第4話

 何だ、この程度のものだったんだ!


 何だか色々悩んでいた自分が、馬鹿のように思えてくる。確かに清水が云っていたように、このカスタムOSは【見守りサービス】を完全に無効化している。けれどもそのままでは、瑠璃子の両親には――瑠璃子のCELLが急に消え失せたような状態として見えてしまうらしい。


 素晴らしいことに、クソッタレの【見守りサービス】が未だに動き続けているように見せかけるためのアプリも、とあるハッカーが開発していた。


 時間と、操作内容と、GPSが取得する移動経路。


 そんなものを、瑠璃子は手動で設定して行く。するとそのアプリは偽造された情報を、さも本物のようにして、両親に送ってくれるという具合だった。


 よし、よし、これで――これで私は、両親の呪縛から解放された!


 そう喜び勇む反面、これって本当に大丈夫だろうか、という不安が拭いきれない。


 行動が偽装されていることを知った両親が、あの冷たい表情で瑠璃子を詰問しに来るんじゃないか。あるいはCELLに違法なOSを入れていることを警察が掴んで、逮捕しに来るんじゃないだろうか。


 だから瑠璃子は、一週間ほど、まるで熟睡できない日々を送っていた。改造したCELLを積極的に使うのも控え、息を潜め、誰かが何かを勘付いていないかを――耳をそばだてて、窺う。


 何か悪さをした途端、サイレンが鳴り響いて警備員に取り押さえられるのも厭だが――こうして自分のやったことが、誰かに勘付かれているかどうかがわからない、という状態も辛かった。


 気分はまるで、人知れず死体を埋めた殺人犯だ。四六時中ビクビクして、誰かに何か勘付かれていないか、辺りを窺い続けなければならない。


 けれども、調べれば調べるほど、カスタムOSを入れた程度じゃ、警察は動かないことがわかってくる。


 この手の情報は、アングラな情報をやり取りする掲示板に溢れていた。そこに屯しているのは、まさに清水のような連中で、違法行為は【ばれなければ違法じゃない】と思っている節がある。彼らは決して初心者に親切に手取り足取り教えてくれるようなことはなかったが、慎重に彼らが残した言葉を拾い集めていくと――同じ違法行為でも、どの辺が捕まる境界線なのかが、朧気ながら見えてくる。


 少なくとも、カスタムOSを入れて逮捕されたケースはない。


 カスタムOSで勝手にゲームをコピーして、プレイした場合でも――それを誰かに公言したりしなければ、誰にも、何も、知りようはない。


 情報源も曖昧なものばかりだったが、どうやら、そういうことらしい。


 そして一週間が過ぎても、両親は瑠璃子に何も云ってこず、警察が訪れる気配もない。


 大丈夫、か?


 次第に瑠璃子を縛り付けていた緊張も解けていき、もう、このまま普通にCELLを使っても大丈夫なんじゃないかという気がしてくる。


 それでも羽場や美也子の前で、CELLを取り出すのには。若干の緊張が伴った。


「なになに? ルリちゃん、ご両親と和解したの?」


 例によって大げさな驚きを装いながら云う羽場に、瑠璃子は努力して、演技した。


「まぁ、色々と――」見破られないうちにと、その話題は終わりにすることにした。「それより熊はどうなってるの?」


「それがさ、実はボクと美也ちゃんだけじゃお手上げなんだよ。もの凄い武装された要塞に忍び込んで、目玉用のガラス玉を盗んで来なきゃならないんだけどさ」


「任せて! 私、そういうの得意だし!」


 平和な日々が、戻ってきた。放課後はCELLで勉強しているように偽装してある。終われば真っ直ぐに帰宅して、部屋で漫画を読んでいる間も――勉強していることになっている。両親はそれを見破る気配はないし、羽場や美也子も、瑠璃子の戦線復帰で誰に気兼ねすることなくパーティー・ポッパーズの活動を再開できた。


 けれども、瑠璃子は――何だか、落ち着かなかった。


 全て解決したはず。もう【見守りサービス】や両親の視線に怯えることなく、これまで通りの生活を送れる。


 だが、何か――落ち着かない。


 企業によって提供されている、【見守りサービス】。


 見守りというのは体のいい言葉で、実際は対象を監視するのが目的だ。


 だというのにそれが、こんなに簡単に解除できてしまう。


 変じゃないか。可笑しい。あり得ない。


 どうしてそんな、意味不明な事が。さも完璧なサービスのようにしてまかり通っている?


