第17話 その地区長、意気消沈中につき
「——という状態で、まだまだ改善の余地があるかと思われます、地区長?」
「……そう、分かったわ。資料をそこに置いておいてくれるかしら」
「は、はい。では、これで失礼します」
部下が怪訝そうな顔をしながら部屋から出て行く。
……やる気がまるで出ない。
ほんの数ヶ月前までは、あれ程満ち溢れていたのに。
原因は分かっている。だが、そんな……認めれられない。
あの御方に対する想いは、あくまでも敬愛のそれであって、それ以上でも以下でもなかった筈。
それなのに……。
『えっ? ア、アレックス様が御婚約!?』
『そ。相手はロス侯爵家の娘さんらしいですよ? 何でも借財の方に、と。きっと、後でエドワードさんから、情報収集依頼が来ると思い――スザンナ? どうかしましたか?』
『な、何でもないわ。ええ、そう、何でも……』
ヴィオラから話を聞いて以来、私はおかしくなっている。
勿論、仕事はこなしている。が、以前と同じモチベーションではない。
つまり、それが意味するところは。
はぁ。何て私はおこがましいんだろう。孤児の身でありながら、この身を引き上げていただいたのに……。
私はもうあの御方に合わせる顔がない。連続して、幹部会議も欠席までしているし、きっと今頃は解任の手続きが進んでいるかもしれない。
机の引き出しを開ける。そこに置かれているのは辞表。だけど、勇気がない。怖いのだ。あの御方から離れる事が、どうしようもなく。
孤児院、王立学校、大学校、商会、と私はただただ、あの御方を仰ぎ見てここまで進んできた。だけど――それは何時頃からか、変わっていたのかもしれない。
嗚呼……私は汚れてしまった。私に価値なんか……。
「地区長、お客様です」
「……気分が優れないの。帰っていただいて」
「それがその……会頭様です」
「! ……お通しして。すぐに、行くわ」
身体が震える。この数ヶ月、あの御方とは会っていない。いや、敢えて会わないようにしていた。
歓喜と恐怖がごちゃまぜになり、意味を形成しない。
何とか自分を奮い立たせ、客間へ向かう。
重厚な扉をノック。
「失礼します」
「おう、スザンナ」
そこにいたのは何時もと同じ、穏やかな笑顔を見せてくださっているアレックス様と――ちっ! ……どうして、あんたがいるのよ、クロード。
笑いに来たの? 笑いに来たんでしょう? いいわ、笑いなさいよ。どうせ、私は駄目な女よ。身分違いの恋をして、その事にようやく気付いて、未だに立ち直れてない愚か者なんだから。
「さて、スザンナ」
「は、はいっ」
「ああ、楽にしてくれ。怒りに来た訳じゃない。謝りに来ただけだ」
「ア、アレックス様は私に謝る事なんか……な、何一つとしてありません!」
「まぁ、座ってくれ」
恐る恐る、目の前に座る。顔を見るだけで嬉しさがこみ上げてきて、やる気が出て来るのを感じる。ああ、私、やっぱりこの御方のことが。
同時に、視界の端にいらないお澄まし顔をしている男。あんた、本当に邪魔!
私が座ると、アレックス様が頭を下げられた。
「すまなかった、スザンナ」
「!? 御顔をお上げください。謝罪するのは、私の方です。地区長会議の連続欠席、真に申し訳ありませんでした」
「いや、いいんだ。お前の怒りもよく分かる。皆に相談しないで、エリナを――ロス家から保護したのを怒っているのだろう? 同時に、その借財を肩代わりしたのを。確かにあれは、額が額だからな」
「そ、それは……」
「数字を見ている地区長であるお前が、反感を持つのは当然の事だ。他の三地区長とエドワードからも、散々怒られた。何せ、相手は腐っても侯爵家。王子は同期の誼で、多少援護はしてくれるだろうが……有利な立場を築かないまま、大貴族の問題に踏み込むのは本来、悪手も悪手。大悪手だ。不信を持たれても仕方ない」
「…………」
言葉が出てこない。違う、違うんです。アレックス様。私はただまるで小さな子が駄々をこねるかのように拗ねていただけだなんです。
貴方様のなされる事に反対など致しません。必ずそこには何かしらの意味があると知っているからです。
なのに……なのに……貴方様は、こんな私の為に、頭をお下げになられるのですか? 単なる孤児であるこの私に。そんな、そんな事……。
「特にクロードには怒られた。『このまま、スザンナが我が商会を辞める事になれば、それは大損失です! 今後は絶対にこのような事はなさらないでください。せめて一言、事前にご相談を。我等、かつてのように役立たずではございませぬっ!!』。いやいや、参った。確かにその通りだ。どうやら、俺は何処かで驕っていたらしい。小身だというのに恥ずかしい。同時に……感謝している。こんな風に、本気で商会の未来を想ってくれる仲間を得られた俺は幸せ者だ。スザンナ、こんな大した才もない身だが、これからもうちで仕事を続けてくれないか? この通りだ」
※※※
アレックス様がお帰りになられた後、私はいけ好かない男と相対していた。
テーブルの上にはとっておきの赤ワインとグラスが二つ。
「……一応、礼は言っとくわ。その、ありがと」
「単に勝ち逃げされたくなかっただけだ。それと勝負もしないで、負け犬になるお前を見るのもな」
「……どういう事よ?」
「アレックス様は、名目上『婚約』という形を取られているが、それはあくまでも形だけだ。大学卒業まで猶予はあるし、結婚されるかも不透明。と言うより、大貴族共がうるさくて今のままでは。強引に出来なくないが……どうだろうな」
「!」
クロードが赤ワインを一気に飲み干す。
そして、もう一杯、注ぐ。ちょっと、ペース早いわよ?
「……だから、お前にもまだチャンスはある。どうする? 諦めるのか? それならとっとと諦めるんだな。…………と言うか、諦めてくれよ、頼むから」
「? 何か言った??」
「何も。それで、どうするんだ」
「そんなの」
――答えるまでもない話よ。
それと、少しは味わって飲みなさいよね! 私のとっておきなんだからっ。
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