第8話
羽場――ジャンプというのは、どういう存在なんだろう。
まるでその答えを、彼自身も探しているかのような口ぶりだった。
そう、彼は何かを探すよう、とにかく大企業や公的機関に侵入しまくる。そしてたまたま彼にとって許されない不正を発見すれば、公にして大騒ぎを引き起こす。けれども特に何も得られなかった場合は――そのまま、去る。
まるで下品な芸能レポーター。
いや、違う。
どちらかというと、羽場のあの瞳の色は――監査人だな、と、瑠璃子は思う。
彼は呼ばれてもいない監査人。組織の不正をチェックし、場合によっては、断罪する。
だがそれが、羽場の目指すところではないようにしか思えなかった。
彼は、何かを、探している。
広大なネットという空間を彷徨い歩き、邪魔な壁を壊し、フラフラと中に入って様子を窺い――違う、これじゃない。そう呟いて、去っていく。
じゃあ、彼は一体、何を探してるんだろう。
確かに彼の行っていることは犯罪行為に違いなく、その懐に収めた膨大な極秘資料が公にされれば、会社の十や二十は軽く潰れるとされている。CNUも血眼で彼の正体を追っていて、もし捕まるようなことがあれば――そう、羽場自身が云ったように、数十年の実刑は堅いらしい。
そんなリスクを冒しつつも、彼は一体、何を探している?
自分探しの冒険にしては、危険すぎる。それは彼自身も理解しているはずで、瑠璃子には、彼が口にしていない、何か別の大きな理由があるようにしか思えなかった。
それって、一体。何だろう。
結局殆ど眠れないまま、学校に向かう。
眩しい日差し。乾いた空気。人々は背中を丸くして駅へと向かい、同級生の女子たちは朝早くから大声ではしゃぎ合い、男子たちはだらしない格好で大あくびをする。
見慣れた光景、のはずだった。
けれども瑠璃子には、なんだかそれが酷く遠くに見える。これまでは当然すぎて深く考えたこともなかったが、当然彼らにも家があり、そこで一日の半分以上を過ごし、家族と会話し、ネットを彷徨い――そんな瑠璃子の知りようもない世界を、持っている。
まるで知らない世界。壁の、向こう側。
しかし羽場は、その壁の向こうを、知っている。
彼らが何を拠り所にして生きて、どんな希望を持っているか。そんな人の根幹に関わるところから、彼らの両親がどんな人で、裏ではどんなことをしているかも――知っている。
知ろうと思えば、知ることが出来る。
それって、どんな気分だろう。
そう、美也子の父親が不正を働いていたかも知れないと知っても、彼はそう、驚かなかった。むしろ、予め想像していたような所もある。
それって、とても悲しいことだな、と思う。
事実を知ると、彼が学校でオチャらけていられるのが、奇跡のようにも思える。人の裏側を全部知って、それでいて馬鹿をやって、瑠璃子たちを楽しませようとしているなんて。
どうして彼は、そんなことが出来るんだろう?
どうしてそこまでして、ネットに拘るのだろう?
