ミノリ

 嫌な気分を抜こうと花見しながらやみくもにさまよう。いつのまにか田園地帯に入っていた。たわわな稲穂が揺れているが、収穫されていない。

 つい最近まで人の手が入っていた気配があり、ぞっとする。どうしてこの街の住人は、田畑を捨ててまで出て行ったんだ?


 そんな黄金の風景の向こうに、大きな家ばかりの住宅地があった。敷地内に納屋を持つ家が多い。この辺に農地を持つ地主たちの集落、といったところだろうか。


 その中でもひときわ大きな一軒家が気になり、近づいてみた。竹やぶに囲まれ、大きな門を構えている。門は手入れこそされているがかなり古い。一族ずっとここに住んでいるのだろう。


 門から中を覗いてみると、敷地に小さな裏山があった。そこに散らばる青色の花が気になった。どうせ誰もいない。勝手に門をくぐり、近づいてみる。


 青いのはアジサイだった。あまり手入れされていないようだが、それでも青色のかたまりをたくさん咲かせている。勝手に殖えたのだろうか、何本も群れて植わっている。ちょっと奇妙な光景だった。


 僕がアジサイを眺めていると、後ろから奇妙な音が近づいて来た。


 なんだろう、何かを引きずるような。いや、何かが絡まりながら転がるような? 少なくとも人間の足音ではない。だからと言って身を潜めているような、敵意のある感じでもなさそうだ。


 僕は意を決して振り向いた。


 バケモノがいた。変な形の台座に乗った水晶玉に、触手が生えている。その触手には歪んだスマートフォンが握られていた。


「あ、男の人だ。こんにちは。そのアジサイ、きれいだよね」


 バケモノは少女のような声で挨拶した。立ち居ふるまいもこぢんまりしている。本当に幼体なのかもしれない。


 バケモノは僕の足元まで近づき、僕を見上げている。高さは僕の腰くらいまでしかない。こんなにも体格差があるのに、人懐っこいもんだ。


「……おにいさん、食べ物いる?」


 唐突だったが、問われてみれば確かにだいぶ空腹だ。寝床に菓子の類はたくさんあった。しかし、しばらく飯らしい飯は食べていない。


 タイミングよく腹の虫が鳴いた。


「ふふ。お腹すいてそうだね。台所の食事、わけてあげるよ。好きなの食べていいよ。そのかわり、わたしにもごはん出してくれない?」


 小さく人懐こいバケモノに保護欲をそそられ、僕は取引を飲んだ。バケモノは大きな和風の一軒家を触手で示す。僕が歩き出すと、バケモノは言った。


「台所は、廊下の突き当たりを右だよ」


 バケモノの声に振り向くが、一緒に来る気はなさそうだ。ガーデンテーブルの方にのろのろと移動している。


 近づいてみると家はとても大きかった。和風の、やたらと広い家だ。五人くらい余裕で住めそうだ。余裕というのは、一人一部屋以上割り当てられそう、という意味で。


 引き戸に手をかける。


「おじゃまします……」


 他にもバケモノがいる可能性を考慮し、一応挨拶する。特に返事はなかった。


 中に入ると木や畳の香りがした。


 しかし汚物や腐敗物の匂いも漂っていて、不穏だ。なぜか細いタイヤの跡がたくさんある。


 僕は指示通り廊下を右に曲がる。


 台所は悪臭に満ちていた。ほとんどの食べ物が悪くなっていた。それをゴミ袋に放り込み、まとめて外に出した。ゴミ収集なんてきっと来ないだろうけど。


 いくつか無事な野菜があった。調味料もいろいろあった。

 料理の得意な人なら、上手に組み合わせて何か作れるだろう。しかし、あいにく僕は自炊なんてしたことなかった。それだけはなぜかスッと思い出せた。


 ファミレスの味が記憶の上を這ってゆく。できあい惣菜の濃すぎる味も。


 カップ麺と、ぎりぎり無事なオレンジがあった。

 お湯を沸かすかたわら、オレンジを切り分けていく。

 包丁を入れるたびリモネンが香りたつのが、空気が湿気り、ピーピーケトルが騒ぎ出すのが、たまらなく美しい情景に思えた。


 なんだろう、この懐かしさ。

 まるで何ヶ月も「普通の家事」をしていなかったみたいだ。

 僕は日常のなにげなさを失って、何日目なんだろう……。

 記憶を失う前、いったい何があったのだろう……。




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