厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんくじょうど)
「やあ。ここ、桜がいっぱいですごいだろう? 川に沿って何百メートルも桜が並んで」
ガス欠の車を捨て、菜の花と桜の河川敷を走り、息を切らせた僕を迎えるサカタニ。
「満開のときはもっときれいだったんだがな。毒ガスが薄れてきたせいか、ずいぶん散ってしまっているねぇ」
そう言うサカタニの前には、首をくくるための縄が下がっている。
息が切れていてまだ喋れない。
強い風がふいた。
桜吹雪が視界を埋める。
甘い香り。桜にしては甘すぎる、湿地から噴き出したという毒の香り。
やっと呼吸が落ちついてきた。
目を細めて、僕は言う。
「サカタニ。きみも、人間なんだろう? 僕の目がダメになっているだけで」
「おや。気づいたのかい。気づかない方が幸せだったかもねぇ」
サカタニはからからと笑った。喉が枯れていた。
「正確には、視覚ではなく視認知だと思うけどね。きみは目が見えている。でも見えたものがなんだかわからない」
サカタニはいつも以上の早口で言う。
「簡単に言うと、脳のうち見えたものが何か判断する部分が壊れてしまっていると推察しているよ。つまり、目でなく脳の問題だ。心因性か、それとも毒ガスの作用かはわからないけどね。両方かもしれん。いやぁ、しかし、あの毒ガスは本当に色々な効果を起こすなぁ。植物には一斉の開花もしくは枯死を。動物には死や、四肢の麻痺や、健忘や、認知の崩壊を」
流暢に喋っていたサカタニが、ふっと言葉を切った。
「……。私は、気がついたら文字が読めなくなっていたよ。化学だけが取り柄の女だったって言うのに」
サカタニは僕に背を向け、川の上流にあるビルを眺めた。
春霞ににじむ研究所。
「あそこの三階が私の職場だった。非正規雇用の研究員だったんだよ。俗に言うポスドクってやつさ」
ポスドク。ポスト・ドクター。
誰だかは思い出せないが知人にもいた。博士課程取得者で、任期付の仕事をしている立場だ。
「職場はこの通り毒ガスで崩壊したし、再就職ののぞみは薄いし、したところでこの先も貧困にあえぐだろう。……そもそも文字が読めなくなっちゃったからなぁ。論文が読めなきゃ研究にならない。ちょっとした事務もできない。博士卒の失読女なんて、どこも雇いたくないだろう」
サカタニの声が震える。
「職場では干されていたし、両親とはもともと仲が悪いし、離婚届も叩きつけてきちゃったし。行く場所がないんだよ、もう」
桜が散る。舞い上がる。
甘い香りがあたりを満たす。
「生きる場所がないんだよ、もう」
サカタニの声が潤んでゆく。
「どこの誰にも必要とされていない。それなのに生きてるなんて、認められない。そんな自分の存在が許せないんだ。つらいんだ。苦しいんだ」
サカタニが空を仰ぐ。
「おねがいだ。私を解放しておくれ……」
首吊り縄が揺れている。桜の枝から揺れている。僕が背を向けて立ち去れば、サカタニは首をくくるだろう。桜の枝を揺らして。花びらをたくさん散らして。そのためにサカタニは百花咲く毒の街へ来たのだから。
僕は一度だけ深呼吸した。強く瞬きして、目を開く。
「わかった」
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