第五話 賭け
次の日、黒い剣を買った武器屋を再び訪れた。
店には、今日も不愛想な若い店員がいた。
「あ、昨日の方。商品に何か問題でも?」
彼は、投げやりな表情を見せた。
苦情が来ると、あらかじめ分かっていたのかもしれない。恐らくこの剣に二万ピクというのは、盛りすぎたと思っているのだろう。
「ああ、この剣のことだが……」
私は返品のため、刀の柄に手をかけた。
その時、稲妻のようなものが体を走り、動けなくなってしまった。
実際に何かが流れたわけではない。それは口にするには難しい感覚だった。
魂の根っこを握りしめられた、とでも言ったらいいだろうか。
「……手入れをするときの注意とかあるかな?」
いつの間にか、思いもしない言葉を口にしていた。
「そうですね……」
店員は剣の柄に顔を近づけ眺めている。
「う~ん、
剣の手入れは素材の金属により異なる、そう読んだことがある。
店員が剣をジロジロ見るのが、なぜか無性に腹立たしく、剣を布に包むと
「あ、お客さ――」
店から走りでた私は、知らないうちに街外れまで来ていた。
普段ほとんど動かない心が、激情につき動かされたことで戸惑っていた。
一跳びで越えられそうな、小川のほとりに腰を下ろす。
そこは草が生え、肌に触れる葉の感触が夢の中に出てくる草原を連想させた。
膝の上に置いた剣に触れてみる。
店で感じたような強い衝撃はなかったが、やはり触れた手から何かが流れこんでくるように感じた。
いや、私の手からも何かが流れだし、剣の中へ入っていくような感覚があった。
しかし、もしこの剣を手放さないとなると、剣闘を盾無しで戦うことになる。それは、大変な危険を伴うことだ。
拳闘の技ならそりなりに知っているつもりだが、剣技など手慰みに習っただけだから、相手になるのは、せいぜい同じように初めて剣闘に挑む者だけだろう。
そこまで考え、あることに気づいた。私は自分の命を危険に晒しても、この剣を手放したくないらしい。
剣を膝にのせ小川のせせらぎを聞きながら、覚悟が定まっていく。
そこには気負いも興奮もなく、ただ安らぎだけがあった。
「頼むぞ、相棒」
そっと剣の柄を撫でたが、そこからは優しい暖かさが返ってくるような気がした。
◇
「おい、悪いことは言わねえ。盾を使えよ」
闘技場の元締めゾラ老人が、顔をしかめている。
「そりゃ、お
だけどな、死んじまえば、元も子もねえんだよ」
「ええ、それは分かっています」
「ふう、その顔は何があってもってやつだな。
そんなやつらは、みんな砂漠で『大口』のエサになっちまったがな」
「元締め、心配してくれてありがとう。
だけど、やっぱりこれだけでやってみます」
私は、黒い剣の柄を軽く叩いた。
「まったく本を読みすぎると変わり者になるってぇけど、ありゃ本当だったな」
「……」
「まあ、いいや。
とにかく、剣闘に変えたっていうことは金が必要なんだろう?
せいぜい儲かりそうな相手を選んでやるよ。
だけど、いずれにしても、お前の命はねえと思うがな」
ゾラはしかめ面を消し、今はむしろ微笑んでさえいた。
「自分が信じるもののために死ねるってのは、もしかすると幸せなことかもな」
彼はそう言うと、私の肩をポンポンと叩き、奥の扉に消えた。
私はゾラの部屋を後にし、闘士の控室へ向かった。
◇
薄暗い控室は、嗅ぎなれた汗の臭いがした。人は緊張状態がある一線を越えると汗をかく。それは体の動きをよくするためではないか、という仮説を読んだことがある。
そして、この汗の臭いは、普通のそれと、どこか違うように思われた。
「おい、学者さんよ。
あんた、剣闘の方に代わったって本当か?」
拳闘で対戦したこともある、ジブという名の若者が話しかけてくる。
「ええ、本当ですよ」
「また、えらく思いきったことするんだな。
命を賭け金にするって、どんだけ切羽詰まってんだ」
「……そうですね」
「あんたは対戦相手を殺さないから、他の闘士は感謝してたんだぜ。
今日から『大口』は、腹いっぱい食べて太るだろうよ」
「……あなたに幸運を」
「ああ、学者もな。死ぬなよ」
「ありがとう」
ちょうどその時、入ってきた係員が、ジブを連れていく。
闘技は、拳闘が先に行われるのだ。
遠くから観客の歓声が聞こえてくる。ジブの闘いが始まったようだ。
◇
私が係員の誘導で闘技場に入ると、数人の掃除役がマチーニャの枝で地面を掃いているところだった。
マチーニャは人の背ほどに育つ灌木で、枝の先に刷毛状の「葉」がついている。一般の家庭でも掃除に使われる植物だ。
ただ、ここで掃除するのは地面に撒かれている砂だ。血で汚れた砂を掃き、新しい砂を敷くのが掃除役の仕事なのだ。
大量の砂が運ばれていくのを見ると、前の闘技は、どちらかが死んだのかもしれない。
私はジブの無事を祈った。
「闘士は、開始線に立って」
審判の声が聞こえて、はっと我にかえる。
私の対戦相手は、体中に古傷がある、初老の男だった。
見たことがない顔だが、隙のない足運びに油断できないものを感じた。
「火の組、ヒエラス」
審判の声に客席からまばらな拍手が起こる。
「水の組、ベイズ」
先ほどとは比べ物にならない、大きな拍手が起きた。
どうやら、対戦相手はこれが初めての戦いというわけではなさそうだ。
「始めっ!」
開始の合図と同時に、審判がさっと後ろへ下がる。
剣闘と言う名の殺しあいが始まった。
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