第九話 青年剣闘士

 調べ事に夢中になっている間に一週間が過ぎ、私にとって二回目となる剣闘の日がやって来た。

 控室で出番を待っていると、闘技場の元締めゾラ老人が近づいてきた。彼が控室まで来ることはめったにない。 


「おい、学者よ。

 おめえの言うとおり強い相手にしたが、本当に良かったのか?」


「ええ、ありがとうございます」


「まあ、お前の命だ。どう使おうがわしゃ構わんがな」


 彼はしわの目立つ首を左右に振りながら、控室から出ていった。

 掛け金が上がるような相手と戦えるよう、あらかじめ彼に頼んでおいたのだ。

 それは、つまり、より上位の相手と戦うことを意味していた。


 係員に連れられ闘技場に入ると、観客はすでに興奮していた。国の紋章が入った旗を振っている者もいる。

 審判から拡声の魔道具を通し、対戦が伝えられる。


「火の組、ヒエラス」


 客席からまばらな拍手が起こるのは、いつもと同じだ。


「水の組、パストール」


 観客が大きく波うつ。

 歓声が次から次へ湧き、途切れない。

 それはそうだろう。

 私の対戦相手は、有名な若手剣闘士だった。

 没落貴族の末弟だった彼は、たまたま出場した剣闘でその才能を開花させ、将来の王者候補の呼び声も高い。

 噂では、彼のお陰で実家の爵位が一つ上がったそうだ。


「あんた、剣闘に転向したばかりだっていうじゃないか。

 なんなら、俺が最初にかすり傷を負わせるから、そこで降参したっていいんだぜ」


 近づいてきた若い剣闘士が、審判に聞こえぬよう抑えた声で話しかけてくる。


「そうですね。それもいいかもしれませんね」


「なら、開始の合図があったら、じっと動くなよ。

 そうしないと怪我じゃすまないぞ」


「ええ、そうですね」


 審判の声が割って入る。


「闘士は開始線に着いて」


 私とパストールが、開始線を踏む。 


「始めッ!」


 二度目の剣闘は、こうして始まった。


 ◇


 パストールは剣を鞘からゆっくり抜くと、微笑みながら軽く頷いた。

 打ちあわせ通り動くなという、無言の合図だ。

 私は足を止め、彼の動きを待った。


 彼の右足、その親指にぐっと力が入るのが見えた。

 私は左に回りこみながら、体を斜めにさばいた。

 パストールの突きは鋭く、じっとしていれば、胸を貫かれていただろう。

 

「ちっ!」

 

 はき捨てるように言った、彼の表情は歪んでいた。

 彼が私を騙そうとしているのは、表情の細かい変化で分かっていた。しかし、攻撃してくると分かっていても、それを避けるのはぎりぎりだった。

 評判通り、パストールは剣に愛された男だった。


 私は、頼るようにぐっと黒剣を握る。

 それは、なぜかいつもより温かく感じられた。

 若者の攻撃に先んじ、右手を伸ばす。

 黒剣の切っ先が相手の肩をかすめ、血が舞った。

 パストールの顔に、驚きと怯えがいり混じった表情が走る。

 彼が驚くのも無理はない。


 彼は盾で私の剣をいなしたはずだが、私の剣は弾かれず、まるで彼の盾をすり抜けるように肩へ届いたのだから。

 

 若者は構えを変え、頭を低くした。それは、彼が今までより慎重になったことを意味していた。

 彼は細身の身体を左に右に翻すと、私の胸へ向け、さっと剣を伸ばしてきた。

 私はそれを剣で払おうとした。

 しかし、その攻撃は、こちらの動きを誘うためのものだった。


 空中で停まった剣先が、霞むほどの速さで私の右足を狙う。

 反射的に足を引くが、それは私の膝上をわずかに切り裂いた。


 なぜかパストールがニヤリと笑った。

 その笑いの意味を、すぐに思いしらされた。


 体が痺れだしたのだ。

 その即効性の症状からして、恐らく砂漠に生息する毒蛇どくじゃ赤蛇あかへび』の毒だろう。

 彼は剣に毒を塗っていたのだ。


 私は体が痺れてくるにつれ、なぜか思考だけが明晰になっていくのを感じていた。

 毒がまわり、腕が痺れて剣を持つのもやっととなったとき、パストールが邪悪な笑みとともに切りかかってきた。

 右胸に焼けるような感覚が走る。


 私は立っていることもできなくなり、闘技場に膝を着いた。

 口の中に血の味がする。肺が傷つけられたのだろう。

 空が見えるのは、私が地面に倒れたからだ。


 視界の端に、剣を空へ突きあげるパストールの得意げな顔が見える。

 やがてその剣は、私に向け振りおろされた。

 視界がまっ赤に染まり、意識が途絶えた。


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