第7話
シロノ、狂介、鳥埜ともに気配は消している。追われる可能性は低い。
誰かに先に「悲哀」、「驚愕」の本体まで辿り着かれるのは、避けなければならなかった。
なぜこんなことになったのか、本体――能力者を殺されれば理由を聞けなくなる。
早期解決にも役立たない。
理由を聞けば、もし原因を解決できれば、サイコハザードが急速に縮小し、場合によっては消える。それが最善だった。
さもなければ、シロノはサイコハザードの「中にいる誰か」を眠らせるつもりだった。
『邪魔を止めるしかないわね。追跡者を排除する。――今は大人しいのに。肉の壁を攻撃でもされたら防衛反応が起きるわ。それは阻止する。……どうやるか』
『あたし、多重化しましょうか?』
鳥埜が真剣な目で言う。
『狂介のサポートに専念して。わたしが多重化するわ。――こういうことでしょ』
気配の消えた、殆ど見えないシロノがもう一人、現れる。
『もう一人で三人。わたしはここに残る。増やした二人がかりで狙えば足止めはできるでしょ。空間を歪ませて閉じ込める。――じゃ、行って来るわね』
三人に増えたシロノのうち、二人が肉の洞穴を戻って行った。
『つくづく化け物っすね……』
『あら、ありがとう。鍛えた甲斐があったわ』
増えたシロノから、誇らしげにも思える念が届く。
『俺なんか、足手纏いなだけじゃないですか?』
『そんなことないわ。サイコハザードの吸収、凄い勢いじゃない』
精神の奥へ、奥へとサイコハザードの「悲哀」を押し込め続ける。狂介としては他にできることがない。
精神の海の底は充分に広く、悲哀に汚染されていても余裕はあった。
少しずつ、「悲哀」と同化していく。何が悲しみの元となっているのか、僅かだが理解できつつあった。誰かとの、別離。そう感じられる。
色のない「悲哀」が滝のように精神に流れ込む。
狂介の海を、悲哀で染めていく。
まだ余裕はあるが、いつまでも耐えられるものではない。
「シロノ教授」
「どうしたの改まって。狂介」
「この上、「驚愕」まで全部吸い込めるかどうか、自信がなくなってきた」
「そうね……濃度は増していくばかりだし。迷惑かもしれないけど一度、外で放出しないと持たないかもしれないわね。サイコハザードの「放出」も計画に入れましょう」
精神の海から「悲哀」を分離する。一気に吐き出す。サイコハザードを吐き出した先にばら撒くことにはなるが、濃度はずっと薄い。余程、敏感な者以外は、耐えられるはずだ。
「シロノ」二人は、気配を追いかけていた。
気配を消しているつもりだろうが、侵入者は簡単に見つかった。
派手な立ち回りをするつもりはない。周囲を傷つければ「悲哀」が暴れる。
『『武装はまあまあ。能力は大したことないわね』』
侵入者は重装備のアーマーを着て、対人用と思われるライフルを構えていた。
戦闘経験はありそうだが、不意打ちすれば無力化できる、と判断する。
シロノ二人はそう思う。
『『!? 気配が増えた?』』
『呼び込んでいる?』
『自分の位置へ、外部から侵入させている。人員が増える』
破壊の意志を感じ取ったのか、壁を伝う血管が震える。
『明らかに邪魔をしに来ている。しかも能力者』
『悲哀をさらに暴走させようとしている』
『『加速』』
シロノ二人は、一気に侵入者へ向けて走る。
『敵は五』
『どうする。混乱させる?』
シロノはシロノと、頷きあった。動きを止める。そう決めた。
逡巡した。細い道だった。攻撃を加えれば肉の道が破損する。
『――遅れた!』
侵入者が放り投げようとした手榴弾を、シロノは腕からもぎ取った。
だが、同時に、手榴弾が爆発する。侵入者は、サイコハザード――肉の壁――にダメージを与えるのを優先したようだった。
『この空間を隔離。無力化する!』
シロノは虹色の閉鎖空間を作る。侵入者ごと、こちらの空間への干渉を防御した。
『――サイコハザードが苦しんでいる。……警戒ね』
痛みは、攻撃があったこと自体は、サイコハザードに伝わってしまった。
分離したシロノは、シロノ本体に向けて「跳ぶ」。一人に戻る。
『やられたわ。邪魔しに来ているだけだったようね。――周りを見ればわかるわね』
狂介、鳥埜と共にいるシロノが言う。