 っていうか、この得体の知れないコンピュータだとかネットワークっていうのは――何を、何処まで出来るんだろう。


 私も、出来ないだろうか。伝説とされている、ジャンプのようなことが。


 そう考え始めたのは、最早日課となってしまっていたアングラ掲示板巡りで、一つの事件を知ったからだった。




■不祥事を起こした教員の名前や住所、完全無料絶賛公開中!■




 そうタイトル付けされたフォーラムには、一つのファイルが掲載されていた。


 ここ数年間で不祥事を起こし罰則を与えられた、公立小中学校教諭たち。彼らの事件レポートらしき膨大な書類には、それぞれ罪状や経緯、当事者の氏名年齢住所といった個人情報が記されていた。


「うわ、これ、本物?」


 疑いたくもなる。その書類は全て様々な教育委員会の署名捺印がされていて、ぱっと見た限りには――全て公式の物らしかったからだ。


「先生ってさ、別に完全無欠である必要はないと思うけど。少なくとも犯罪者ってのはさ。あり得ないと思わない?」


 そう、ここのところ教職者の猥褻事件が相次いでいるというニュースをCELLで見ながら、羽場や美也子と話したばかりだった。


「だいたいウチの両親見たらわかるもん。変人だよあれ、教師って。絶対普通の会社じゃ勤まらないよ絶対」


 画面を突き出しながら云った瑠璃子に、美也子はこんな事を云っていた。


「確かに思い出してみると、小中の先生って。変な人多かったよね。アルバイト先とかじゃ、あんな大人の人って、あんまりいないかも」


「なになに? 美也ちゃん悪戯されたりしたの? それは許せないけど、美也ちゃんは小さかった頃も可愛かっただろうしなぁ」


 おちゃらけながら云う羽場に、美也子は相変わらず困ったような笑みを浮かべる。


「羽場クンも、昔から可愛かったんだろうね」


「え? からって何さ。ダンディー羽場に向かってそんなこと――」


「それよりさ、この手の事件って、絶対名前出ないじゃない? 何でだと思う?」と、瑠璃子は脱線しかけた話を元に戻す。「被害者が特定されると困るから、って云うんだけどさ。でも結局それって口実で、身内を庇ってるだけだと思わない? 酷いと思わない? あり得なくない? 大体にしてさ、そういうこと起こした先生でも、軽い罰の研修受けさせられて、別の学校で現場復帰してるの。怖くない?」


