第二十三話 香薬の匂い

 物音で目が覚める。

 闇が濃いから、まだ深夜だろう。

 リーナが帰ってきたに違いない。

 空気が動くと、干草の匂いに混じり甘い香りがした。

 その香りから、王都の風景が浮かびあがる。


 私が働いていた闘技場の近くには歓楽街があり、酔客相手に女性が身を売る店が軒を連ねていた。

 酒にも女にも興味がない私は、何か用事でもない限り足を踏みいれない場所だ。

 夜でも明るいその通りには、濃厚な香薬こうやくの匂いが漂っていた。

 

 香薬は花や動物の嗅腺、香草から取れる匂いの元を組みあわせたもので、液状のものや軟膏のものがある。夜の女たちは、その香りに身を包み、男たちの気を惹くのだ。そういった女たちの多くは闘技場にも足を運んでいたから、私にとってその匂いは馴染み深いものだった。


 ◇


「なあ、おじさん、どうして雨は降るの?」

「雨が降る前に、ゴロークが鳴くのはなぜ?」

「ゴロークは、なんで跳びはねるの?」


 ユトは言葉が鎖のように繋がり途切れない。

 

「この子は何でも知りたい年頃なんですよ」

 

 リーナが申し訳なさそうに言うが、私は彼の知的興味が一時的なものではないと考えていた。

 一度聞いたことは忘れない。そして、こちらが思いもしないような質問を考えつくのだ。

 しかるべき者が教えたなら、この少年はその資質を開花させ、やがて賢者にも届くかもしれない。


「母さん、おじさんって、いろいろ知ってるんだよ!」


 板の間に座った母親に後ろから抱きつきながら、少年が興奮した声を出す。 


「ヒエラスさんに迷惑をかけてはいけませんよ」


「迷惑なんか、かけてないよ!」


 そう言うと、ユトは小屋の外へ飛びだしていった。   


「元気なだけが取りえの子で」


 リーナの微笑には、包み込むような母性の柔らかさがあった。

 

「彼は賢いですよ」


 その言葉を聞いた彼女は寂しそうに笑った。

 息子に十分なものを与えられていない、そういった思いがあるのかもしれない。


  ◇


 厄介事は、下卑た笑いを浮かべる男の姿で現れた。

 

「おい、リーナ!

 おめえ、誰か隠してるだろ?」


 夕方暗くなってから小屋の裏で紐をなう作業をしていたら、リーナたちが住む小屋の薄い板壁を通し、そんな声が聞こえてきた。

 先だってユトを殴った男の声だ。

 板壁の節穴から中を覗くと、髪を頭のてっぺんでくくった小柄な男が見えた。だらしなく開いた薄い唇からは、茶色く汚れた乱杭歯がのぞいていた。


「隠すとためになんねえぞ!」

 

「ここには誰もいませんよ。

 どうぞ好きなだけ調べてください!」


 おそらく私の注意を促すためだろう、リーナがことさら大きな声でそう言った。


「へん! ネタは割れてるんだよ!

 おめえの息子が話しちまったのさ!

 いいか、この蝋燭が消えるまでに、男を連れてメドロの旦那んところまで来い。

 来なきゃ息子が死ぬぜ。

 まあ、そうなるのも面白えけどな、げへへえ!」


 男が小屋から出ていくと、リーナは板の間にがっくり膝を着いてしまった。

 私は慌てて家の中へ戻る。

 入り口の土間には、取っ手のある『バリロ』が置かれていた。

 この地方でよく使われる円筒型の道具で、蝙蝠の翅から採れるごく薄い被膜で蝋燭が覆われている。

 上から中を覗くと、すでに蝋燭はかなり短くなっていた。これだと四半時とせず燃え尽きるだろう。


「あなたは、ここにいてください。

 ユト君のことは、私がなんとかします」


 私の言葉に、リーナは首を横に振った。香薬の匂いが強くなる。


「ユトは私の子です。

 私も行きます」


 静かだが、強い口調だった。

 無駄だと分かっているが、言葉を飾らず伝える。


「もしかすると、いえ、きっと荒っぽいことになると思います。

 あなたがいると、足手まといになるんですよ」


「それでも、私は行きます。

 それにあなたはメドロの家を知らないでしょう」


 リーナの静かな声から、彼女の意思が固いことが伝わってくる。


「分かりました。

 ですが、もし荒事になったら、巻き込まれないよう、物陰に隠れてください」


 リーナは私の言葉を黙って聞いていたが、その表情はかたくななものだった。


  


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