第28話(最終話)
「いやぁ、どうもどうも。いつも愚弟がお世話になって、ホントに!」
現れた途端に正座して三つ指を突いてきたのは、やはりどう見ても病室で面会した女性としか思えなかった。今は灰色のパーカーにジーンズという砕けたスタイルだったが、猫のようにクルクルとした柔らかそうな髪に、羽場とよく似た細面、透き通るような白い肌と、どう見ても別人とは思えない。
ただし彼女は先日の窶れた様子は微塵も見せず、ニコニコと満面の笑みを浮かべて頭を何度も下げる。
「あ、いえいえ、こちらこそ――」と瑠璃子も正座したが、やっぱり良くわからなくて、眉間に皺を寄せながら彼女の顔を覗き込む。「順子、さん? です?」
「はいはい、羽場順子で御座います。ご挨拶が遅れてしまって、ホント申し訳――」
「もういいよ姉さん」と、羽場が溜息を吐きつつキッチンから現れた。「今更良い人ぶろうったって。無駄だよ」
「何よ順平! 私って良い人でしょ!」
「ヘン、良い人は他人の携帯端末に勝手に盗聴アプリ入れたり、精神病とかウソ吐いて心配させたりしないよ」
「あのね順平、ウソと思いやりは表裏一体なの。わかる? 私がウソを吐くことで人類全体が幸せになれるってんなら。喜んで幾らでもウソ吐くわよ」
「何が思いやりさ。単に自分が楽しみたかったからに決まってる」
「ひっどい。実際私が上手く手を打たなかったら、アンタらなんて今頃牢屋の中だわさ」
「またウソばっかり」
「ホントよ!」彼女は大きく、その細くて綺麗な指をクルクルと回した。「相変わらず順平は頭が硬すぎ。アンタ、CNUから盗んだ端末、その辺に適当に捨てたでしょ? あれ、減点一」
と、彼女はパーカーのポケットから、確かに瑠璃子たちが捨てたはずの警察仕様特殊CELLを取り出す。
「あぁっ! それ、何で姉さん持ってるの! 何? そんな、姉さんボクらのこと、ずっと尾行してたの?」
「秋葉原で騒ぎがあってから、慌てて飛んでったんだから! とても危なっかしくて見てらんなかったし」と、薄い肌に皺を寄せる。「いい? 敵から隠れようとしたら、逃げるだけじゃ駄目なの。混乱させて、時間を稼ぐ。攻撃は最大の防御よ?」
「え? 攻撃って――姉さん、一体何したのさ」
「アンタ、赤坂に貼り付いてた刑事を現場から離したのはいいけどさ。それじゃあ【ジャンプは赤坂にいます】って宣言するようなもんじゃん。馬鹿じゃない? それってORDERSで【これから攻めるぞ!】って信号弾上げるようなもんでしょ」
それは、そうだ。
迂闊だった、と顔を見合わせる瑠璃子と羽場に、彼女は腰に手を当て、大きく溜息を吐く。
「だから私、赤坂にいたヤツ以外も何人か追い払ったの。あとはCNUに電話して釘を刺して、それで十分くらい相手の足を止めた。どう? これでも私、アンタの恩人じゃない?」
話が本当だとすれば、彼女はドラゴン・バスター作戦の最大の功労者だったことになる。それでも羽場はとても認める気にならないようで、髪の毛をクルクルと捻りながら不満の声を上げる。
「でも姉さんが変な小細工しなきゃ。ボクらはもっと早く逃げられてた。だろ?」
「それはそうかもしれないけど、でもやっぱ追い詰められてこそ愛って成熟するものだと思わない? だいたい映画なんかじゃ、生きるか死ぬかって瀬戸際に強烈な愛の告白なんかが――」
「馬鹿馬鹿しい。姉さんがそんな恋愛マスターならさ、何で未だに独り身なのさ。あ、こないだネットのアンケートなんかに出てたよ? 【彼女にしたくない女性の特技】、じゃじゃーん、栄えある第一位は【パソコンにやたら詳しい】。何から何まで調べられちゃうからね、そんな彼女に捕まっちゃ。ちなみに第二位は【アニメとかゲームにやたら詳しい】。姉さん両方当てはまってるし」
「あら、私は好きで独りなのよ? 世の中にはろくな男がいないし。ホント嘆かわしいわ」と、不意に彼女は両手を胸の前で組み、頬をバラ色に染めた――ような錯覚に囚われる仕草をする。「あぁ、でもCNUの朝霞って人? もの凄い渋い声で惚れたわー。頭も結構良さそうだったし、文句なしよ。ちょっとあの人何者か調べようかしら」
「朝霞さんも可哀想、こんな阿婆擦れに見込まれちゃって」
呆れたように云って、サルサパリラを口にする羽場。
