桜迎

「……っ!」


 サカタニがびくりと震える。

 宝石のバケモノに見えていたサカタニ。

 その頬は暖かく、柔らかく、そして濡れていた。


「サカタニ、泣いてるね。もしかして今までも、泣きはらした目だったりしたのかな。気づかなくてごめんな」


 サカタニはただ震えていた。

 サカタニの頬を、サカタニの存在を、確かめるように優しくなぞる。


「僕も、たぶん、同じ目的でつくばに残った。いろいろなものを失くした。だけど、だからこそ、サカタニのこと助けたい」


「調子いいこと言うな。さっき言っただろう、行き場がないって。誰にも必要とされず惨めに生きるなんていやだ。ヒモになれとか言うなよ。私はそんなの『生きてる』と認めない……。誰の役にも立たないなんて……」


 サカタニの頬から肩、腕をなぞる。そして僕は、サカタニの手をみつけた。それを両手で、握る。


「サカタニ。僕のアシスタントになってくれないか?」


「……。え?」


 あまりに予想外だったのだろう。サカタニがきょとんとしているのがわかった。

 僕はほほえむ。


「僕、漫画家なんだ。サカタニ、絵が好きなんだろ? うちに来て、漫画を描くの手伝ってくれないか?」


「そこまで上手じゃない……」


「そんなことない。あの桜のスケッチすごかった。アナログであれだけ描けるなら充分だ。仕事はパソコンでするんだけど、ソフトの使い方は丁寧に教えるよ」


「でも……」


「それにごはん作ってほしいかな。サカタニ、理系なんだろ? 理系って料理得意そうだし」


 サカタニは涙声で小さく笑った。


「理系全員が料理上手なことはないさ。たしかに、私は少しだけ得意だけど」


「なら決まりだ。リアリティのある絵と家事で、漫画家のアシスタントとして、僕の不得意を埋める。合理的だろ?」


「きみは『合理』の意味を全然わかってないな!」


 サカタニはまた少し笑った。


「そして自信満々だな。鼻につくくらい、鼻高々だ」


「これが本来の僕なんだよ。人間たちにハメられて忘れてたけど」


 桜吹雪が僕らを包む。視界を薄紅に染め上げる。サカタニ以外何も見えないくらいだ。

 僕はサカタニの手を両手で包み、こめられるかぎり目一杯の優しさで言う。


「……それじゃ、一緒に帰ろう、サカタニ」


 サカタニは、頷いてくれた。



 僕はサカタニに携帯電話を借り、担当編集のツカダに電話をかけた。

 ツカダは泣きながら喜んだ。


「立ち入り禁止区域の手前まで、車で迎えに来てくれるってさ。国道354号の、つくば市とつくばみらいの堺だって。わかる?」


「わかる。案内するよ。きみの家に行くのか? きみの家はどこにあるんだ?」


 僕は肩をすくめてみせた。


「さあ? 迎えの彼女が知ってるんじゃないかな」


 僕らはひとしきり声をあげて笑った。




「さ、行こう」


 首吊り縄に背を向ける。


 ふと思い出し、僕はポケットから毒の瓶を取りだした。近くの桜の根元に置いてゆく。


 あらためてサカタニの手を握る。

 握り返される感触がした。若い女性の、やわらかな手の感触。


 サカタニと一緒に帰れるのは嬉しかった。

 ツカダが迎えにきてくれるのも嬉しかった。

 今ごろミノリが無事なのも嬉しかった。


 彼女たちとすごした数日は、悪くなかった。


 そう思うと僕がほんとうに怖かったのは人間じゃなくて、人との絆が切れることだったんだろう。

 だからサカタニを初めて見かけたとき、僕は話したくて泣いたんだ。


 人間が怖くて怖くて逃げて隠れて死ににきたっていうのに、僕は人間がわからなくなってなお「誰か」を求めた。「誰か」と関わることを選んだ。


 考えこむ僕とサカタニの間を涼しい風がわたる。

 と、その瞬間、ダークブラウンの残影が。


「……なあ、サカタニって、もしかして、髪長い?」


 サカタニはきょとんとしていた。


「なんでもない。気のせいだと思う」


 慌てて取りつくろうと、サカタニは首を横に振った。


「いや。あってるから驚いたんだよ」


 手をつなぎ、道路に出る。

 誰もいない道路の真ん中を、二人並んでまっすぐ進む。


 サカタニがぽつりと言う。


「きみの認知、治るのかもな」


 治っても、治らなくてもかまわない。

 人はサカタニがわかるし、文字は僕がわかる。

 料理はサカタニができるし、お金は僕が稼げる。


 そうやって二人で生きられる。

 だからどっちでも大丈夫だ。

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