第8話
「少しは安心した?」
解放された女性はかなり背が低い。拘束用の黒い服は、どこか狂介たちの侵入用の服に似ていた。センサー類が入っているのだろう、と狂介は憶測を付ける。死なない程度に、弱らせるためだ。嫌なやり方だ。そう狂介は思う。
「そうね。狂介。少なくとも殺す気はなかったようよ。……ここに閉じ込めた誰かは」
「あ……ありがとうございます」
解放された女性が言う。
「いいのよ。これがわたしたちの任務。……名前は?」
「え……えっ? 私は……」
「まだ錯乱してるようね。落ち着いて。そのうち思い出すから。とりあえずAさんと呼ぶわね」
「は、はい」
窒息しそうなほどに息苦しかった「悲哀」が薄れて行く。まだ完全ではない。それでも、まるで大海が湖に縮小していくような――開放感があった。悲しみはもう、海ではない。
『「悲哀」の濃度は半分以下、というところかしら。体感的には』
狂介は無言で頷く。あるいは、もっと楽になっている。
『まだ、声は出さない方がいいのか? シロノ』
『対人攻撃兵器はあまり残っていないようだけど。念のためよ』
「押し込められた」「閉じ込められた」A、の姿、そしてその周辺、はサイコハザードの影響を受けていない。
「悲哀」の主、Aの記憶に従って、閉じ込められた当時の姿のままなのだ。
閉鎖隔離室の群れはしばらく続いて、肉の壁の中に消えていた。
この周辺まで電源も来ていなければ、AIの監視下にもない。
それでも動作した対人攻撃兵器を幾つか、シロノが爆破する。
「つらかったでしょう? ……何か、あるの? 何を探しているの?」
仮にA、と呼んでいる女性は、周囲を見回していた。
「私、誰かを助けないと……その人が、死んじゃう……」
Aは、見ているうちに力を失っていくようにさえ、思えた。
助かった喜びが支えていた脚が、がくりと折れそうになる。
「大丈夫。その人も助けるわ。栄養剤、飲める?」
Aがゆっくりと頷く。
シロノはバックパックからドリンク剤を出す。本格的な救難用だった。
しばらくは、持つはずだ。
『警戒を怠らないで。しばらく休みましょう。今からが大事よ』
肉の壁が姿を変えていく。鋼の壁が遠くへと広がって行く。
「あなたの記憶ね? ……続けて」
Aは小さく頷くと、ともすると焦点のぼやけそうな目で、必死で遠くへと視線を伸ばす。
「随分遠くまで様変わりしたわね。復旧したというか。……エレベーター?」
はるか上層階へと続くように見えるエレベーターが、遠くに見える。
「あれが大事なのね? 行きましょう。支えるから、ゆっくり」
「早くしないと……死んじゃう……あの、あの……どうして名前が出てこないの?」
かつかつ、としっかりしたシロノの足音。よろめくようなAの足音が続く。
「混乱してるのよ。ゆっくり。いざとなったら頭を探ってあげる」
『Aさん、記憶にあること全ては叶わないかもしれない。……でも、わたしにできることは全部、やってみるわね』
悪いけれど、Aさんの願いが叶わないことなら、眠ってもらうかもしれない。シロノはそうは言わない。これ以上の衝撃は与えられない。サイコハザード収拾のためとはいえ、眠らせたくはないのが本音だったが。
「私は、死んでもいいから……」
Aはエレベーターの上の階を見詰めていた。
「そんなことは言わないで。どうしたいの? その、誰かがエレベーターの上の階にいるの? いるのね?」
シロノは励ますように言う。
一方で、鳥埜と狂介にだけ、思念を送った。
『どうする? 記憶の中にいる誰か、を再現して嘘をついてもいいの。サイコハザードが消える可能性さえある。それとも、実際にどうなったかを調べて、Aさんの希望通りかどうか調べてもいいわ。絶望させるのだけは、なしよ。これだけAさんが弱っているからこそ、「悲哀」は発生した。広がった。……簡単には済まないわ』
『ねえ……これも嘘になっちゃうけど……あたし、記録さえあればその誰か、を見せることはできると思う。どう思う? シロノ教授、狂介。声があれば、音が充分にあれば、そこから幻は作り出せる。幻と現実の間っていうか……』
鳥埜の思念は、悲しみを含んでいた。
Aを取り囲むように、シロノ、鳥埜、狂介は座っていた。
『鳥埜に取っちゃ「音」が実体だもんな。他のものは一切関係ない。……それも一つの現実だよ』
鳥埜が狂介に伝えて来るイメージは、全てが音だけでできていた。
乱打されるピアノの音。かつて狂介が鳥埜に出会ったとき、それがイメージに見えた。
鳥埜はたった一人で、廃墟でピアノを弾いていた。
ハザードであるドームの外で、の出来事だった。
