希望と絶望の器
歌川裕樹
第1話
壁際にいるはずだった。ふと、壁の手ごたえがない、と気づいた時には遅かった。
「嘘だろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ」
布団から落ちている自分に気付く。落下先を見た。コンクリート。ずっと、はるか、下。
空中に放り出されていた。
布団だけ、空中に浮いていた体だ。
咄嗟に、せめて落下速度を落そうと能力――「飛行」を使おうとして――失敗した。
いや、狂介が自分で判断できる限り、「能力」は綺麗さっぱり消えていた。愕然としたが、ショックなんかを受けている暇はない。
Aクラス――最高級に近い能力者だったというのに。
しかも、落下しているのは、通っている「能力者の学園」――他の学校は名前を付けて、この巨大な学園は、単に「学園」と呼ぶのが普通だ――の屋上だった。
最後にできることはないか。狂介は受け身の姿勢を取った。
直感だが落差十メートルはある。無事では済まない。
Aクラスの能力者としては、何もできないというのは有り得ない話だった。
が、驚いている暇もない。
強かに背中を打った。頭はどうにか守り切った。落ちてからしばらく、息もできなかった。身体の痛みを、息を止めて調べる。――背骨は大丈夫だった。肋骨が折れているか、罅が入っている。
「シロノ……抜き打ちテストか?」
痛みと痺れに堪えて、狂介はどうにか上半身を起こす。身体が言うことを聞かない。しばらく呆けたように、そのままの姿勢でいた。
以前、同じように、起きるなり落下、というテストがあった。あの時はぎりぎりで、飛べていた。だが、今回は何もできなかった。
「死ぬだろ、これじゃ」
どうにか、立ち上がる。間違いない。学園の屋上だ。見晴らしはいいが、そんなことは今は関係ない。
「シロノ馬鹿なんじゃねえの……痛っ」
狂介は最強かつ最も馴染のある、教授の悪態をついた。日頃から訓練を積んだ、強靭極まりない身体が、命を救った。
シロノ・ナザレ教授。悪質な突発的テストを行うことで、学園で有名である。過去、何人も過酷なテストを受けている。
Uクラス能力者。学園で敵う者はいない。
能力なしでは自分への『治療』も使えない。何も出来ない気がする。
いや、今に限って言えば能力者でもなんでもない。死んでいてもおかしくはなかったのに、生きているのだけが救いだ。
「能力が消えた?」
爽やかな鳥の声が聞こえる。まだ朝だった。
「……何がしたいんだ。シロノ」
狂介の能力封鎖をしたいのならば、シロノならば可能だ。
「鳥埜は? 鳥埜は大丈夫か?」
重い身体を引き摺ると、狂介は学園の屋上から降りていく。
折れた骨など、鳥埜の事を思えば気にもならなかった。
「くっそ……思念も飛ばせない」
鳥埜に連絡が取れない。思念で会話できれば一瞬だというのに。
痛みも忘れて、鳥埜のいそうな場所を回る。
シロノ教授の、悪質な抜き打ちテスト。狂介はそうとしか思っていない。
まるで非――能力者になっていた。
知り合い、教師、片っ端から声をかけて回り、音楽室にいた鳥埜の所に辿り着いたのは、一時間以上経ってからだった。
軽やかなピアノの音が、狂介が現れると止まった。
「……無事か? 鳥埜」
「ど、どうしたの。顔色悪いし……骨折してるじゃない!」
鳥埜がピアノの前から立ち上がって、狂介を支える。既に骨まで透視されていた。
鳥埜も狂介と同じAクラス能力者だ。
「いや鳥埜が無事ならいいんだ。……心配した。よかった」
「何言ってるの? 今すぐ治療するから、待って」
鳥埜が狂介の前で、目を閉じる。
ほんの一分ほどだった。
鳥埜は、狂介の「健康体」――裸体のイメージを瞬時に思い浮かべ、イメージに現実を合わせる。現実を否定して、イメージを肯定する。それが能力の基本だ。
異性の裸体を恥ずかしがっている場合ではない。鳥埜はくっきりと、狂介の全身を強く思い出す。
――過去何度も治療した。それに今は緊急事態だ。骨が、肺に刺さるのではないか。そんな懸念もある。
骨まで含めた狂介の全身をくまなく、鳥埜は再現する。
「治ったはずだけど……どう? 痛くない?」
鳥埜が、焦った口調で聞く。
「あ、ああ。元々痛みは忘れてた。――治ったっぽいな。骨が折れたとこは」
狂介は痛みには強い。無造作に、身体を捻って見せた。
「何でそんな怪我したのよ。もっと早く連絡してよ」
鳥埜が口を尖らせる。心配を通り越して、責めている。
「能力が全然使えないんだ。今……あ、携帯あったか。俺ら使わないもんな。普段。俺が馬鹿だった」
「全然使えないって……どういうこと? 誰かに何かされたの?」
鳥埜は目を丸くしている。大事件か? と疑っている顔だ。