痛みにのたうつように、肉の壁が蠢く。
樹の幹のように太い、血管が激しく脈打つ。
全員で吸収している「悲哀」が、黒色に、精神の奥で変わる。
『お願い、抵抗しないで。悪意はここにはないから』
鳥埜が祈るように言う。
『落ち着いてくれるといいけど、しばらくはこのままよ』
歯が、棘が、壁から生える。
攻撃に対抗しようとするのは、当然だった。
怒りに駆られたような「肉の壁」は、それまでとまるで違うものに見えた。
傷つけずに歯を、棘を受け止めなければならない。
『受け止めるから、二人も気をつけて』
シロノの伸ばした手の先で歯が、がちりと鳴る。
『事態が収拾できなくてもいい。そういうことね。たぶん、これを仕掛けた誰かはもうドームにいないわ』
元々、攻撃の意図を持つ者など、誰もいないのかも知れない。ビルの防衛機構が訳も分からずに――分からないだろうが――攻撃しているのかもしれない。
あの能力者は――手榴弾を爆発させた能力者は、彼らなりのルーティンでサイコハザードと対峙しただけなのかもしれない。理由は、今は深くは追わない。
体を巻き取ろうとする棘と触手が、シロノの作り出した障壁で壁に押し付けられる。
『ただのサイコハザードの除去じゃないかよ。何で邪魔するかな』
『悪意も考えられるけど、防衛システムを含めた判断ミスかもしれないわ。狂介。――みんな、集まってて。守り切れない』
『落ち着いて。狂介。あたしも少しは守れるから。「悲哀」の防御反応を抑え込まないと』
鳥埜は狂介の手を引くと、自分の周囲に球を作り出す。
棘は、触手はその中に入る前に弾かれた。
『納得はいかない。もしドームを壊したら、どれだけ被害が出るか分ってるんだろうな。脱出だって命懸けだぞ』
カーゴで隣のドームまで行くだけでも、無事とは限らない。
能力者ならば多少はハザードを弾いて行けるが、非――能力者は幸運を祈る以外に手はない。隣のドームまで、陸路で週単位の時間がかかる。
「これ以上邪魔させなきゃいいんだろ。もう、見かけ次第、邪魔な奴はぶっ壊す。――壁には優しくな」
「わたしもそのつもりよ。焦らないで。作戦を練りましょう。邪魔は想定して」
シロノと鳥埜が広げた球体の中にいた。
ここまでは「悲哀」の攻撃は及ばない。
『いきなり侵入者が爆破しにかかるとは思わなかった。わたしの失敗よ。領域ごと凍結したけど、また新手がこないとは限らない。まあ、この状態で中に進んで来るのには、侵入者も苦労するでしょうけど。問題はこちらの進行速度も大幅に遅れるということね』
『牙とかは――包んで進めないか? 障壁を壁に合わせて、袋みたいに作って』
『――悪くないわね。採用する』
シロノは自分たちを包む空間を、部屋いっぱいに広げる。怪我をさせないように注意を払って、牙や棘を壁に押し付けた。
『何で俺たちをほっとかないんだろうな』
『全自動で、何であれ排除しようとしているか、知られたくない事実か何かがある。そう思うしかないわ』
『何でもいい。下で戦ってるガーディアンをここまで上げられないか? 邪魔しそうなのは片っ端から迎撃でいいだろ』
『――それも悪くはないわね。自力で来れる者も多いわ。――指示したわよ。ロボットも含めて、攻撃力のあるもの一切をターゲットとする。出口もついでに確保して貰うわ。吸収した「悲哀」を吐き出さないとね』
鉤爪、牙、触手を覆い隠すように徐々に領域を広げる。その領域そのものを前に進める。そうして奥に進んで行くしか手はなかった。
能力の消費も激しくなるが、シロノと鳥埜の二人でどうにか持ちそうだった。
能力で作った袋が奥へ、奥へと入り込んでいく。
激しい攻撃は徐々に減って行くが、油断はできない。
シルフィードを泊めてある入り口付近は、他のガーディアンが占拠している。
「何が来ようと迎撃しろ」という指示だ。
――内部構造が途中から体内のようになっていますが
――そちらの位置を把握できません
――現在、侵入を狙うものはなし
『それでいいのよ』
と、シロノはまとめて返事をすると、奥へと袋状の空間を進める。
『そろそろ、本体の予感がするわね』
肉体内部に似た構造が、徐々に複雑になっていた。
『わかってるでしょうけど、「悲哀」に呑み込まれないでね。さすがに、感情が強い……』
