とある小悪党の恋

七野りく

プロローグ

 その日、大陸において最も財を集めたある男――その老いた妻が最期を迎えようとしていた。

 豪華なベッドに横たわっている老妻の腕は枯れ枝のように細く、顔色も悪い。

 呼吸は穏やかで、寝ている事だけは救いだが……もう長くはないだろう。

 ベッド横で、椅子にも座らずその老妻の小さな手をずっと握りしめ続けている男の目には、大粒の涙。彼女よりはかなり若い。

 医師に視線をやるが、ゆっくりと首を振られる。男の顔が絶望に歪む。


「何とか……何とかならないのかっ!? 私が用意出来る物ならば、何でも揃えてみせる! 今すぐにだっ! だから……お願いだ……頼む……私の、私の妻を救ってくれっ。この通りだっ」

「……残念ですが」

「貴様っ――」

「……あなた」

「!」


 思わず怒声をあげようとした老人の耳に最愛の妻の声。

 慌てて振り返ると、老妻が何時ものように笑みを浮かべていた。

 医師はそれを見ると「……外におりますので」と告げ、部屋から出て行った。

 男は老妻の手を、両手で包み込むように握る。


「あなた、我が儘言ってはダメよ? 私はもう十分生きました。寿命ですよぉ」

「そんな事はないっ! すぐに……すぐに良くなる。ほ、ほらっ! お前が植えた薔薇が来月には咲くだろう? 一緒に見よう。な?」

「うふふ……ありがとう。私は――アニエスは幸せでしたよぉ。あなたと一緒にいれて、本当に。本当に」

「ば、馬鹿な事を言うなっ! 私はまだお前に何も返せていない!」


 男は大粒の涙を流しながら、首を振る。

 ――10歳も年上の妻と結婚した理由だって、ろくでもないものだ。


「私は……私は、最初お前の財産目当てで結婚したんだ。だが、その金を使って事業を幾ら大きくした所で、何も得られなかった……そんな私の話を、何時も何時も楽しそうに聞いてくれたのは、お前だ。お前がいなくなったら、私は誰に話をすればいい? だから、死ぬな……頼む……お願いだから……私を、一人にしないでくれっ……愛して、心から愛しているんだ……」

「うふふ……お金目的なのは知ってましたよぉ。でも……貴方は、私を愛してくれました。私は本当に幸せ者でしたよぉ。それにですよぉ?」


 老妻が、昔と同じように微笑しながら男を愛おしそうに手を伸ばす。

 その手を握る男は震えている。


「現世ではお別れですけど、貴方なら生まれ変わっても私と見つけてくれるでしょぉ? だから、大丈夫ですよぉ」

「……ああ。ああ、必ず。必ず、見つけるっ! たとえ、何があろうとも、お前を探し出し、全てを返す。私を人間にしてくれたお前に!」

「うふふ……楽しみ……に……して……おきます……ねぇ……」

「……アニエス? アニエス! アニエス!!」


 男の叫び声を聞きつけ、医師たちが部屋に駆け込んできた。

 即座に、脈を確認するが――老妻はもうこと切れていた。

 その死に顔は、とてもとても穏やかな笑みを浮かべるものだったという。

 

 ――その後、男は寿命が尽きるまでの数年間、『国すら買える』と称された莫大な資産を世の中に還元し続けた。

 

 王国が、各国に先駆けて陸路、空路、海路、下水道網といった社会インフラ整備を完成出来たのは彼の尽力によるところによる。

 また、当時の時代背景を考えれば信じ難い事に、動植物の保護活動にも天文学的な資産を出資し、今の保護政策の礎を築いた。

 各地に孤児院を設け、今まで見捨てられていた弱い立場の子供達が、生きていく可能性を広げた。

 また、王都にある大教会も彼の寄進によるものだ。

 その他――老妻が亡くなった後の彼は、それまで以上に社会へ奉仕し続けた。

 世の人々の中には、そんな男を嘲笑う者もいたが、男はまるで意に返さず、黙々と、そうまるで作業のように、最後の数年間を過ごしたのだった。


 そしてそんな男が亡くなった時――人々の関心は遺言状に集中した。


 湯水の如く使ったとはいえ、それでも彼が持っている財は膨大な筈。

 彼には子がおらず天涯孤独であった為、遺言状に注目が集まったのだ。

 彼が亡くなり、老妻と一緒の墓地に葬られてから10日間――遺言状が発表された。そこにはこう書かれたいた。


『我が財産は全額、既に寄付し終えり』


 それを聞いた国民は皆、彼を讃えた。

 これ程までに見事な死に様が昨今あったろうか、と。

 ……まぁ、彼がそれを聞いたらこう笑っただろう。


『財産を寄付した理由? そんなの決まってるだろうがっ! あいつに……アニエスにもう一度会う為だ! 俺は随分と酷い事をしてきたからな……良い事をすれば、多少は神様も温情をかけてくれると思ったんだ。ただ、それだけの事さっ! 今世じゃ駄目だったみたいだがな……』



 ――そうして男は死んだ。亡き妻との約束を胸に。

 それから約一世紀。

 これは、ある自称小悪党の男が『男の再来』と呼ばれた時代の物語。

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