ようやく瑠璃子は我に返って、黙っていれば口を挟む間もない早口姉弟の会話に割り込んだ。
「あっ、いい? えっと、結局お姉さんって、ジャンクさん?」
ニコリと微笑んで、大きな口を左右に引き延ばす彼女。
「はい! 左様で御座います」と、不意に僅かに俯き、まるで冷徹な科学者のように表情を硬くした。「ま、騙すつもりなんて全然なかったんだけど。ジャンプが酷く恥ずかしがり屋なもんでね。なかなかボクを正面から紹介してくれないんだよな、誰にも」
あぁ、ジャンクだ。
「何が恥ずかしがり屋さ。単にボクはこんな姉さんがいると知られたら、色々と面倒なことになると思って――」
「え、えっとさ、じゃあ何でネットじゃジャンクなの? 別に姉弟なんだったら普通に――」
「ネットなんて常に盗聴を気にしないと駄目だからね。常にコールサインで話すようにしてるだけさ」と、羽場は不意に悪戯っぽい笑みを浮かべる。「それにその方が、なんだか格好いいし!」
「それにしたって、ジャンクの演技なんて今と全然――」
「あ、それは単なるコイツの趣味。昔からドラマとか映画とかの役者真似するのが好きでさ。それが高じて演劇やって声優なんかになってる。馬鹿みたい」
「【総員、突撃せよ!】」
唐突に云い放った彼女に、瑠璃子は思わず両手を打ちあわせた。
「えっ? えっ? ORDERSの司令官の声って、まさか――」
「そ。恥ずかしいったらありゃしない。そんでそれだけじゃ満足できなくて、動画マニアのジャンク屋なんかやってる」
「芸の肥やしに必要なんだってば」
「ま、ボクはウィルスのファイルとか他人のエロ動画とか何の肥やしになるのかさっぱりわからないんだけれども、加えて他人を騙したり混乱させたりするの大好きで、もの凄い入念な仕込みをするんだ。ジャンクってキャラみたいに。単なる馬鹿でしょ。アホだし。変人」
「アンタよりマシだと思うけど!」
と、再び始まった姉弟喧嘩に、瑠璃子はすぐさま割り込む。
「え、えっと、じゃあお姉さんが病気って云うのは全部ウソで――あれっ? でもそれって学校の記録にそう書いてあって――」
「なんだルリちゃん、そんなことやってたのか。姉さん、また先生にウソ八百並べたんだろ?」
視線を向けられた順子は、これ見よがしに頬を膨らませる。
「それもアンタのためを思ってよ! 可哀想な境遇だと知れば、先生だって甘くなるだろうし――あぁ、この変人がちゃんと学校で勉強してるのか、虐められてやしないかと思うと。私すんごい心配で――」
「じゃ、じゃあ、ご両親が亡くなってるっていうのも?」
「死んでる? パパとママが? 二人ともピンピンしてるよ。商社勤めで、ずっと海外行ってるけど」
「ホントあの二人は。親代わりしなきゃならない私の身にもなってよ! 殺したくもなるわ」と、順子。
「じゃあ、それもウソで、順子さん病院にいたのは――」
「ただの盲腸だよ。やっぱ毛とか剃られちゃったの?」
云った順平に、順子はジーンズのベルトを外しにかかる。
「そうなのよもう。ぺろんぺろん。見る?」
「結構」
二人揃って云ってから、瑠璃子は我に返った。
「えっと、それで、じゃあ順子さんがドラゴン・マスターに脅されたってのもウソで――ってか、何でそんなウソを?」
「単なる趣味。馬鹿」
云った順平に、順子がすぐさま食いつく。
「違うわよ! 私はちょっとでも、ルリちゃんの順平に対する印象を良くしようと――」
「印象? 何の?」尋ねた瑠璃子に、グッ、と口を噤む順子。「え? ひょっとしてアレ? 順平ちゃん、結局何でドラゴン・マスターを追ってたの? あの青い段ボール? あれをずっと、探してたの? あれって、何? ひょっとして、もの凄い馬鹿馬鹿しい物なんじゃあ――」
はぁ、と急に大きな溜息を吐きつつ肩を落とす順子と、逆に酷く目を輝かせながら立ち上がる順平。彼は様々なガラクタが積み上げられているクローゼットを開くと、その奥底から例の段ボールを持ってきて、二人の前に誇らしげに置く。
「いやいや。なかなか大変だったけど、それだけの価値はあったよ。何しろ世界中で百本しかない星十個の超レア物だよ? 二年前にヤツに当選コードを全部持ってかれた時は、もう終わりかと思ったけど――これも全部、ルリちゃんのおかげだ。超感謝! 超感激!」
星、十個だって?