彼の探しているのは、一体、何なんだろう。
「私、決めた!」
CELLを手にし、フラフラとゲームをしつつ歩いていた羽場。その背中を見つけて駆け寄り、脇から宣言すると――彼は酷く驚いてCELLをお手玉し、今度は手に収めるのに失敗して転がり落ちようとしたところで、瑠璃子がしっかりと、キャッチする。
「あ、なんだ、ルリちゃんか」大きく息を吐きながら、それでいて少し困惑したような表情を残しつつ――彼は瑠璃子からCELLを受け取った。「決めたって。何を? ボクのお嫁さんになるって?」
「馬鹿云わないでよ!」
思わず奇声を上げた瑠璃子に、大げさに羽場は身を縮めた。
「――キツイ。キツイんだよな、その――朝からその高周波って。いや、そりゃぁある意味その声ってルリちゃんの魅力ではあるし、ボクも十時過ぎくらいからは平気になるんだけれども、朝にその叫び声を聞くとさ、ボクの脳味噌のコンデンサが弾けちゃうような感じがして目の前に火花が――」
意味はわからないが、ホント、失礼っぽいことを平気で云う。
そう叫び返そうとした所で、彼は慌てて両手を広げ、辛そうに眼を細めた。
「わかった。ゴメン、悪かったよ。それで、決めたって。何を?」
瑠璃子は喉元まで来ていた叫び声を飲み込み、足を進め始めた羽場に――努力して声を抑えつつ、云った。
「私、ジャンプの弟子になる」
きっと、黙り込むなり、大げさに拒否するだろうと思っていた。
けれども今朝の羽場には、未だにジャンプの残滓が半分くらい残っているらしい。
「へぇ、弟子ね」まるで予想していたように素早く答えて、軽く目を上げる。「それでルリちゃんの、探し物は?」
探し物。
私の、探している物。
「――わかんない」
関わってられない、というように肩を落とすジャンプに、瑠璃子はすぐ、付け加えた。
「でも、何でも知りたい。って云うのかな」何だか何でも知られているかも、と思うと、変に隠し立てするのが馬鹿らしくなってきた。「ホラ、私ってさ。何かを突き詰めないでいられない質なのよね。ソフトじゃ突き詰めすぎて膝悪くしちゃったし、ゲームでもあの通りでしょ? 何て云うか、その――奥が。そこを乗り越えた先に、何があるのか――見極めたいって云うか」
「――わかる。わかるよ。それって凄く、良くわかる」
「でしょ? 何なんだろう、この感覚。友だちとも凄く仲良くなりたいし、勉強だって――そりゃ、暗記は馬鹿馬鹿しいし苦手だけど――数学とか、なんか理屈立ってて面白いし。何が、何で、そうなってるのか。知りたくて仕方がなくなっちゃうんだよね」
「それで、無茶する時。結構あるよね。デシネに喧嘩ふっかけたり」
「そうそう。馬鹿みたいでしょ? 馬鹿みたい、だと思うんだけど。でも、止められない。逆にさ、それを遮られると――もの凄くイライラしちゃうの。思い通りにならないストレスって云うか――でも思い通りにならないのを、思い通りにするには。頑張るしかないよね?
でも頑張っても、どうにもならない壁があった。
膝、とかさ。
それで、せっかく身体に関係ないゲームに辿り着いて。これって、もの凄く楽しかった。楽しかったし、やればやるほど、考えれば考えるほど上手くなる自分がいて。それが嬉しくて。
なのに、今度は【見守りサービス】でしょ?
もう、頭にきちゃって。
どうしてみんな、私の邪魔をするんだろう。
どうして私の膝は、こんなヤワなんだろうって。
でも結局、それって私が馬鹿なのが悪いんだよね。私が馬鹿だから、限界がわかんなくて膝壊しちゃった。
だから、ネットでも――同じような事に、なりたくない。色々勉強して、誰にも邪魔されない、強い力が欲しい」
まるで、朝から口にする台詞じゃない。
きっと寝不足で、頭が半分ぼやけてるんだろう。
そう自分で自分を誤魔化しつつ云った言葉に、羽場は小さく溜息を吐いて、軽く口の端を歪めて見せた。
「でもボクは、ルリちゃんが犯罪者になる手伝いなんて。したくない」
「ばらすよ」
スッパリと言い放った瑠璃子に、彼は驚いたように足を止めた。
「な、何?」
「格好付けてるんじゃないの、って。私、弟子にしてくれなかったら。羽場ちゃんがジャンプだってばらす」
「ま、まさか! ルリちゃんがそんなこと、するはず――」