「ルリちゃん最近、なんか殺伐としすぎてない?」と、羽場は顔を顰めながら。「ちょっとORDERSのやり過ぎだよ。死ねとか死ねとか、死ねとか云うし」


「私、そんな語彙乏しくないってば!」


 そして、この捜査資料の流出。


 だがそれは完全なオリジナルではなく、被害者の名前については、全て一つの文字列を繰り返し繰り返し書き連ねることで――消されていた。


 jumpjumpjump。


 瑠璃子がその名を、リアルタイムで見たのは初めてだった。


「ジャンプ。これがジャンプの、仕業?」


 呟きながらフォーラムに目を戻すと、そこにはお祭り好きなバンド・デシネのような連中が続々と集まってきていて、様々な言葉を書き込みつつあった。


『またジャンプ? ジャンプの仕業?』


『凄いなアイツ。この間、ドラッグ売人の芸能人顧客名簿流したばっかじゃん。いい加減にCNUに捕まるんじゃねぇの、そろそろ。』


『ヤツが出てきて何年だ? 二年? 全然捕まる気配もないから、CNUもお手上げなんじゃないの?』


『ジャンプって何か、プロのスパイ組織か何かなんじゃないのか? とてもこんな色々なネタ、一人で出来るはずないし。』


『CNUか。警視庁ネットワーク対策班。ヤツらも散々身内の不祥事は隠してるし、ジャンプがそこに手を伸ばすのも、時間の問題かもな。』


 幾つかの符丁については理解出来なかったが、彼らがジャンプの手際に感心し、彼を賛美しているのには違いないようだった。


 確かに身の回りには、歴とした犯罪行為が――コネや談合で覆い隠されていることが多すぎる。それは瑠璃子に対してあんな理不尽な対応をする両親にしても同じで、あんな人たちが教職を勤めているだなんて――とても瑠璃子には、許されない。


 政治家、官公庁、企業、マスコミ。


 加えて、両親、そして――大人たち。


 【何かを隠す】ことに長じた連中。


 彼らは様々なことを隠そうとする反面、【見守りサービス】のような物で瑠璃子たちの生活を暴こうとする。犯罪でも何でもない、酷くプライベートな事まで洗いざらい調べ上げ、自分たちにとって不都合なことをしていないか――監視しようとしている。


 けれども、ネットワーク、コンピュータというものは、知れば知るほど、彼らの先手さえも――打てるようになる、はず。


 その先陣を、ジャンプは切っている。


 私にも、出来ないだろうか、そんなことを。


 ジャンプはそうしたハッカー志望者に対して、一つのツールを提供していた。


 ジャンプ・ツールと呼ばれる。


 それはちょっとアングラなサイトに行けば必ず転がっていて、ネットワークで何かをするときには必須とされていた。


 その機能は多岐に亘る。暗号化されたファイルのパスワードを解読する機能や、ネットワーク上を流れる信号を傍受する機能。自身のパソコンの設定を変更して通信内容を傍受されにくくする機能や、他のハッカーと暗号化通信をする機能。


 瑠璃子もその機能は、全て把握できていない。何しろ物が物だけに詳しい解説をしてくれている人もおらず、これも断片的に目的に対する設定資料が散在している程度だった。


 とても使いこなすには、知識が足りなすぎる。それをどうやって学べばいいのかも、まるでわからない。


 けれども実際、瑠璃子はこのツールで、自分のパソコンに知らぬ間に仕込まれていた【パソコン版見守りサービス】的な機能を無効化出来た。


 凄いツールには、違いない。


 これで何が出来るか、どうやって使えばいいか――学ぶ方法は、ないだろうか?


 そしてジャンプまでは行かなくとも、彼に少しでも近づいて――一月前の私のような苦境に陥っている人を。助けられないだろうか。


 そう、瑠璃子は、思うようになっていた。


 けれども幾ら考え、調べても、どうすればそれが出来るようになるのか――さっぱりわからない。ハッカーのなり方、なんてページがあるワケでもなく、ここは恥を堪え、清水にでも相談してみるべきだろうか、などと考える。


「今日は、幸せの話をしようか」


 そして羽場は、相変わらずだ。


 また始まった、と思いながら、机に腰掛けていた瑠璃子は必死にキーを操る。


「幸せって、何だろうね? 幸せってのはニーチェが云ってたけど、何も阻まれる物はない、って気分らしい。それって無敵ってこと? でもさ、無敵ってのはちょっと考え物だよね。何しろ敵がいないんだ。敵がいなかったらそもそも戦う必要なんてないし、そしたら生きてく意味なんてあるのかな? そりゃあ単に相手を虐めるのが楽しみなんてサイコパスもいるけど、ボクには正直そういう趣味は――」