「……シロノの抜き打ちテストじゃないかと思ってる。証拠はないけどな。――文句言いに行ってみるか」
鳥埜が首を傾げる。
「なんでシロノ教授が? テストにしても、能力奪っちゃったら意味ないじゃない。――いいや、行こう。教授ならきっと、能力も治せる」
真っ白な地下研究室。円形に白く光るデスク。影のない部屋。床まで光っている。
「私のテストじゃないわよ。狂介くん」
シロノは純白の長い髪を、指で弄る。学園では白衣。何もかも白い。
「他の誰があんな悪質な……」
狂介がそう言いかかる。シロノが手で止める。
「以前のテストは謝るわ。あなたが空中で寝ていたのは、わたしのテストの記憶――恐らくは「恐怖」が蘇ったからでしょうね。――謝るわ。トラウマになってたのね。狂介」
シロノが立ち上がると、頭を下げる。白く長い髪が拡がる。すぐに椅子に座ったが、謝罪は珍しい。
死んでないから、いいじゃないの。そのくらいの言葉は、覚悟していた。
「……現象の解釈を続けるけど、そこまでは、能力はあった。自分で、屋上まで移動したっていうことね。原因は、何かがあなたの記憶を、強制的に掘り返したから。「恐怖」がキーよ。そこで能力が消失した。――でも、考えてみて。狂介を無駄死にさせるようなことを、わたしがするわけないでしょう? これから能力の治療よ。身体は――随分綺麗に治したわね。鳥埜さん」
「……大体わかった。聞いていいか。シロノ」
「なんなりと」
「俺だけじゃなくて、あのテストを受けた奴は、「恐怖」に駆られたらいちいち校舎の屋上から落ちるのか?」
「――そうなるけど、落としたのはあなただけ。――後で念のために記憶、消しとく?」
軽く言いやがって。と、狂介は思ったがシロノに噛みついても、いいことは何もない。
学園最強。下手をすると、ドーム最強の能力者だ。研究結果でも能力でも仰ぎ見るレベルのシロノに、あれこれ言う積りはない。物言いが酷い時はあるが、守って貰ったことも何度もある。
「能力と、余計な記憶、両方頼む。――で、誰が俺の能力を?」
元通りになるのならば、狂介として文句はない。痛い思いならば、ガーディアンの任務で日常茶飯事だ。爆死しかけたこともある。だが、どうやって能力を消したのか、誰がやったのかは気になる。
「……調べないとわからないけど、局所的なサイコハザードの発生。かしらね。報告はないけど。――能力を失ったのは痛いけれど、急いで再開発するわ。最速でね」
「鳥埜が授業から戻ってくるまで半日はあるだろ。……それまで何してもいい。治るんだったら、実験台になる」
本気だった。シロノの実験台というのはかなり危ないが、治るのならそれでもいい。
「――何をしてもいいの?」
シロノが目を輝かせる。ねっとりとした視線でシロノが見る。
「……それは嬉しいけど、半日じゃムリよ。元に戻るまで、もう少しかかるわ。それまで不自由なのは我慢してね?」
「回復は状況によるわよ。瞑想槽に入って」
部屋の隅の白い棺のようなものが、ゆっくりと開いた。
服は脱ぐように、と指示が書いてある。以前、実験的に入ったことはある。
まるで死んだみたいだ、とその時は思った。
「ペンを一センチ、触れずに持ち上げられるだけ。それじゃ能力者とは言えないわ。あなたが汚染されているかどうかもチェックしておくから。何しろ一番強いだけあって、」
棺の蓋を締めながら、シロノ教授が言う。
「あなたは外からの影響も受けやすいのよ。わたしは別。ここは地下深くだから」
地下の研究室。
通常の手段ではシロノ教授の実験室まで入る事さえ、不可能だった。
研究室がはるか地下にある棟に、紺色に塗られた壁がある。
その場所、「ここを殴れ」と書かれた壁を、拳に血が滲むまで狂介は殴った。
それで地下へと、教授に『転送』されたのだ。
瞑想槽の中は液体で満たされて行く。狂介は抵抗せずに、身体を浸していく液体に沈んでいく。完全に沈んでしまおうと、それでも呼吸は可能だ。
点滅する光源一つ以外、完全な闇に包まれる。
まるで死ぬみたいだ。やはりそう感じる。
どうあっても治す。棺桶だろうが何だろうが、使えるものは使う。蘇ってでも治してやる。
――狂介は身体を委ねる。
抵抗すれば、いつまでも液体を吐き続けることになる。
滑らかに液体が覆い、槽が満たされる。
音は消え、静かな明滅だけに意識が集中していく。
能力の覚醒。いつか味わった感覚。それだけが意識を占める。
極低音が、液体を揺らしているだろうか。
懐かしく、緩やかな眠りに誘われて行った。
意識は完全には消えない。
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