声だけで人が再現できる。過去の記録でも。それ自体は鳥埜にとって不可能ではないのだろう、と狂介には思えた。
鳥埜の永遠の音。
『でも、鳥埜さん。それが嘘でもあるのならば、まずは、何があったか調べましょう? いつの出来事で、誰が、どうなったのか。Aさんの深層に、ダイブしてみるから。その誰か、が生きていないとは限らない。死んでいるのが仮に事実だとしても、Aさんへの伝え方次第でもあるわ。――慎重にやる必要はあるけれどね』
まだサイコハザードに浸食されていない領域と、四人がいるエレベーターホールが、やがて接続された。ほぼ中央階から最上層までのエレベーターが接続される。
当然だが、中央管理区の最上層部からの連絡はない。予備棟へ避難している。
電源も復旧していない。動くはずのないエレベーターが、四人のいる階に存在している。
『Aさんが作り出した、半分現実で、半分嘘の世界。どちらでもない世界。Aさんと調べに行くわ。あなたたちは……』
『同行します。守る義務がありますから』
狂介の声に迷いはない。
『さっきあたしが言ったプラン、考えてみてください。同行します』
鳥埜も同じだった。
ほんのわずか、四人で座っている間にも「悲哀」は薄れ続けていた。
やがて消えていくだろう、兆しがあった。
「実績」はアピールできるだろう。作戦は続けられる。シロノはサイコハザードの主を救えることに、安堵していた。いや、本当の救済はこれからだ。虚実の混じった世界でAさんを救う。何としてでも。
『故意に起こしたサイコハザードなのか、やむを得ない事情があったのか、それも調べないと。まあ、それは後でね』
エレベーターの黒いドアが、ゆっくりと開く。
その向こうは、原理的には光るはずのない照明で、眩く光っていた。
まだ、電源はここまでは復旧していない。だが、照明は光っている。
虚像――現実。
少なくとも、エレベーターを作り出すほどには、Aの望みは強いものになっている。
「わたしに、助けられるかな……全体は……どうなったんだろう」
力なく言うAの肩を、シロノが支え、狂介が支えた。
「俺らがついてます。何があっても、守り抜きますから」
「あたしも。なんか、だんだん全体像が見えて来てる……? 少し思念が暴走しますけど、追いかけさせてください。「事件」が、見えるような気がする。だってここは……」
言葉を切って、思念で鳥埜は続けた。
『エレベーターだけれど、同時にAさんの心の中だもの。二つの、世界。Aさん次第で、良い方にも変えられる』
四人がエレベーターに乗り込んだ。
静かにドアが閉じる。
「怖い……この先を、知りたくない……」
Aが呟く。
「どこへ、行きたいの?」
シロノがAの肩を抱いた。Aが恐れている間は、何も起きない。何も起こせない。
エレベーターは、微動だにしなかった。
本来はサイコハザード内には何のエネルギー供給もない。ここにエレベーターがあるのは、あくまでAが望み、作り出したからだ。
まだ、幻想のエレベーターだ。だが、強く望めば現実になる。
動くとすればAが望んだとき。それは狂介にも鳥埜にもわかっていた。
「どこまで上がればいいんだろう……最上階?」
Aの呟きだけが、エレベーターの中に響く。
「ねえ、じゃあ、何が起こって欲しいのか、あるいは何があったのか、思い出して見る?」
温もりの有るシロノの声。
「私を……助けるために……彼は話をしに……」
「彼、は誰かに話をしにいったのね?」
「……はい。中央管理区、特殊捜査課の長官です」
「それは……凄いわね。でも、例え、話が失敗したとしても、命までは取られないでしょう。相手が長官ならば。追い返されたか――他にも措置があるの。恒久的凍結措置って知ってるかしら」
「……いいえ」
「監禁とは違うの。UクラスやSクラスは強すぎるから、通常の施設では簡単には行動を拘束できない。だから、監禁措置を受けることがあるけれど、場合によっては、死と生の境で凍結されることがあるの。その人の主張、能力にもよるけれどね?」
「――死と生の間? 生きているんですか?」
「蘇生措置をすれば。そうでなければただの石の板みたいなものよ? どうしても主張を諦めない人は、曲げない人は、そういう措置を受ける。正当性があれば、いつか、その主張をもう一度検討するため。――その人は、あなたのためなら待っていてくれる?」
「…………わからないけれど、賭けてみます」
「じゃあ、強く望んで。その人に会えるように」
シロノはAの目を覗き込む。意志を確かめるように。
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