第十六話 旅立ち
貧民街の小屋をひき払った私は、行きつけの貸本屋まで挨拶に来ている。
「そうかい。
あんた、ただ者じゃないと思ってたけど、とうとう平民になったのかい」
マノンさんがふくよかな体を寄せ、椅子に座った私の両肩に手を置く。それは、温かく、私の旅立ちを喜んでくれているのが分かった。
「でも、もうウチには、来てもらえないんですよね」
マノンさんの娘リノンは、その細面に悲しげな表情を浮かべている。
「事情があって五年ほど留守にしますが、また帰って来ますよ」
この店は生活の一部になっているから、この街に帰ることがあれば立ち寄るだろう。
「五年ですか……でも、必ずまた来てくださいよ」
「ええ、そうします」
「ああ、そうだよ。ちょいと、用事を思いだした。
あたしゃ少し留守にするから、あんたら店番しといておくれ」
マノンさんが言葉を残し、店の奥へ消える。
旅を急ぐ私が、それを断る間もなかった。
平日の昼間ということもあり、貸本屋に他のお客はいない。
カウンターに座る私は、薄暗い店内を眺めていた。天井まである書籍棚や、土を固めた通路、額縁に切りとられたような、外の雑踏。
どれほどの時間をここで過ごしただろう。私にとって、ここは特別な『聖地』だったと気づく。
人に憐れまれるべき境遇の私が、少なくともここにいる間は、本が内包する世界で自由に羽ばたくことができたのだから。
「……聞いていますか?」
いつの間にか考えこんでしまったらしい。リノンが何か話しかけていたようだ。
「すみません。いつもの癖で――」
「本を読んでいなくても、そうなっちゃうんですね」
「ええ、今までの事を思いだしていました」
「……私のことも?」
「え? ええ、そうですね」
「お茶、飲んでいってください」
リノンはカウンターの向こうへ入ると、お茶の用意を始めた。
「この前来た時頂いた、南方産のお茶はありますか?」
「はい、それをお出ししますね」
「ありがとう」
お茶は、やはりとても懐かしい香りがした。目を閉じると、夢で見る草原が広がる。
記憶を失う前、私はこのお茶を飲んだのだろうか。
ゆっくりお茶を飲みほした私は、一抹の名残惜しさを覚えながら、店を出た。
私の左手首には、旅のお守りだとリノンがくれた編み紐があった。小さな青いクリスタルが着いたそれを私の手に巻くとき、彼女の目からは涙が落ちた。
「幸運を」
彼女がくれた言葉こそ、今の私に必要なものだろう。
草の海を、そして、そこにいるはずの少女を見つけだすために。
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