水のように重さを持った感情。果てしない悲しみ。
重くのしかかるが、吸い込み続ける。
『あたしは、まだ、大丈夫です』
『頼むわね。鳥埜さん』
鳥埜は頷く。狂介としては、既に湖の水底にいるような圧力を感じる。
それでも自分の海は開き続ける。「悲哀」の流入に合わせて、吸収のための口を限界まで広げる。巨大な滝、大瀑布が幾つも狂介の「海」に流れ込む。
悲しいだけではない。……どこか、懐かしい。
『俺は……むしろ、知り合いみたいな感じ? 「悲哀」は「悲哀」でつらいけどな』
『狂介、あなたの所までサイコハザードが伸びて来たのは、無関係じゃないからでしょう。思い出してみて。話が通じれば解決も早いわ』
『ちょっと、肉の壁か床に触ってみていいすか』
『――狂介、近づきすぎると本当に危ないとだけは言っておくわ。肉体的にも、精神的にも』
肉体を拘束されたイメージ。捕縛され、意識が混沌としている。
壁に頬を当てた狂介が読み取ったのは、そんなイメージだった。
『拘束されて――薬物を使われている? 助けに行くとはイメージを送ったけど、反応がない』
さらに進む。
やがて内臓のような、肉の壁が消えた。
代わりに現れたのは、鋼鉄の檻が並ぶ場所だった。
かつん、とシロノの足先が固い床を踏んだ。
『ここからは、収容施設としての現実認識の方が強いみたいね』
開けた場所に、幾つもドアが並んでいた。電源は来ていない筈だが、照明が灯っている。
あまり快適そうではない、収容施設。鋼で閉ざされた個室。
部屋――と呼んでいいのか、狭い箱。外も見れないのかよ。そう狂介は思う。
「悲哀」を作っている誰かが、この場所の物理を維持している。
強く記憶された場所はそのまま、サイコハザードの中だろうと維持される。
閉じ込められた記憶が、強いのだ。
――こんな、箱みたいな場所じゃ、記憶から消えないよな。狂介は思う。
『能力者拘束用の施設か? これ』
『そうね。わたしたち用の牢獄。それも最悪のものね』
どの部屋を見ても、決して広くはない。
閉じ込めてしまえばそれまで、という作りだった。
元より運動することも、考慮されてはいない。
『ここまで拘束する必要は、まず、ないはずよ』
最も「悲哀」の強い部屋は、感じ取れた。
『簡単には開きそうもないけれど――わたしたちが「悲哀」に耐えられない。急ぎましょう』
派手な発射音とともに、自動排除の銃弾が三人を狙った。
「そう……そうなってるの。ここまで入ったことはないわ」
シロノの掌の先で、降り注ぐ銃弾が止まっていた。
『対人兵器は任せたわよ。鳥埜さん。こっちでも気をつけるけど』
鳥埜が銃弾を逸らすと、銃弾の発射口を睨む。ぎしり、と何かが折れ曲がった音が響いた。
『発射口、塞ぎました』
『ありがとう。部屋の壁を壊すしかないわ。対能力者用の壁だけど、隙はある』
2mほど下がったシロノは、部屋の構造を見ているようだった。完全にどこも透視できない、というわけではない。壁自体も破壊が可能だ。
シロノが壁の一点を睨む。
きん、と壁が軋み、壁に穴が開いた。
『このまま押し切る!』
シロノが壁に手刀を打ち込む。高周波のような耳に響く音が続いた。
『たとえU専用だろうと! 壊して見せる。Uの極限、規格外を舐めないで』
シロノの手刀が壁を切り進む。みしり、と壁に罅が入る。
『壊せるわ』
壁に空いた穴から真下へ、シロノが腕を振り下ろす。
「な……外に……誰か、いるの?」
部屋の中からか細い声がした。女性のようだった。
「いるわよ。大人しくしててね。あなたは助かる。助ける。信じて」
すっ、と「悲哀」の密度が下がったのが狂介にもわかった。
「教えて。ええと……あれから……あれって?」
顔を上げた女性は混乱していた。
「待って、もう少し壁を壊すから。そうしたら出られるわ」
シロノが身体を横にすると部屋に入る。拘束具らしいものを切った。
「薬物……意識を混濁させるためね。……あなた、立てる?」
「は、はい……」
足元は覚束ないようだった。シロノが片手で彼女の身体を支えたまま、器用に壁の隙間を抜けた。
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