完成
事務所に帰りがけ、桜の公園を通った。
桜の花が静かに咲いている。少しずつ、花びらを散らしながら。
サカタニはスケッチブックを手にぼんやり花見をしていた。
僕は近づき、スケッチブックを覗きこむ。
「完成したんだ」
細部まで正確に再現された桜の枝の絵。
サカタニは頷いた。
「やることがなくなってしまった」
「新しい絵を描けばいいんじゃないか?」
「これを描きあげるまでに心を決めるつもりだったんだ。だからもう描かない」
心を決めるって、何の?
たずねる前に、サカタニは不意に問うた。
「なあ。正しいことって、間違っていると思うか? 清廉潔白であることは、穢れであると思うか?」
サカタニは桜を見上げたままだ。
質問の意味がわからず困っていると、サカタニは続けた。
「正義であることは、悪だと思うか? 合理的であることは、非合理的だと思うか? たとえば、不正を告発して仕事を干されるようなことだ」
サカタニの、腕みたいな白い布が赤い宝石を磨く。
強い風が吹いた。風はサカタニの足元にあった桜の枝から花びらを奪い去る。
「合理的なのが、好きなのか?」
僕はかろうじてそう問うた。
サカタニは頷いた。
「そう。だから科学をし、材料化学を選んだ。エビデンス、実用性、正しさを重んじた。その結果が……この孤独だ……」
その不器用さにはなんだか見覚えがあった。
サカタニの苦悩が、孤独が、どうしてか他人事に思えなかった。
「こんな状態、正しくも、実用的でも、合理的でもない。こんな人生、無駄なはずだ。どうして私は生きているんだ?」
宝石のようなサカタニはきっと、強固なように見えて、打ちどころが悪ければ軽い衝撃で割れてしまうんだ。燃えるようにきれいな赤が、粉々に。
「僕も自分が誰で、どうしたいのかわからない。だから、明日も会いに来るよ」
「……」
僕は踵を返した。
「なぁ」
サカタニの声に振り返る。サカタニは僕に背を向けていた。
「明日は
「いいんじゃないかな」
サカタニは去って行った。いつもの東屋ではない方へ。
しこりのような違和感を抱えたまま、僕も事務所に戻ることにした。
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