瑠璃子は急激に厭な予感がしてきて、この場を立ち去りたくなってきた。
「えっと、それってまさか――あの、私、帰っていいかな」
しかしすぐさま順子が、泣きそうな顔で瑠璃子の腕を掴んだ。
「ゴメンね、ホントゴメンねこんな弟で! でも見捨てたりしないでね!」
「じゃじゃーん! 本邦初公開! 二年前にアンケートに答えた人の中から抽選で百人にプレゼントされる予定だった、サルサパリラ・オクトパリラ! それがドラゴン・マスターに全部独り占めにされてから、遂に二年! ボクは遂にこの超レア物を手に入れたんだ!」
ババーン、という効果音を自分の携帯端末で鳴らしてから、晴れやかな笑顔で段ボールを開く羽場順平。
そして彼がそろそろと引っ張り出して来たのは――
「おおおっ! 想像を絶する美しさだよ! ルリちゃん見てこれ! まるでカリブの海を思わせる透き通ったグリーン! それにこの、豊満なヒップみたいな素敵な瓶! それでいて王冠はスタンダードなサルサパリラ紋章が輝いてる! 凄い! 最高だよ! これはもうレア度だけじゃなく、ボクが今までに見たサルサパリラの中でも最高な――」
これが。
こんなことが、許されていいのか?
「じょっ! 冗談じゃ! ないっ!」叫ぶと同時に、思い切り唾が羽場の顔に飛び散っていた。「あ、ゴメン。いや、そうじゃなく! 何なのそれ! 私がもの凄い心配して、羽場ちゃんのお姉さんのためだと思って、捕まって前科一犯になって退学になる危険を冒してまで手伝ったってのに! 何それ! どういうこと? 私のしたことって一体――それが全部、こんなワケのわかんないジュースのため? そういうこと? 全部、全部ウソばっか?」
「あ、ちょっと待って。サルサパリラはジュースじゃない。これは芸術品」
「馬鹿? 本気で頭がどうかしてんじゃない? 順平ちゃん本気でこんなもんのために無期懲役近いヤバイことばっかしてるの? あぁ、何よそれ! 順平ちゃんのこと、ちょっとでも凄いかもとか思った私が馬鹿だった! もういい! 順平ちゃんには心底呆れた!」
「ちょっと待って? ちょっと待って?」順子が不意に、瞳に涙を浮かべながら縋り付いてくる。「怒るのも無理はないわ。でもこの子、子供の頃に熱病にかかっちゃって、それ以来というもの話すことは支離滅裂だし背は伸びなくなっちゃうし――」
「もう騙されません! 順子さんも順子さんでしょ! なんでそんなウソばっか吐くの! そんな演技したっていずれバレるに決まってるじゃない! 何がジャンクよ! 何が大師匠よ!」袖を掴む順子の手を振り払って、瑠璃子は渋い顔でいる二人の羽場に叫んだ。「もう、何が免許皆伝よ! 何が【探し物】よ! 思わせぶりなことばっか云って、結局は――」
「そうは云うけどさ、ルリちゃんも気付いてよ」と、羽場が疲れたように。「普通、気付くよ? ボクの姉さんの名前が順子だって知ったら」
「え? 何を! またワケのわかんない言い訳は――」
「そうじゃない。いい?」と、彼は何かを説明するときの癖で、指を一本立てた。「ボク、ジャンプ。姉さん、ジャンク。わかる?」
「何が!」
「ちょっと名前を並べて書いてみてよ。ボクはジャンプ。そんで姉さんはジャンク。まだわかんない?」
一瞬、何を云われているのか、さっぱりわからなかった。
一体何の話だ?
