第3話

 最早、家のパソコンも監視されている。


 そう考えざるを得なかった。だから瑠璃子は放課後に居残って、情報演習室に足を運ぶ。数名のパソコン部らしい連中が一角を占拠していたが、それ以外はちらほらと課題をこなす生徒がいるだけで、瑠璃子は適当な席に座ってパソコンの電源を入れる。


 それにしても、この学校の情報の授業なんて――OSっていうのが何かすら、教えてくれない。他の学校も似たような物だろうが、ワープロや表計算ソフトの使い方を教えてくれる程度で、瑠璃子たちが毎日携えているCELLっていうのが、何なのかすら教えてくれない。


 検索。CELLとは何か。


 そしてネットの辞書ページには、こう記されている。


【電話機能を併せ持った、汎用携帯端末。その規格はIEEE 1702-Fによって定義されており、ハードウェアは様々な家電メーカーより発売されている。OSは主に、eXectorOS、クォンタムOS、HMV-OSの何れかが搭載されている。シェアの六十パーセントはeXectorOSで、事実上のデファクト・スタンダードとなっている。】


 そもそも、OSとは何か?


【ハードウェアを制御するための基本ソフトウェア。】


 ハードウェアを制御するって、どういうことだろう?


 そこには難解な用語が山のように鏤められていて、とても簡単には知りようがない。


 瑠璃子は溜息を吐いて、椅子に寄り掛かり、ポケットからCELLを取り出し、眺める。


 この小さな、手のひらに収まる機械。


 これがあれば、瑠璃子は大抵のことが出来る。電話を掛け、スケジュールを確認し、辞書を調べ、ゲームをする。


 だというのにそれが、どういう仕組みで動いているのかすら――さっぱりわからない。


 そう、わからないのは、良くない。


 だから両親に、いいようにされる。


 瑠璃子はそれから、毎日のように演習室に通い、とにかく辞書のリンクから辿れる用語という用語を――ワケがわからないながらも、読み下していく。


 もう、塾なんて知った事じゃない。


 完全に両親とは冷戦状態で、一切口をきいていない。それでも彼らは正面から瑠璃子と刃を交える勇気もないらしく、食事の時にぶつくさと文句は云われるが、決して彼らは、瑠璃子の目を見ようとしない。


 チキンめ。グラスハートめ。


 余計瑠璃子は、両親を軽蔑する。


「ルリちゃんさぁ、大丈夫?」


「何が?」


 ふと両親のことを考えつつ顰めっ面をしていた瑠璃子に、羽場が話しかけてくる。


「最近何だか、凄い怖い感じだよ。何かボクに手伝えることって、ないかな?」


「ない」


 あるはずがない。今の瑠璃子の問題は両親の監視で、そこから逃れるためには――何とかして、CELLが何なのか。どうすれば監視から逃れられるのかを。知らなければならない。


 そして次第に、瑠璃子は、朧気ながらも――CELLとは何なのかが見えてくる。


 小さなパソコンだ。それに尽きる。


 瑠璃子が操る演習室のパソコンと、画面の構成や操り方は違う。けれども中で動いているのは同じeXectorOSで、CELLはそれを手のひらでも扱いやすいように、表面を変えているだけに過ぎない。


 それで、OSとは何か?


 これはもう、パソコンに組み込まれた基本的な仕組みと思えばいい。OSは、違うメーカーのパソコンでも、同じ感覚で操作出来るようにしているもの。


 じゃあ、カスタムOSとは何か?


 ハッカーが勝手に改造した、OS。


 それじゃあ、ハッカーって?


 清水は、バンド・デシネの連中の本業はハッカーなのだと云っていた。それに美也子は、ジャンプというハッカーが有名だとも。


 ネットを探っていくと、有名だとされるハッカーについて記されたページもある。それによると、バンド・デシネはORDERSの中と同じように、組織だってネットを荒らし回っているらしかった。


 その傷跡は、至る所に散見される。


 彼らによって個人攻撃を受けた著名人のリスト。そこには瑠璃子も知る幾つかの事件があった。


 ネットで匿名で暴れ回る連中を卑下した芸能人。ネットを規制する法案を提出した議員。製品の不具合の問い合わせに、酷い対応をしたメーカー。


 彼らはネットの掲示板や情報ページに、散々悪口を書き込まれる。何千、何万通という迷惑メールを送りつけられる。そして時には個人の電話番号や住所を暴かれ、悪戯電話されたり張り込みされて行動をネットに報告されたりする。


 とてもこんな攻撃をされたら、瑠璃子は正気ではいられなくなるだろう。実際に攻撃の対象とされた人々は、早々にネットに謝罪文を掲載し、身を潜めてしまっていた。


 デシネらしい。確かにORDERSで知る、デシネらしい行動だった。彼らは表面上は世直しを装っているのだろうが、実際の所は――単に叩きやすい相手を見つけて、みんなで祭り上げて楽しんでいるだけだ。


 しかし彼らは、所詮度の過ぎた子供の悪戯程度で収まっている。


 世界的なハッカー軍団。彼らはよりハッカーらしく、より高度な技術を持っているらしかった。デシネもやれないようなこと――企業を攻撃して個人情報を流出させたり、ウィルスやカスタムOSのようなものを作って企業にダメージを与えたりといったことを、日々行っている。


 そして、そうした世界的なハッカーの中でも、特異な存在として、ジャンプの名前が挙がっていた。


 彼は、良いハッカー。そう美也子は云っていた。


 ハッカーに良い悪いなんてあるものだろうか、と思ったが、実際に彼の手によるとされる犯罪を見ていくと、確かに、良いハッカーと云いたくなる。


 彼のやっていることは、基本的にデシネがやっているようなことと変わりはない。しかしターゲットとするのは非常に社会的に悪質とされる相手ばかりで、デシネのように悪乗りしているような所もない。


