第七話 黒剣
大通りから一つ入った裏通りに面したその店に入ってきた人物は、テーブルに着くと口元に巻きつけていた布とローブを取った。
出てきた顔は、ヒエラスが大商人の家で会った娘のものだった。
彼女は、一人お忍びで下町の小闘技場へ出かけたのだ。
飾り文字の代筆を頼んだ若者に興味が湧いてのことだ。
そのため、わざわざ砂漠の民が身に着ける衣装まで購入し、身元を隠した。
剣闘が終わると、興奮して渇いた喉を潤すため、この店に立ちよった。
ここは個室が売りの食事処で、その法外な値段から、豊かな自由市民や身分が低い貴族が利用する。
大商人の娘ケイトリンは、先日会った代書屋の動き一つ、言葉一つを思いだしていた。礼儀正しく、滑らかな所作とその言葉遣いは、下層階級の若者とは思えなかった。
そして、何より初めて見るそのトビ色の瞳。もう一度、それを近くで見たいという思いが湧きあがってくる。
彼の瞳は、まだ男性を知らぬ彼女の記憶に棘のように突きささり、忘れる事ができなかった。
そして、さっき目にした剣闘。
箱入り娘の彼女は、闘技場を訪れるのは初めてだった。
最初、拳闘から始まった試合は、彼女に嫌悪感を抱かせた。
この男たちは、なぜ意味も無く傷つけあってるの?
しかし、気になる男が闘技場に現れた途端、彼女は我を忘れた。
ヒエラスと名乗っていた男は、彼女に会った時のまま、静かに戦いの場に立った。
その姿は、これから戦いに臨む者とは思えなかった。
筋肉を誇示しているような闘士たちの中で、彼は異彩を放っていた。
そこにあるのは、しなやかさと優美さで、他の闘士とは明らかな一線を画していた。
ヒエラスの対戦が始まると、ますます若者から目が離せなくなった。
彼は戦いの中でも静かで、その動きの一つ一つが洗練されて見えた。
彼が相手を倒したとき、思わず周囲の観客と一緒に立ちあがり、歓声をあげていた。
日頃、その派手な服装と顔立ちによって、周囲から外向的であると思われている彼女は、その実、内気で内省的な性格だった。
人前で強く出ることが多いのは、それを隠すための隠れみのだった。
外向的な見せかけは、幼い時から父親に連れられ、舞踏会や会食の場で身に着けた仮面なのだ。
観客と一緒に声を上げるという、本来の自分とは違う行動は、彼女に強い喜びをもたらした。
体が痺れるほどに。
◇
自分の
隅々まで調べてみる。
そこには、わずかな刃の欠けやゆがみも無かった。
不思議なことに、もし相手の身体を切ったならあるだろう脂汚れもついていない。
闘技場で最後の一撃を放った時、何の手ごたえも感じなかった。
もしかすると、ゾラが言っていたようにベイズが自分で自分を傷つけたのではという考えが浮かぶが、対戦したときの記憶が鮮明な今だからこそ、そんなことはあり得ないとわかっていた。
ベイズが倒れたのは、まぎれもなく私が剣を振るったからだ。そして、彼が傷ついたのはこの黒い剣によるものだ。
知識の中を探るが、そのような剣は聞いたことがなかった。
魔剣や聖剣の伝説は多く、そういったものについても知ってはいるつもりだが、私が体験したのは、そのどれにも当てはまらない。
この剣には何か秘密がある。
そう結論づけた。
そして、すぐにでもそれを調べる必要がある。
なぜなら、自由市民の権利を買い、ガレアまで旅をするなら、最低でも後二回は剣闘をくぐり抜けなければならないからだ。
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