「しないと、思う?」
羽場による瑠璃子像が、どんなのだかはわからない。けれども瑠璃子には羽場のようなネットの別人格だなんて存在しないし、努めて裏表はないように心がけていた。
だから彼も、瑠璃子が本気になった時の行動力は、疑いようがなかっただろう。数秒の後、彼は大きな溜息を吐きつつ、猫背を更に丸くしてトボトボと歩き始めた。
「いいよわかったよ」投げ捨てるように云って、CELLでのゲームを再開させる。「でも、ボクに教えられるのはネットの知識だけだ。その先に何があるのか、何を求めてるのかは――ルリちゃんが自分で探さなきゃならない」
「わかってる」
「覚えることが沢山あるよ? ボクはそんな優しい先生じゃないからね?」
「大丈夫!」思わず叫んだ瑠璃子に、彼は再び辛そうに顔を歪める。「で、何から? 何を勉強したらいい?」
「――そうだな。先ずはフェルト生地、あと九十枚、集めなきゃ」
「思ったんだけど、それってジャンプなら簡単に改造とか出来ちゃうんじゃないの? 何かCELLの中のデータを弄って――」
「出来ると思うよ? でもそれって、何か違うよね」
――そう、違うかも知れない。
その答えで、羽場は犯罪者かも知れないが――瑠璃子にとって悪い先生にならないことは、簡単に信じられた。
そして一週間ほどの忌引の後、美也子は学校に戻ってきた。
正直瑠璃子は彼女とどう相対していいのか、わからなかった。それでも美也子ならば、こんな時、きっとすぐさま問題の主の所に向かい、あの穏やかな笑顔で何かしら声を掛けるだろう。
そう考えて、羽場を促し、勇気を振り絞って美也子の席に向かう。しかし彼女は驚くほど平然としていて、むしろこちらに気遣わせないよう、すぐさまあのおっとりとした喋り口で云った。
「正直、全然実感ないんだ。お父さんって云っても、私やお母さんとはずっと別居してて、全然会ったことないし」
まるで知らなかった。
そう口を開け放つ二人に、彼女は嬉々としてCELLを取り出す。
「お葬式って云っても、全然することなくて暇だったの。それであの熊装備作ってみたんだけど、見る?」
羽場は熊の着ぐるみを用意していたCELLを背後に隠し、酷く疲れた様子で、瑠璃子に呟いた。
「ほら、予想外。面白いよね? 人生色々でさ」
本当、人生色々だ。
だからこそ、色々知りたくなる。
羽場から与えられた最初の課題は、別に違法行為でも何でもなかった。
「ぶっちゃけ、ルリちゃんの知識は、ボクから見たら小学生レベルなんだ。あ、ちなみにボクは大学教授。大学教授が小学生に物を教えるなんて、馬鹿馬鹿しいと思わない? だからとりあえず、この資格を取って。それでようやく、中学生にレベルアップ出来る」
手渡された電子パッドには、なんとか初級情報処理とかいう国家資格の受験マニュアルと対策本が入っていた。
「夏休みに試験があるからさ、それ、ぱっぱと取っちゃってよ」
瑠璃子はこれでもゲーマーだし、多少はクラッカーの真似事もやってきた。幾ら何でも、小学生ってことはないだろう。
そう頬を膨らませながらパッドのページを捲ってみたが――情報処理系では一番簡単だという試験であっても、瑠璃子には何が書いてあるのか、さっぱりわからなかった。
「羽場ちゃん、まさか相手にするのが面倒になって、無理難題を押しつけてるんじゃない?」
「んなことないよ」
「えっと、じゃあ、ランダムアクセスに適したデータ構造は?」
「B-Tree」
「OSI七階層モデルを全て列挙せよ」
「あぁっ! 頼むからソーセージとピザは捨てちゃ駄目っ!」
「――何それ」
ついに狂ったか。いや、前からか。
そう眉間に皺を寄せて口を開け放つ瑠璃子に、彼はニヤリとして両手の指を突き付けた。
「語呂合わせだよ。はい、リピートアフターミー、Please Do Not Throw Sausage Pizza Away」
「Please Do Not Throw Sausage Pizza Away.」
条件反射でオウム返しした瑠璃子に、羽場は勢いよく親指を立てた。
「グッド! 頭文字から、物理層(フィジカル層)、データリンク層、ネットワーク層、トランスポート層、セッション層、プレゼンテーション層、アプリケーション層って覚える」