ともかく云われたとおり、頭の中で彼らの名前を書いてみる。
ジャンプ、jump――順平。
ジャンク、junk――順子。
それでようやく彼の示唆したことに気がつくと、途端に怒りが恥ずかしさに、そして恥ずかしさが自分の愚かさに向けた怒りに転化してきて、叫ぶことも、息をすることも出来なくなっていた。
「ジャンプ。jump。順平の、こと?」
こくり、と頷く順平。
「それに、ジャンク。junk。順子の、略?」
ニコリ、と微笑む順子。
暑くなってきた。
顔が真っ赤になってきて、振り下ろした拳の振り下ろし先も見つからず――瑠璃子は次第に泣きたい気分になってきた。
そうか。馬鹿だ。
どうして気付かなかった?
ほんと、下らないジョーク。下手な語呂合わせだというのに。なんでそんな簡単な事に、思いが至らなかった?
それにさえ気付いていれば、私は――彼らの矯飾が、矯飾を覆い隠すための更なる矯飾だと。とっくに気付いていたはずだったのに――
「そう。実はそれって、もの凄い重要」順平は手の平でオクトパリラを撫でながら、云った。「何度も云ってるけどさ。ネットって別にそれほど大したことなくて。結局は現実の延長なんだよ」そう、何度も云われていた。「だからクラッカーにとって重要なのって、ネットに詳しいことも――そりゃ重要だけど。それ以上に重要な事って、【人】なんだ」
「人――」
「そう。ネットやってるとさ、リアルじゃ出会えなかった人とも簡単に出会える。死ぬまでに千人くらいと知り合うのが限度だったのがさ、今じゃ何万人と簡単に知り合える。するとさ、今までの常識が通用しない相手ってのが一杯いてさ」
「サルサパリラマニアとか」
指さし云った順子に、指さし返す。
「ウソ吐き病とか。でもそういうのってさ、その人たちにとってはもの凄い重要な事で。とてもドラマや何やらで共有できる感動とは違う類の物なんだな。で、クラックをやろうとすると――そういうのを全部、理解する必要はないけど、許容する心ってのが必要になってくる。ま、そういうのもアリだよね、ってさ。
だってそうでしょ? ネットってのは、人の創り出した、人のための世界なんだ。そこで活動してる人のことを受け入れられないと――とてもその隙なんて、突けなくなる。
でさ、ルリちゃんって真面目で常識人で頭良くて可愛いけど、そういうのが欠けてるんだな。
だからボク、云ったんだ。【ボクの捜してる物を見つけられた時が、免許皆伝】って。それって別にクラックの技を磨いて貰いたかったんじゃなくてさ、サルサパリラのために、こういうことをやろうと思う人がいるってことを――受け入れて貰いたかったんだ」
そう。まるで、返す言葉もない。
だいたい羽場は、最初から云っていたじゃないか。自分はサルサパリラの全フレーバーを集めるために、クラックをしているのだと。
でも瑠璃子には、それが信じられなかった。より信じやすい、お姉さんの敵討ちなんてウソの方を、簡単に受け入れてしまった。両親が自分の事をどう思ってるかも理解しようとせず、美也子はお父さんを失って悲しんでいるだろうとしか思えなかった。
頭が硬い。硬すぎる。
だからまんまと、ジャンクのウソに、騙された。
「――でも。そうやってウソのウソって考えてくと――信じられる物なんて、何もなくならない?」
そう、辛うじて疑問を口にした瑠璃子に、羽場姉弟は揃ってニヤリと笑った。
「楽しけりゃ、何でもいいじゃん!」
やっぱり私は、この二人には。ついて行けそうもない。
そう思う反面、やっぱり実は、凄い人たちなのかも、と思う。色々不安なことがあって、頼りたいこと、信じたいことがあるのに。それを全部笑い飛ばして、毎日楽しく、自分の信じる物に向かって生きて行けたら。
それってきっと、瑠璃子の目指す――後悔のない人生って、ヤツなのかもしれない。
「さ、まぁ色々あったけど、とりあえずミッションの成功を祝って、乾杯と行こうじゃない!」
前と同じように、キッチンに向かって三つのグラスを携えてくる順平。
「いや、私は――」云いかけた所で、瑠璃子は順子も厭そうな顔をしているのに気がついた。「あれ、順子さんも駄目なの?」
「無理。私、マジでサルサパリラだけは理解出来ない」
「あ。それはホント。ウソ吐き姉さんの唯一のマジ。だから罰ゲームとして飲んでもらわなきゃ」グラスに注がれる、僅かに粘性がありそうなグリーンの液体。「これ、市場価格じゃ、一本百万くらいするのよ? 大事に飲んでね?」
百万円?
こんな得体の知れない液体に、百万円だと?
