電話
ミノリはガーデンテーブルの前で待っていた。澄んだ風に包まれ、ぼんやりと景色を見ている。
僕に気付くと少し嬉しそうにした。
「あ、おにいさん。あのね、まず、ごめんね。どうしてこの街に残ってるの、とか聞いちゃって。記憶喪失だって言ってたのに。いきなり毒ガスがどうとか言われて驚いたよね」
「いや、こっちこそごめん。お詫びにプレゼントがあるんだ。食べ物の袋、これなら自力で開けられるかなと思って」
僕はミノリの前にデザインナイフを置いた。ミノリは大喜びでそれを触手に取り、さっそくポテチの袋を切り裂こうとしている。
さっきやったようにミノリの本当の姿を知ろうとしたが、すっかり疲れ切っていてできなかった。
ミノリの試行錯誤を眺めながら、ぼんやりと考える。
実際、毒ガスで街が立ち入り禁止になっているなんて知った時にはショックを受けた。
ならば僕がこの街に残っている理由は、二つしか考えられない。
毒ガスを浴びさせたい誰かの罠にかかったか、
毒ガスを浴びたくて自ら残ったか。
まぁ、それ以上に、目の前のミノリが人間と言い出した方に驚いたが。
なら今までこの街で会ったバケモノも……。
まさか。そんなはずはない。
人間っていうのはもっと無愛想で恐ろしくて狡猾で醜悪で敵意に満ちていて、会話なんて成り立たなくて。
……僕はなにを考えているんだ?
「それとね、報告したいことがあるの」
ミノリの声で我に帰った。
額の冷や汗を拭い、先をうながす。
「お母さんと一緒に住めることになったんだ」
喜んでいいのか少し迷った。
一人で暮らせない娘を置いていく親。その元へ帰ることは本当に幸福なのだろうか。
僕の不安を見透かしたように、ミノリが微笑む。
正確には、微笑んだような気がした。楽しげに携帯電話を振ってみせる。
「お母さんが電話してきてくれてね。泣きながら謝ってくれたんだ。『置いていってごめんね』って。『置いていくくらいなら、もっといい方法いろいろあったのに』『施設に預けるとかできたのに』って」
デザインナイフがポテチの袋を大きく切り裂いた。ミノリは嬉しそうにナイフを置き、ポテチを一枚取った。
「わたし、すごく安心したの。お母さんは私の世話の頑張りすぎで冷静さを失ってたから。やっと元のお母さんに会えた気がした」
元のお母さん。
なんて悲しい響きだろう。
「遠距離恋愛中だった彼氏と結婚も決まったみたいだよ。新しいお父さん、介護士だって。きっと優しくしてくれるよね。正しい、冷静な方法で」
僕は大きく頷いた。
「明日、レスキュー隊が迎えに来てくれるんだ。お兄さんはお兄さんの理由で
まだこの街にいるだろうから、今日でお別れかな」
「……そうなるかな」
「ありがとう、お兄さん。ほんとうにありがとう。ばいばい」
ミノリに大きく手を振りながら、紫陽花の家を後にした。
俯いて歩きながら、ミノリの言葉を思い出す。
「お兄さんはお兄さんの理由でまだこの街にいるだろうから」
「今日でお別れかな」
ミノリは聡い子だ。きっと気付いているだろう。
僕が自分から毒ガスを浴びに来たとしても、誰かに置き去りにされたのだとしても、毒ガスの真実を知ってなお街から逃げないということは……。
ミノリはかわいかった。
サカタニはやさしい。
この街であった者たちは、みんなそうだ。
『人間離れ』している。
人間っていうのは無愛想で恐ろしくて狡猾で醜悪で敵意に満ちていて、会話なんて成り立たなくて隙あらば僕を貶めようとするものだ。
そんなのが跋扈する外の世界にひとりぼっちの世界に、戻りたいわけあるか?
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