ?」


 ケースケを探していた風香の眉がつり上がる。眼前、探し人であるケースケが自ら姿を現したからだ。

 だが、それこそがおかしい。正面対決では、風香の方に軍配が上がる。隠れて不意打ちを狙うでもなく、なにか特別な用意をしている様子でもない。上着を脱いで、全身包帯の身体を曝け出しているくらいだ。

 新しい鉄パイプを握ってはいるが、さして怖いものではない。真っ向勝負でケースケが勝てる道理などあるはずがないというのに。


「……てめぇ、頭イかれてんのか?」


 風香がそう思うのも無理はないだろう。これでは先ほどの繰り返しだ。

 もし、ケースケが、先刻の鉄パイプによる奇襲を考えているのだとすれば、それこそバカな話だ。風香が脳に損傷を受けているとしても、同じ手が通じるほど甘くはない。

 奇策は必要ない。投擲に気をつけつつ、ショゴスをけしかければいいだけの話だ。

 風香の号令一下、あらゆる角度からショゴスの攻撃がケースケに降り注ぐ。無数の小型ショゴスで動きを封じながら、大型ショゴスの触手でとどめを刺す。

 が、ケースケはその多角的攻撃を、すべて紙一重の動きでかわしていく。避け、受け流し、時に攻撃に転じながら、少しずつ風香へと近づく。

 驚いたのは風香だ。ケースケの反応速度は、先刻よりも明らかに速くなっている。今までは正面からの攻撃に対しては素早く反応できていたが、背後からの攻撃に対しては一拍遅れていた。いくら身体能力を向上させたからといって、ケースケは武術の達人というわけではない。死角からの攻撃に反応が遅れるのは当たり前だ。だが、今はそれがない。


「てめえ!一体、何をしやがった!?」


 こんな短時間で急激に強くなるなんてことはありえない。なにか種があるはずだ。だが、それを考えるのももどかしく、風香はさらなる物量で圧倒しようとする。脳が焼けつき、高熱を発するのにも構わず、ショゴスの攻撃をさらに加速させた。

 どれだけ反応速度がよくなっても、限界はある。加速した攻撃についていけず、触手がケースケの顔や背中をかすめた。切断された包帯が、地にはらりと落ちる。


「な……」


 包帯の下から現れた玉虫色の肌を見て、風香が顔を引きつらせる。肌に浮き上がった無数の目玉が、ぎょろりと風香を睨みつけていた。


『てけり・り!てけり・り!』


 肌に浮かびあがったのは目玉だけではない。目玉と同じようにして浮き上がっていた無数の口が、呪いの唱和を開始する。

 そこに立つ存在を人間と呼ぶのは憚られた。人間の名残はその形状と頭髪ぐらいなもの。全身に目と口を生やし、玉虫色に輝く肌を持つその姿は、正真正銘の化け物だった。


『……おまえに勝つには、こうするしかなかった』


 全身の口が一斉に開き、輪唱するように同じ言葉を紡ぐ。その声は涼森螢助のものではない。老人のようであり、若者のようであり、男のようであり、女のようであり、そのすべてであるような声が、全身の口からまったく違う声音で話す。

 若輩とはいえ、風香もショゴスの専門家。ケースケの状態を正確に把握し、目を見開く。


「う、嘘だ。ショゴスの姿は、脳の記憶に引っ張られるはずだ!そこまで化け物じみた姿になれるはずがない!自分が怪物だと受け入れればなれるかもしれないけど……それこそありえない!そんなおぞましい姿、受け入れられる人間がいるはずがない!」


 相手を倒すために、より戦闘に適した身体に変化させる。その理屈はわかる。だが、人間が求める強さというのは、英雄の強さであり、怪物の強さではない。

 人は尊敬を集めるために強さを求めるのであり、尊敬なき強さに価値はない。だが、怪物の強さはその逆だ。それで力を得ることができたとしても、人間は本能的に忌避する。醜く、人々から嫌われるだけの存在など、無価値だからだ。

 しかし、ケースケはそれを受け入れている。そうでなければ、このような姿にはなれない。心から受け入れているのでなければ、ここまで非人間的な姿にはなれないはずなのだ。


『受け入れてくれた奴がいるんだ』


 ケースケは、見るもおぞましい異物に変じた自らの右手を見下ろす。

 かつての自分なら、こんな化け物じみた姿を不気味に感じただろう。だが、そんな自分に、生まれてきてくれてありがとうと言ってくれた人がいた。ほんの少し前まで、自分の出生を呪っていたというのに、その一言だけで自分のことを好きになることができた。


『俺は涼森螢助じゃないって。涼森螢助としての俺じゃなく、ショゴスとしての俺を受け入れてくれた。だから、俺も自分が人間じゃないことを受け入れられる』

「そんなものは理屈だ!いいか!?どれだけ強大な存在になったとしても、本質は人間でなければいけないんだ!恐れられるだけの怪物になることに何の価値がある!」


 類似した存在でありながら、風香には同じことができない。彼女は人間であることに拘っているから。いくら悪行を重ねようとも、風香は人間であることを捨てられない。


『あぁ、なんだ』


 それが、自分と風香の最大の違いなのだと、ケースケは思った。たった二日間の出会いが、二人の死生観を決定的に別ってしまった。


『おまえ、俺が怖いのか』


 ぞくりと風香の背中に鳥肌が立つ。その姿のあまりのおぞましさ。得体の知れなさ。彼女は生まれて初めて、未知なるものと対峙する恐怖を感じた。

 目の前にいる生き物は兄ではない。文献で読んだどのショゴスにも該当しない。

 風香は思う。自分が対峙している生物は一体何なのだ?


「わ、私は人間だ!探究者であり、超人であり、誰よりも強いんだ!」

『俺はショゴスだ。幽霊であり、怪物であり、誰よりも恐ろしい』


 自分を奮い立たせるように叫ぶ。そうありたいという思いを言葉に乗せて。


「私は涼森風香!涼森家の技術を受け継いだ、正統後継者だ!」

『俺はケースケ。自分自身の過去を持たず、誰でもない化け物だ』


 相手に言い聞かせるように吠える。そうであるという想いを胸に縫い付けて。


「お兄ちゃん、私は――」

『姉さん、俺は――』


 最後の言葉は確認ですらない。二人の間には、それ以外の道は残されていないのだから。

 そう、これは一つの儀式。向かい合うガンマンが、上空に向かってコインを投げるようなもの。兄妹であり、姉弟である二人の最期を告げる鐘。


「『――おまえを殺す』」

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