 ふとCELLを操る手を止め、サルサパリラの毒々しいオレンジ色の液体を口にする羽場。彼はこの独特なドリンクの虜になっていて、常に脇に携えている。


「いいから何サボってるの! 一匹、そっち行ったってば!」


「あいよ、任せて。さぁ、ボクの可愛いロボットちゃん、頑張ってあの賞金首を追いかけて!」


 工兵の羽場は、素早く浮遊型ロボットを仕立て上げ、野に放つ。すると崩れたビルの影を逃げ回っていたモヒカンの賞金首を見つけ出し、その位置を二人に知らせてきた。


「おら、死ねえ!」


 隅に隠れた賞金首の背後に回り込み、素早く銃底で殴りつける。そしてバッタリと倒れた敵の荷物を漁ると、目的の物、フェルト生地が隠されていた。


「あった!」ガッツポーズしつつ叫んだが、すぐにはたと我に返る。「けど、これでやっと十枚かぁ。効率悪くないかな?」


 ふと尋ねた瑠璃子に、羽場は指先で髪を捻る。


「悪いけどさ、他に方法ないよ。市場で売られてるのは、とても高くて手が出ないし」


「でも熊作るのに、これ百枚もいるんでしょ? よくデシネの人も集めたよね」


「誰かが集めたヤツを奪ったんじゃない?」


 かも、しれない。


 というか彼らなら、それくらい平気でするだろう。


「あれからさ、色々気になって調べてたりするんだけど。清水クンが云ってたけどさ、やっぱりバンド・デシネって結構有名なハッカーの集まりなんだって」へぇ、と興味なさげに呟く羽場に、思わず身を乗り出す。「ゲームとか違法コピーしまくりだし、気に入らない人の個人情報調べて粗探しして、ネットでばらまいたり。散々そんなことしてるんだって」


「だから云ったじゃん、関わることないって」


「けど、可笑しくない? どうしてそんな連中が捕まらないで、ゲームとかしてるの? それにさ、美也ちゃんが云ってた【ジャンプ】ってハッカー。こっちも良くわかんない。なんか悪いことした企業とかをハッキングして、極秘情報を盗んで公開したりする【いい】ハッカーなんだけど。でも変。なんでそんな人が、デシネなんかを放っておくのかな? 同類だから? だとしたら全然良い人でも何でもないよね。そう思わない?」


「ボクに聞かないでよ。それより問題はモヒカンさ」


 相変わらず、羽場の思考回路は良くわからない。


「モヒカン?」


「そう」呟きつつ、モヒカンの死体が映し出されているCELLに目を落とす。「コイツ、なんでフェルト生地なんて持ってるんだろ。モヒカンなのに手芸が趣味なの?」ゲームで、そういう細かいことを気にしたら負けだ。「そう考えると、モヒカンの人生も意味深だよね。コイツって実はもの凄い心の優しいヤツなんだけど、自分の身を守るためにモヒカンにしてたのかも。ホラ、エリマキトカゲみたいに」カーッ、と奇声を上げながら耳元で両手を開いて見せ、溜息を吐く。「そんなヤツを、ボクらは殺しちゃった」


「モヒカンも大変だよね。だいたいこの世界って、カミソリとかも貴重品でしょ? どうやって剃ってるんだろ。髪はどうやって立たせてるの?」


「何云ってんの、ルリちゃん! ゲームでそんなの、気にしちゃ駄目に決まってるじゃん!」


 せっかく話に乗ってやったのに!