 そしてその手腕も、デシネたちよりは、一段、高度だった。


 贈賄を得ていた政治家。製品の不備を隠し続けていた企業。そうした組織のコンピュータに彼は潜入し、証拠を掴み、ネットに流出させている。


 具体的にどうやっているのかなんて、瑠璃子には知りようもない。


 知りようもないが、凄いな、と思う。


 それだけコンピュータやネットワークについて詳しければ、こんな両親の監視の目なんて――簡単に誤魔化したり、無効化できたりするだろう。


 ――カスタムOS。


 その存在は、次第に、瑠璃子にとって――身近になってくる。


 eXectorOSを改造したと云われるOSは、幾つかのハッカー軍団によって開発されていた。その中でもCELL向けとされているものは何種類かあり、確かにそれらは、【見守りサービス】のような相手の自由を奪う機能を無効化出来るとされる。


 その導入は、CELLをパソコンと接続して、幾つかの操作を加えればいい、とある。細かい導入手順を紹介したページもある。


 ある、けれども。


 そこで行われる手順は、ワープロや表計算のソフトを使うのとは、まるで違っていた。直接CELLに対してワケのわからないコマンドを発行するのだが、そのコマンドが何を行わせようとするのかまで、解説しているページはない。


 確かに、このページ通りにやれば、【見守りサービス】なんて解除してしまえるのだろう。


 けれども、何か、不安が残る。


 だが、これをやらなければ――瑠璃子はいつまでも、両親に、監視され続ける。


 厭だ、そんなの。


 瑠璃子は思い切って、情報演習室のなるべく死角になる席を選んで、CELLとパソコンとを接続させる。


 手順。


 最初に、電源を切る。そして幾つかのボタンを同時に押しながら、電源を入れる。


 するとパソコン側に、何か得体の知れないメッセージが表示される。だがそれも手順書通りだった。パソコン側で幾つか操作を加えた後、こちらも得体の知れないページからダウンロードしてきたファイルを指定の位置に置き、ワープロやメモ帳と違った、直接パソコンに命令コマンドを入力する画面を開く。


 まるでこんなの、触ったことない。


 けれどもそれは、パソコンをマウスで操作する代わりに、全部キーボードからのコマンド入力で操作するだけの物らしかった。


 試みに、幾つかの代表的とされるコマンドを入力する。すると瑠璃子が保存したファイル一覧や、現在の日付なんかが――さらり、と文字列として流れてくる。


 あぁ、私、何かハッカーっぽいかも!


 急に何か、楽しくなってくる。


 私は同級生たちが全然知らない方法で、パソコンを操作してる。そう思うと、くだらない【見守りサービス】なんかで瑠璃子を縛ろうとしている両親なんか――何でもない、という気がしてくる。


 よし、ここからは、このコマンドだ。


 手順書通り、全然意味のわからないコマンドを、順に入力していく。その度に画面には英文の応答があり、更にその内容を確かめ、別のコマンドを加えていく。


 そして、最後のコマンド。


 手順書によれば、これを入力してしまうと――CELLの中身は完全に書き換えられてしまい、元には戻せなくなってしまうと云う。


 でも、大丈夫。


 瑠璃子は次第に自信が付いてきて、軽く唾を飲み込んでから――エンターキーを押し込んだ。


 すぐさま、英文が流れてくる。


 フラッシュ、とか、OSがどうとか、と、矢継ぎ早に様々なメッセージが表示され――そして進捗を現すバーが、刻々と、伸びていく。


 十パーセント。二十パーセント。


 心臓が高鳴り、指先が震えてくる。


 これって、本当に大丈夫だろうか? これでCELLが完全に壊れてしまったり、何か良くわからないけど――警察が飛んできて、捕まったりしないだろうか?


 コンプリート。


 最後に、表示される。


 上手く行った。ように、見える。


 それでも瑠璃子はまるで落ち着かず、震える手でCELLを取り上げ、パソコンと接続されたケーブルを抜き――思い切って、電源を入れる。


 CELL。


 起動時に表示される、幾つもの細胞が蜘蛛の巣のように繋がっていき、広大なネットワークを組み上げていく様を現した、見慣れたロゴ。


 その代わりに表示されたのは、何か得体の知れない――髑髏や赤いバッテンが組み合わされた、毒々しいロゴだった。


 いや、これで正しい。


 慌ただしくパソコン上の手順書と見比べながら、CELLの画面の遷移を追う。



pxBoot 1.1.1 eXB version: 1.12.1 - NightBuild

DRAM base 0x00000000 size 128MB

DRAM Total size 128MB

[256kB@fffc0000] Flash: 256 kB

Addresses 20M - 0M are saved for the pxBoot usage.

Mem malloc Initialization (20M - 16M): Done

NAND: 256 MB



 矢継ぎ早に、黒地の画面に、様々な緑色の英文が流れてくる。それがバラバラと流れ去っていくと――最後には、瑠璃子の見慣れた物とは少し違う、CELLのメニュー画面が表示された。


 うん、合ってる。これでいい、はず。


 それは画面構成こそ少し違っていたが、以前のCELLと機能的には変わりなかった。電話をかける画面、メールを送る画面。


 そして、ORDERS。


 けど、大丈夫だろうか?


 ここで起動して、やっぱり――誰かが飛んできて、もの凄い勢いで怒られたりしないだろうか?


 ――もう、どうにでもなれ!


 瑠璃子は思い切って、ORDERSを起動させるためのアイコンを、指先でタッチする。


 ――起動中。


 システムファイル読み込み中。


 セーブファイル読み込み中。


 そして、暗転。


 瑠璃子のCELLは、何も遮る物なく、ORDERSを起動させていた。

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