人間

「あ、お兄さん。毒は手に入った?」


 僕の顔が見えるなり、ミノリはそう問うた。満開のアジサイの前でたたずむ、触手と箱と水晶玉のバケモノ。


「手に入らなかったよ」


 僕はポケットに感じる瓶の重みを忘れようとした。

 この家にある物など別にいらない。

 僕にはこの子を殺す理由がない。

 じゃあ何しにきたんだ?


 ミノリは小さくため息をついた。


「そっか。ざんねん。やっと楽になれると思ったのに」


 生きづらそうにしているこの子を救いたい気持ちはある。

 けれどその方法が死ではいけない気がした。


「これからどうしようかな。車椅子じゃ遅かれ早かれ飢え死にだし」


「車椅子?」


 いま、車椅子って言ったか?

 彼女の足元に目を落とす。

 車輪があるような、ないような……?


「そんな人間の乗り物を使ってるみたいな言い回し……」


「へ? 何言ってるのおにいさん? わたしは人間だよ」


 嘘だ。

 ならどうしてそんな外見を。


「あ、わかった。おにいさん、例のガスで目がやられちゃってる?」


「例のガス?」


「うん。研究学園の湿地から吹き出してるやつ。致死性って話だったけど、けっこう生き残ってるよね。おにいさん以外にも見かけたよ」


 研究学園。すぐそこの地名だ。駅の裏に、そこそこ大きな湿地があった。それは覚えているが。例のガス?


「お母さんとしてはきっと、死んで欲しかったんだろうけど、わたしも平気な体質みたい。うまれつきの脳性麻痺が悪化したくらいかなぁ。人によって違う症状が出るみたいだよ」


「症状……」


「なんか言動がおかしいと思った。名前とか忘れてるのも、そのせいじゃない?」


「……」


 ついていけない僕に、ミノリは勝手に話を続ける。


「あれ、もしかしてガスのことも忘れてる? 湿地から致死性のガスが噴き出したとかで、市内全域に避難指示が出て、このへんは立ち入り禁止になったんだよ」


『−−市内は依然として危険な状態にあります。立ち入り禁止の指示を守り、逃げ遅れた人は外に出ず、窓に目張りして救急隊の到着を』


 ラジオ越しの音声がリフレインする。ミノリの声が重なる。


「わたしは一人じゃ逃げられないから、わたしが要らないお母さんに置き去りされちゃったわけだけど。おにいさんは歩けるのに、どうして逃げなかったの?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る