 そう頬を膨らませる瑠璃子に、羽場は急に溜息を吐いて、グルリと騒々しい教室の中を見渡した。


「けど、美也ちゃんどうしたんだろね? せっかく熊の材料集めてるのに。今日はお休みかな?」


「さぁ。美也ちゃんがサボるなんて、羽場ちゃんが勉強するくらい珍しいけど」


「心配じゃない? 電話してみたら?」


「何でそこまで――」そこで急に閃いて、瑠璃子は手を打ちあわせていた。「あぁ、羽場ちゃん、それで幸せの話なんだ!」


「えっ? 何の話さ」


「もう、隠さなくていいのに!」そう周囲を憚り、彼に顔を寄せる。「なになに? いつから気になってたの?」


 心底呆れた。


 そんな風に、羽場は身を逸らした。


「やだなルリちゃん、そんなんじゃないって」


「でもちょっと姿見かけないからって、その反応は普通じゃないって。吐いちゃいなよ!」


「だから違うってば!」


 厭そうに瑠璃子を押しのけようとした時、タイミング悪く午後の授業の先生が現れてしまった。仕方がなく自分の席に駆け戻り、CELLをゲームモードから授業モードに切り替える。


 それにしても、羽場が美也子のことを好きだなんて。完全な盲点だった。それは瑠璃子を含めた三人は、ゲーマー仲間として、始終一緒に遊んでる。それでも羽場の奇天烈な性格から生まれる言葉は常に真実味がなく、彼が美也子を誘うような台詞を聴いても、完全に冗談だとしか思えない響きしかなかった。


 けれども、さっきのは、それとは違う。


 瑠璃子の勘が、それを真実だと告げていた。


 そうか。羽場と美也子が付き合う。それは意外といいカップルなのかもしれない。なんだかんだ云って羽場は絶対に暴力を振るったりはしないだろうし、まず五年か十年は飽きそうもない性格をしている。一方の美也子は、手芸好きな大人しい感じではあるけれども、時として鋭い毒舌を吐いて見せたりする。それは羽場に対する特別な安心感故かもしれないし、二人の会話は端から聞いていて、まるで異次元のもののように思えたりもしていた。


 そうか。二人が付き合うか。


 すると――私は一体、どうなっちゃうんだろう?


 まるで授業も耳に入らないまま、思わず眉間に皺を寄せて腕を組んでしまう。


 色々と大きな問題が出てくる。何しろクラスで女子のゲーマーと云えば、瑠璃子と美也子くらいしかいない。それは男子にはもっと沢山のゲーマーは居たけれども、羽場ほど好きなジャンルが合うのはいなかったし、いたとしても清水のような気味の悪い性格をしてる。


 困った。二人が付き合ったら、私はひとりぼっちになっちゃうじゃない。


 ようやく六限目でそこに思いが至り、かなり真面目に心配になってきた。


 独り。


 いや、二人が付き合い始めるからといって、別に話す相手が皆無になってしまうことはない。女子の中でも瑠璃子は比較的人脈は多い方だし、男子とも普通に話せる。だからひとりぼっちになってしまうことはないだろうが、学校でゲームが出来なくなるのは、辛い。非常に辛い。


 いっそのこと、二人の仲を裂くか? ジャンプ・ツールを使えば、羽場のCELLに入ってるだろう恥ずかしいデータなんかを取り出せるはず。それを美也子に見せれば一発で――いやいや、そんな他人の幸せを壊すようなこと、していいはずがない。けれども幸せってのは何だろう? 羽場の云うように無敵の感覚が得られるのならばいいかもしれないが、美也子の相手は、あの羽場だ。実際問題として彼が今後どんな大人になるかわかったもんじゃないし、それは美也子の幸せに繋がるとも思えない。だったら今の内に美也子には別のいい男を紹介して――とはいえ、そんないい男がいるなら瑠璃子が紹介して欲しいくらいだ。とてもクラスの男共は瑠璃子以下の根性なしばかりだし、上級生にもこれといって目を牽く男子も――


「――ルリ?」


 不意に視界に影が降りて、思わず身を跳ねさせてしまっていた。


「は、はい?」


 自分で思い返しても、変な声だった。途端に教室は笑い声に包まれて、完全に頭の中が真っ白になっていた。


 辛うじて、授業はとっくに終わって、ホームルームの時間になっているのだけは把握する。それでも自分が話しかけられた理由がわからなかったが、彼はようやく笑いを納めると――だがその納め方は少し奇妙で、急激に、表情を硬くした。


「終わったら、ちょっと職員室まで来てくれるか? って云ったの」


「あ、はい!」


 何だろう。


 まさか、私がアングラな方面に手を出してるのが――ばれた?


