第一章 王都

第二話 迷子

 私は、自分の名前を知らない。

 だが、人からもらった名前はある。

ヒエラス音色』 

 そう呼ばれている。


「おい、ヒエラス、くたばるにゃ早えぜ!

 お客さんは、まだ満足してねえんだよ!」


 地べたで横たわる私に、桶の水を浴びせた男がそう叫ぶ。

 立ちあがろうと地面に着いた手の平からは、ざらざらした砂の感触が伝わってくる。


 腫れてふさがりかけた右目が、近づいてくる対戦者の足を捉える。

 そいつが私の顔に拳を叩きつけるタイミングで、上体を横にひねる。

 拳は鈍い音を立て、固い地面を強く打った。


「ぐうっ!」


 おそらく拳を痛めたのだろう。男が苦痛を漏らす。

 腕を抱えた男の膝へ蹴りを放つ。

 下手をしたら自分の足を傷つけかねないが、目の前にいるような大男との対戦では有効な技だ。


 蹴られた足を引きずりながら、男は抱えていた腕を、再び身体の前で構えた。

 自然な構えから、彼が拳闘のベテランであるとわかる。


 相手が痛めていない方の左拳で攻撃してくるとヤマを張り、その動きに合わせて再び膝を蹴る。

 予想は裏切られず、相手は眉をしかめた。

 おそらく蹴られた膝から下が痺れているだろう。


 もう一度蹴るとみせかけ、相手の胸と腹の間、身体の中心へ左拳を叩きこんだ。

 身体の中でも特に鍛えにくい箇所だ。


 対戦相手の顔が歪む、そこを強く打たれると呼吸が停まるのだ。

 頭が下がった相手の後ろに回りこみ、太い首に左腕を巻きつける。

 その腕に右腕を添え、思いきり締めあげる。


 男が首の筋肉を張り、必死に抗おうとする。

 だが、この形になると、まず抜けだすことはできない。

 対戦相手は、降参の意思を示すことなく意識を失った。


「ちくしょー、また『学者』のヤツが勝っちまった!」

「くそう、面白味のねえ勝負しやがってよ!」

「ちっ、だからいつまでたっても茶闘士なんだぜ」


 茶闘士というのは、拳闘士として下から二番目の階級だ。

 

「ちっ! 金にならねえ。

 おめえなんか、早く『大口』に喰われちまえばいいんだ!」


 闘技の補助を仕事とする男が、ツバと共にそう吐きすてた。


「勝者、ヒエラス」


 審判の言葉にも、熱意が感じられない。

 しかし、私からしてみれば、それはどうでもいいことだ。

 なぜなら、これであと六日は生を長らえられるのだから。


 ◇


 私が覚えている最も古い記憶は、薄汚れた排水溝の中に倒れていたときのものだ。

 スライムが這いまわるそこに、自分がなぜ横たわっていたのか。

 自分は誰なのか。

 私は、それまでの記憶をなくしていた。


 親切な騎士が、半死半生の私を街の孤児院へ連れていった。

 私は、そこで一から人生を始めた。

 話しかけられても何の反応も示さなかった私は、孤児院の窓にはめられていたクリスタルが割れる音を聞き、涙を流した。

 その時、そのような音を意味する、『ヒエラス』という名前がつけられた。  

 

 言葉を失っていた私は、成長するにつれ自然に言葉を覚え、読み書きができるようになった。

 どうしても、夢の中に出てくる草原への手がかりが欲しかった。

 私は貪欲に知識を求め、読めるものにはなんにでも手を出した。

 行き先が見えない人生で、本を読んでいる時間だけが、心のよりどころとなっていた。 

 

 孤児院に居られないほど成長した時、冒険者になろうと決めた。

 しかし、冒険者になるには、組合ギルドに登録しなければならない。

 ほとんど世間の事を知らなかった私は、登録に必要なお金を良くない筋から借り、それが返せず奴隷商へ売られた。

 奴隷商は私を闘技場に売り、そして、今の生活が始まった。

 

 ◇


「おい、居るか?」


 ノックも無しに入ってきたのは、この地区の顔役でもあるノリクだ。

 中肉中背の体は、若いころ闘士をしていたこともあり、見るからに引き締まっている。

 その顔を縦に走る古傷が、左右の表情を違うものとしていた。

 今、そこには気安さと軽蔑があった。

 

「今週も何とか生き延びたようだな」


 地面に枯草を敷いただけの寝床に横たわる私のその胸に、ポンと紙の束が置かれた。

 

「代読の依頼だ。これを読んでくれ。

 それから、代筆の仕事が一つ来てるぞ。

 場所を教えるから、そこへ行ってくれ」


 私は文字が読み書きできる能力で、代読と代書を頼まれることがある。

 それが下級闘士である、私の生活を支える副収入となっている。

 

「ヒエラス、おめえ、いつまで闘士を続けるつもりだ」


 私はノリクの言葉に答えず、黙っていた。 

 闘士として活躍できる年月は短く、引退するなら三十になる前には蓄えた金で自由市民の権利を勝ちとるのが一般的だ。

 稀に貴族の目に留まり、遊び相手として買われる闘士もいる。

 どちらにせよ、そんなことができるのは、ほんのわずかな闘士だけで、その多くは闘技場で死ぬか、手足が不自由になり砂漠に放置され『大口』の餌となる末路をたどることになる。


 しかし、たとえ自由市民になれたとしても、一体それに何の意味があるのか?

 私にとって大切なものは、あの夢の世界にしかないのだ。だから、金を貯める必要もない。

 稼いだ金の多くは、本を読むことに消えていった。


 気がつくと、ノリクが言葉を続けていた。


「代書依頼は、役所の前の赤い屋根の家だ。

 じゃ、頼んだぞ」


 頭を剃ったノリクの後頭部を見ると、自分があとどれだけ生きられるか、それを考えてしまう。

 傷だらけのその頭には、右耳が無かった。


 数少ない私物である小箱を取りだすと、その蓋を開ける。

 そこには、水鳥の羽根が数本と、小さな黒い塊がいくつか入っている。


 部屋の隅にある水桶から少量の水をすくい、小皿に入れる。

 そこへ黒い塊を一つ落とす。

 これは、ある甲虫が排泄する液を固めたものだ。

 小皿の水は、すうっと黒く染まった。


 水鳥の羽根で作られた筆をそれに浸し、紙に書かれた文字の上に字を添えていく。

 この国には、正式な教育を受けた者が用いる言語『真文しんぶん』と、下層の人々が使う言語『平文へいぶん』がある。

 下層がつかう平文は、音と文字が一対一に対応している。貴族がつかう真文は、一つの文字にも複数の読み方がある。


 真文に平文を書き添えるというのが、私の仕事だ。

 こうして一般に書かれたものを、下層の人々でも読めるようにするのが代読の仕事だ。


 四、五枚ある手紙への添え字が終わると、低い板葺きの屋根の一部をずらし、そこにできた隙間に紙を入れる。

 こうしておけば、私が留守にしていても、ノリクが勝手に紙を持っていける。


 私は足を皮で巻き、膝下でそれを縛ると小屋を出た。

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