第二十二話 リーナ
一晩中、どこかで鳴くホロタ鳥らしい声が聞こえていたからか、眠りが浅かったのだろう。
空が白んだ頃には、目が覚めてしまった。
干草に包まれ眠る親子を起こしてはいけないと思い、そっと身を起こす。
夜の間聞こえていた鳥の声は、妙に耳に残り、まだそれが聞こえているような気がした。
小屋の隅に薪が積んであったので、細いものを選び、囲炉裏の熾きにくべる。
新しい薪がぱちぱちと音を立てたからか、女性が身を起こした。
寝乱れた髪を一筋咥えた彼女は、夢を見る少女のようなあどけない表情をしていた。
目に光が灯ると、囲炉裏のこちらに座る私に気づいた。
「あ、お早うございます」
「お早うございます」
女性はさっと立ちあがり、寝ていた干し草を綺麗な山の形にまとめると、慣れた手つきでくるりと襷を回し、きびきびと働きだした。
私はそれを手伝い、二人無言で小屋の中をちょこまか動いた。
外が明るくなったころ、少年が起きてきた。
「母さん、水汲んでくるね」
「ええ、蛇に気をつけるのよ」
「いつもの事だから大丈夫」
少年は甕の一つを土間の入り口へ持ってくると、干草をよじった紐で、器用にそれを背負った。
「手伝おうか?」
「おじさんは、姿を見られない方がいい」
少年は真剣な顔で私と目を合わせると、干草で編んだ靴を履き、外へ出ていった。
女性は干草の芯を紐でまとめたお椀型の道具で床を擦っていたが、私が近づくと、微笑みを浮かべこちらを見上げた。
私は板の間に膝を着き、深く頭を下げる。
「この度は、本当にお世話になりました」
女性は慌てて私と同じ姿勢をとった。
「お気になさらず。
困ったとき助けあうのは、当たり前のことですから」
後ろで束ねていた金色の髪が一房、彼女の顔にかかり、思わぬ艶かしさを感じさせた。
「遅くなりましたが、私、ヒエラスといいます。
王都からガレアへ行く旅の途中です」
「あら本当、ご挨拶がまだでしたわ。
私はリーナ、息子はユトと申します」
私は自分が怪我をしていた理由も、追われている理由も話さなかったが、彼女はそれについて何も尋ねなかった。
私たちは、天気や農作業について当たり障りのない話をした。
彼女の言葉、身振りは砕けたものだったが、明らかに貴族階級で育った者のそれだった。
そのような身分の女性がこのような生活をしているには、何か理由があるに違いない。
私自身、身の上話が苦手だから、それを聞きだそうという気にもならなかった。
◇
病で伏せていた間に衰えた身体を整えるため、夕方暗くなってから外へ出た。
月明かりに照らされた草原に立ち、剣の型をゆっくりとなぞる。
この型は闘技場で戦うようになって間もない頃、一人の剣闘士が教えてくれた。
なぜ初老の剣闘士が、駆けだしの、しかも拳闘士にそんなことをしてくれたのか、もう知ることはできない。
基礎的な攻撃、受けの型を教えてくれた後、彼が剣闘でその命を散らしたからだ。
しかし、彼から習った剣の型は形を変え、拳闘士としての私を支えてくれた。
恵まれた体格とはいえない私が、拳闘士として生き残れたのはそのおかげだろう。
無心に型をなぞっていると、心が軽くなるのを感じる。黒剣は、まるで重さなどないかのように私の身体と馴染んだ。
そして、最初それを手にしたとき感じた、身の内が痺れるような感覚が再び訪れる。剣と私は一つのものとなり、私の中にある何かと剣の中にある何かが混じり合い、互いを静かに高めていく。
背後の草むらがカサリと音を立て、私は反射的にそちらへ剣先を向けた。
「あっ!」
声は、ユト少年のものだった。
なぜか地面に後ろ手を着き、こちらに向け両足を投げだしている。
「び、びっくりするじゃないか!
なんだい、そ、その剣!?」
泥のついた彼の手を引き、立たせてやった。
「びっくりするのはこっちだよ。
この剣がどうかしたかな?」
「と、飛びつかれたって思ったんだ」
「飛びつかれた?」
「ギュンって、俺の方へ伸びてきた」
いくら型の練習に夢中だったとはいえ、そんな事に気づかないはずはない。
月明かりが彼に幻を見せたのだろう。
小さな手を取り、彼の母親が待つだろう小屋へ向かう。
引き戸を開け中に入ると、そこには誰もいなかった。
きっといなくなった息子を探しに出たのだろう。
私が再び小屋から出ようとすると、ユトに腕を強く引かれ立ちどまることになった。
「ユト、どうしたんだい?」
窓から洩れる月明かりに浮かんだその顔は、眉を寄せ、目尻が上がり、口を一文字に引き結んでいた。
それは怒っているような、そして悔しそうな顔に見えた。
「今日は『水の日』なんだ」
そう言うと、ユトは草履を脱ぎ散らし板の間に駆けあがると、寝具替わりの干草に潜りこんだ。
どうやら、なにか事情があるらしい。
私は足に巻いた革帯をゆっくり外すと板の間に上がり、干草に横たわった。
追手の事、これからの事を考えているうち、いつも見る草原の夢へといざなわれていた。
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