 いや、それはないはずだった。それは最初の頃は情報演習室で色々探っていたが、それは別に違法でも何でもないことは、後の経験でわかってる。それにジャンプ・ツールで実際に攻撃なんてしたことないし、違法コピーだって、手順を確かめただけで――実際にコピーしたゲームで遊んだりは、していない。


 だから、大丈夫な、はず。


 だが、心臓は微妙に鼓動を早くしていて、多少頭から血の気が退いていく感覚を味わいながらも、パタパタと道具を片付け、何だか来るのを待ち構えていた風な羽場の席に向かう。


「羽場ちゃん、ちょっと待っててね! 今日中にフェルト生地、あと三枚は集められるし――」


「ルリ、アレだろオマエ」


 不意に脇から話しかけてきたのは、清水だった。


 相変わらずコイツは、顔を見ただけで腹が立ってくる。そりゃあ男子の殆どは瑠璃子のことを呼び捨てだが、この半笑いの少し歪んだ唇から吐かれると、何だか凄く寒気がする。


「なによ」


 思わず刺々しい口調で云った瑠璃子にも構わず、彼はニヤニヤしながら続けた。


「知らないの? さっきからネットで騒ぎになってる。きっと先生もその話」


「――何の話?」


「あぁ、いやいや」そしてまた、例のにやけ面だ。「まぁいいや。また後で」


 何なんだ、コイツは。


 そう彼の後ろ姿に詰め寄ろうとしたところで、ふと背後から制服の袖を掴まれた。


 羽場だ。


「――なに」


「構うことないよ。ボクは待ってるからさ」


 もう、何がなんだか、さっぱりわからない。


 そうプリプリ怒りながら、廊下でCELLを取り出し、ネットを確認してみる。だが瑠璃子が巡回しているアングラ掲示板では特に目を牽くネタもなく、首を傾げながら職員室へと向かう。


「来ました!」


 清水への反発もあり、思わず勢いよく言い放った瑠璃子に、教師は一瞬身を縮めてから辺りを見渡す。職員室は多くの教師たちが日誌を持ってきた生徒を相手にしたりと、静かなざわめきに包まれていた。それを嫌ったように彼は顎で瑠璃子を促すと、部屋の脇の方にあるパーティションで区切られた一角に向かった。


 一体、何だろう。


 とても私を怒ろうとしてるようには見えないけど――


 思いながらソファーに座った瑠璃子に、彼は小さく溜息を吐き、ポリポリと頭を掻いた。


「ルリ、美也ちゃんと仲、良かったよな」


「え? はぁ、まぁ」


「美也ちゃんだけどな。さっき連絡が入ったんだが、お父さんが亡くなられてな。それで暫く忌引だ。それでオマエには少し心得ておいてもらいたいと――」


 思わず、口を開け放っていた。


 別に、私の悪事がばれたワケじゃない。


 そう安堵する反面、一度に頭が混乱してくる。


「お父さんが?」別に病気だとか、そんな話は聞いてなかった。「なんでまた。事故か何か――」


「それが問題でな」と、彼はソファーに寄り掛かり、腕を組みながら大きく溜息を吐いた。「これはクラスの連中には云わないで欲しいんだが――その辺、オレはオマエのことを信用してるから。云うんだが」


「何なんです!」


「自殺だ」


 自殺?


 自殺だって?