「じゃ、じゃあ――」
「だからさ」続けようとする瑠璃子を遮り、「この試験は学校の試験なんかと違ってさ。全部重要なんだってば。ボクは今でも、素で受験しても合格する自信があるよ」
どうやら、諦めて勉強を始めるしかなさそうだった。けれども内容は、eXectorOSやネットワークに関わるような事は全然なくて、そもそもパソコンの中にはどんなパーツがあって、それぞれの役割は何で、その中ではどんな数理的な処理が行われているのか、という基礎中の基礎からのお話だった。
「全然、なんかクラッカーっぽくない」
放課後、愚痴りながら瑠璃子が勉強する脇で、羽場は薄ら笑いを浮かべながらORDERSに興じていた。
「そりゃそうさ。上辺だけのパソコンの知識で何かしようと思ったって、デシネの連中のようなスクリプト・キディにしかなれない。ルリちゃんが本当にネットで確かな力を得たいなら、まず先にハッカーにならなきゃ」
「ハッカー? ハッカーって、別に違法なことはしないんでしょう?」
「色々と言葉の定義はあるけどね。でもさ、この世界のコンピュータ・ネットワークってのは、一流のハッカーたちが創り上げたものだ。その裏を掻こうと思ったら、ハッカーの知識は全て得ておく必要がある。その上で、壁を守る側に回るか、壁を壊す側に回るか――そんなお話さ。
そもそもコンピュータって呼ばれるものって、色々な種類があって、それを全部知るのが重要なように思えるかも知れないけど。実際はさ、同じ車でも色々あるけど、動作原理は全部一緒でしょ? それと同じで、CELLのような汎用携帯端末でも、普通のパソコンでも、ゲーム機でも、研究所にあるようなスーパーコンピューターでも。基本は全部同じなんだ。だからその本質を知るためには、根底にある基礎を学ぶのが手っ取り早いのさ」
基本は全部同じ。
確かにそれは、羽場の注釈を受けながら勉強を進めていくうちに、次第に理解出来ていくようになる。
家のパソコンと、CELLと、テレビのレコーダーと、銀行のATM。その画面は全然違うし、出来ることも違う。けれどもその中の部品は殆ど共通化されていて、基本的な処理も同じ。
インプットと、処理と、アウトプット。それに尽きる。
瑠璃子がキーを叩く。それに対して何らかの処理が行われ、画面に出力される。
コンピュータというのは、基本、それだけだ。
電卓と同じ。ただ今のコンピュータは、色々な入力を受けて、色々な処理を行って、色々な出力が出来るよう、進化しただけに過ぎない。
インプットというのは、キー入力かもしれない。音声入力かもしれない。動画入力かもしれない。記憶装置からファイルを読み込むことかもしれないし、別のコンピュータからのネットワーク入力かもしれない。
処理というのは、単純な足し算かもしれない。引き算かもしれない。それが大量に組み合わされた、表計算かもしれない。幾つもの動画を繋ぎ合わせて編集することかもしれないし、場合によっては、将棋の次の手を考えるAI的な処理かもしれない。
そしてアウトプットというのは、ディスプレイへの表示かもしれない。スピーカーへの音声出力かもしれない。記憶装置にファイルを書き込むことかもしれない。あるいは別のコンピュータへの通信かもしれない。
そしてインプットとアウトプットが無線電波や光ケーブルを介して繋がることで、ネットワークとなる。
基本的には、ただ、それだけ。
まるでカスタムOSや、ジャンプ・ツールを弄ってる時には、考えもしなかった領域。
結局、人の世界と同じだな、と思う。五感から色々な入力を受けて、考えて、次の行動に移す。そうして様々な人々に影響を与え、影響を受け、社会という名のネットワークが構築されていく。
「そ。そんな感じでさ、ネットワークの世界って云うのは、ちょっと独特な仕組みが幾つかはあるけれど――基本的に現実世界の各要素を電子的なものに置き換えただけなんだよ」
羽場のその台詞も、今ではすんなりと、理解出来る。
そう、結局、コンピュータとネットワークの世界というのは――現代社会を、かなり単純化しただけのものに過ぎないようだった。
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