人類共通の金銭的価値観に対象付けられると、一気に羽場の情熱が身近に感じられてくる。
百万円。これが百万円。
瑠璃子は軽く臭いをかぎ、何だか見た目と全然違う、珈琲とメロンと栄養ドリンクを混ぜ合わせたような異臭に目眩を感じる。
それでも、これに百万円の価値を感じる人もいるんだ。瑠璃子がこの味に慣れた時、羽場を――ジャンプを、もっと身近に感じられるかも――
それにしても、この臭いは一体――何なんだ?
臭いだけじゃない。何だか酷く辛そうな刺激が鼻の奥を刺すし、それと同時にサルサパリラ特有の湿布臭がもの凄いし――
「さぁ、乾杯!」
グッ、と液体を喉に流し込む羽場姉弟。とても瑠璃子は踏ん切りが付かず二人の様子を眺めていたが、ふと、眉間に皺を寄せて目を閉じながら飲み込んだ順子が、呆気に取られた表情でグラスを眺めた。
「あれ? これ、臭いは凄いけど。味はただのメロンジュースじゃん?」
彼女と同時に大きく口を開け放っていた順平は、慌ててオクトパリラの瓶を手に取り、ラッパ飲みする。
「――何だこれ! 全然サルサパリラじゃない!」
「えっ?」
まさか、ドラゴン・マスターは――敵の襲来を予期して、ダミーの一風変わった外見の瓶ジュースを用意していたとか?
「――やられたね。敵が一手、上手だったってことさ」
不意に大声で笑いながらもジャンク風に云う順子に、順平は完全に動転した様子で目を大きく見開き、口の端を歪め、再び瓶を口に付ける。
「何だよ! 何だよこれ! これってアレだよ、あの、その――えっと、そう! ヌカ・コークが十三年前まで作ってたジュニパー・クリアって何の面白みもない子供向けのジュースじゃん! 何だよこれ! 何だってんだ! チクショー! なんでこんな失敗――クソッ、もう一回ヤツの家に行ってくる!」
飛び上がるように椅子から立ち、コートとマフラーを慌ただしく身につけようとする順平。順子は声を上げて笑いながらその袖を掴み、顔を真っ赤にし、酷く暑そうに片手で頬を扇いだ。
「諦めなさいってば! いやぁ、それにしても面白い! いいオチが付いた!」
「オチ? オチって何さ! これじゃあまるでルパン三世の超貴重なワインを盗んだら酢に変わってたってオチと一緒じゃん! これも、その、アレだよ、姉さんが変なトラップ仕掛けるから、ちゃんと確かめてる暇がなかった所為で――」
いや確かに、いいオチだ。
「アハッ! ウソばっか吐いてるから。因果応報!」
と、瑠璃子は矯飾だらけの師匠に一矢報いてくれた敵に感謝しつつ、軽くグラスに口を付ける。
途端。
異常な味を舌が察知したが、既に液体の半分以上が食道を焼き尽くしながら胃に流れ込んでいた。途端に腹の奥底が激しい刺激に悲鳴を上げ、激しく燃え上がり、異物を拒絶しようと収縮する。しかし喉に絡みついたドロリとした液体が食道を塞いで逆流を防ぎ、爽やかな湿布の香りが鼻を抜けていって一度に吐き気を抑えさせる。しかし冷えてないのも相まって舌の奥に残った甘ったるい後味が何とも云えない絶望的な不快感を増幅させ、そして内臓に突き刺さる刺激が脳幹を伝わって視神経を刺激し、平衡感覚を狂わし、眉間を麻痺させ、まるでまともに座ってすら――
「ハッ、また騙されてんの。ルリちゃんちょっとは学習しなきゃ」順平は云いながら、瓶に残った絶望の液体を飲み干す。「クアァッ! 効くっ! こりゃ、サルサパリラ最高のフレーバーだよ! 何で量産しないのコレッ!」
「うぇっ。付き合ってらんない。水水、はよ水」
どうやら順子のサルサパリラ嫌いは本当らしく、舌を突き出して額に浮かんだ汗を拭いながらキッチンに向かう。
そう、瑠璃子はまたしても見逃していた。
彼女の身を挺した演技は生理機能までは誤魔化せず、おかげで顔が真っ赤になり――急激な発汗を伴っていたのだった。
「――ま、また騙されたあああああっ!」
最早、叫ぶしか残された逃げ道はなかった。
けれどもきっとこれが、踊るハッカー姉弟の――唯一の、真実なのだろう。
平澤瑠璃子はスーパーハッカーの夢を見るか? 吉田エン @en_yoshida
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