第27話
猪川雅臣。年齢三十七歳。数年前に大手システム会社を退職し、フリーのシステム・エンジニアとなる。専業主婦の妻と、五歳になる娘がいる。
そこまでの調べは済んだが、彼は家族で冬休みを利用してテーマパークに宿泊しているのが確認されたため、事情聴取は翌朝を待たなければならなかった。
「まぁ、由としましょうや」
佐野に慰められても、何の解決にもならない。
結局所轄のパトカーが辿り着いた時、既にジャンプは猪川の家から逃げ去った後だった。とりあえず家宅侵入の現場ということで朝霞たちは勝手に中に入り込んだが、やはり、彼は既に――全ての仕事を成し遂げた後だったらしい。地下に隠されていたシステムルームからは何かが持ち去られた形跡があり、既に手遅れだったことがわかる。
ずっとコンソール前の椅子に腰掛けたまま爪を囓り続ける朝霞に、佐野は苦笑して、軽く肩を叩いた。
「何年掛けても捕らえられなかった、クズのクラッカー。それを捕らえられたんだ。善行中心のジャンプを捕らえるより、CNUの評判も上がるってもんです」
「そうは云うが、私のCELLが――」
「ヤツがボスの違法捜査を暴露することは、ないと思いますけどね。アレは云わば、ヤツにとって保険なんだ。そう易々と使うとは――」
「しかしそうなると、私はジャンプを追えなくなる」
「いいじゃないですか! ヤツは【いいクラッカー】です。それは認めてもいいんじゃ?」
反論しかけたところで、所轄の警察官に促されて入ってくる男。中背だがやや太り気味で、大きな頭の頬が垂れているところからも、まるでカバのように見える。
どうも、と軽く頭を下げる朝霞に対し、彼――猪川は酷く憤慨しているようで、その外見とは裏腹の、甲高い、せせこましい口調で捲し立てた。
「なんなんですこれ? なんだか盗難に遭ったって聞きましたけど、こういうのって私の了解なく勝手にやっていいものなんです?」
視線をウロウロとさせ、まるで貫禄のない喋り口だった。
どうやら、今までこうした窮地に陥ったことはないらしいな。
朝霞はそう当たりを付けながら、膝の上に両手を組む。
「まぁ、通常の盗難事件であれば――ここまでしませんが。何しろここに侵入したのは、かのジャンプらしくてですね」
「ジャンプ? 誰ですそれ」
「おや。ご存じない。コンピュータ・エンジニアであれば知ってる名だと思いますが――」
「知りません?」
焦っているのが、丸わかりな反応だった。
「じゃあ――彼はクラッカーです。ここ二年ほど、数多くの企業に侵入し、数多くの機密流出事件を引き起こした。ね。これで思い出しましたか?」
カバ口を開け放ち、僅かに間を置く猪川。
「あ。あぁあぁ、思い出しましたよ。ネットじゃ色々話題になってたりとか――でもなんで私の家なんかに?」
「それをお伺いしたくてですね」朝霞は指紋を取り終えたラグランジュを掲げ、サイドテーブルに広げて見せる。「彼はこのパソコンに、何だか興味を持っていたようなんですが。お心当たりは?」
「――全然? いや、それは多少貴重なマシンではありますけれども、それで――」
「このマシン自体に興味があったなら、盗まれても可笑しくないですよね。でも彼は、このデータに興味を示しています」
軽く操作を加え、ジャンプが表示したままにしていたプログラム・ソースコードを画面に出す。
ドラゴン・レディー。
途端に息を飲んだ猪川に、朝霞は立ち上がりつつ、宣言した。
「猪川雅臣。いや。ドラゴン・マスター。不正アクセス禁止法、脅迫、詐欺の疑いで逮捕する。黙秘権とか弁護士がどうとかいうのは――彼らから聞いてくれ」
連行されていく猪川。
それを見送った朝霞は、再び、ドスンと椅子に腰を降ろした。
「弁護士がどうとか。私、云うの好きですけどね。刑事っぽいじゃないですか」
ふと微笑みながら云う佐野に、朝霞も何とか、微笑み返した。
「それにしてもわからん。完全にお手上げだ。ジャンプはドラゴン・マスターを探し、身内の復讐するのが目的だった。違うか?」
「ま、そういう推理でしたね」
「だというのに、ヤツは最後の最後になって交渉なんか持ちかけてきた。変だとは思わないか」
「そりゃあ――単なる時間稼ぎだったんでしょう? 結局ヤツが云った名前は、本物じゃなかった」
「それが変だと云うんだ。時間稼ぎ? 稼ぐ暇があったら、電話なんかせずにさっさと逃げれば良かったんだ」
「そりゃあ、そうですが」
「それに――どうもそれまでのジャンプの行動と、あの電話は。何か違う。ヤツは正義感があって、洒落があって、子供のような遊び心があって――実際、高校生か大学生らしい。しかしあの電話の主は、とてもそうとは思えない駆け引きをしてきた。酷く冷静で、理論的で――どう考えてもそれなりの知識層の人間としか――」
ふむ、と佐野は唸りつつ、髭を撫でた。
「ジャンプは二人組だったでしょう? それで何か、内輪揉めでもあったのかもしれない」
「――どうかな。とてもあの少女の方が、ジャンプの名を背負えるとは思えんが」朝霞は大きく溜息を吐いた。「一瞬、私はジャンプとは何者かを。理解したような気がしたんだが。さっぱりわからなくなった。彼は本当にドラゴン・マスターを捕らえるのが目的だったのか? 何か別の理由があって、クラックを続けてるんじゃないのか?」そしてふと、荒らされた一帯を眺めた。「それにヤツは一体、そこから何を盗んでいったんだ?」
「知りません?」佐野はあっさりと云い放ち、渋面を浮かべる朝霞にウィンクして見せた。「いいじゃありませんか。ジャンプってのは――良くわからんヤツですが、悪いヤツじゃない。私はそういう理解で十分です」
「ま、そうは云うが、好きな相手ってのは理解したくなるじゃないか」
「私は、知らない方が幸せってこともあると。知ってますよ?」
「ハッ、キミは随分、センチメンタルな人間なんだな」
「どっちがです」反論されかけたのを遮り、彼は朝霞を外へと促した。「ま、いいじゃないですか。ドラゴン・マスターの逮捕! こりゃ勲章物です。さっさと帰って寝ましょう。そして私は、明日から休暇です」
「誰がそんなことを許した。休暇はジャンプを捕らえてからと云ったはずだが?」
驚きに表情を強張らせ、振り向く佐野。
ジャンプに比べ、この実直な青年は、酷くわかりやすい。
朝霞はすぐに笑いながら、彼の背を押して階段を上がる。
そう、わかりやすいのもいい。なんだか裏切られない安心感がある。
けれども朝霞は、どうしても――ジャンプに対して抱いた、酷く不思議な好奇心を。拭い去ることは出来そうにもなかった。
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