「事が事だからな。詳しい事情は知らんが、美也も大分落ち込んでることだろう。だからその辺、オマエなら上手いことフォローしてやれるだろうと――」


 続けられる言葉の、殆どが耳に入らなかった。


 自殺。


 親友のお父さんの、自殺。


 それは意外性を求める瑠璃子の心にも、少し、重すぎた。


 瑠璃子はこんな事態に、どう対処していいのかさっぱりわからなかった。こればかりは何時ものように大笑いするワケにはいかないし、羽場の頭を叩いて済む問題でもない。


 それは似たようなシチュエーションは漫画でも繰り返し描かれてるし、意気消沈しているであろう美也を励ましてあげるのが常道なのだろうとは思う。


 けれども漫画と現実じゃ、まるで違う。それこそ羽場の云う所の無限の可能性があるワケで、そもそも美也が両親のことをどう思っていたかなんて知りもしないし、自殺の原因だって、わからない。


 そう、完璧に頭が混乱していたからだろうか。瑠璃子はどうやら呼び止められたのを気付かず通り過ぎてしまったらしく、不意に廊下で肩を掴まれる。


 また、清水だ。


 彼は何だか酷く興奮した様子で瞳を輝かせ、ムッとした表情を向ける瑠璃子もお構いなしに、人気の少ない廊下を見渡した。


「ルリさ、やっぱそうだろ?」


「――何が」


「美也の親父さん、死んだって」


 何でコイツが、そんなことを知ってる?


 だがその疑問も、今ではどうでも良かった。きっとネットか何処かで仕入れた情報なのだろう。無言で足を進めはじめた瑠璃子を追いながら、彼は例の半笑いで続ける。


「オマエ、カスタムOS使ってるだろ」


 唐突な指摘に、瑠璃子は思わず、自分のCELLを胸元に抱いていた。


 一体、何だ? どうして知ってる?


 せっかく両親からの監視から逃れられたのに――どうしてこんな気味の悪いヤツの監視に引っかかった?


 そう、緊張した瑠璃子に満足したように、彼は声を落としながら顔を寄せる。


「それって、CTEのカスタムOSだろ? それ出す無線電波をブーストしてるから、ちょっと特徴あるんだよ。知らないの?」


 知らなかった。


 けれども、掴まれてるのはその程度か?


 そう、CELLの出す無線電波の強弱くらいなら、何とでも知りようはある。だが瑠璃子は別に、違法なことは――今のところ、何もしていない、はず。


 何も弱みにはならない。


「だから、何?」


 そこまで考え、鋭く問い返した瑠璃子に、清水は例のにやけ面を更に歪めさせ、笑った。


「別に何か脅そうってんじゃないって」


「アンタの方が色々やってるじゃん! 散々ゲームとか違法コピーして!」


「待てって。オマエ、いっつも声でかいんだよ」苦笑しながら、再び辺りの様子を窺う。「そうじゃなく。オレ、良くハッカー連中が集まるとこに出入りしてんだけどさ。そこでさっき、美也の名前が出てて」


「――美也ちゃんの?」


「まだそう出回ってる話じゃないから、手は打っといたけどさ。結構プロテクトとかかかってたから、あんまり突破出来てるヤツはいないんじゃないかな。かなりダークなソフト使わないと無理で――」


「何の話? どういうこと?」


「いや、死んだ美也の父さんの関係者、ってことで。個人情報が流されてたんだよ」


「だから何で、そんな所で。美也ちゃんのお父さんが話題に――」


「美也の親父さん、ネットサイファーって会社で働いてたらしいんだけどよ。そこで会社に都合の悪い話を告発してたらしいんだよな。で、自殺。その顛末が何故だかネットに暴露されて、騒ぎになりかけてるって話」


「ちょ、ちょっと待って。ワケわかんない」瑠璃子は矢継ぎ早に投げかけられる意味不明な言葉を、必死に整理した。「どういうこと? 美也ちゃんのお父さんって――」


「ネットサイファーってのは、ここんとこ急成長してたネット関係の会社なんだけど。そこの会計か何かしてたらしいんだな、美也のお父さん。でも何か変な金の処理を見つけちゃって、これは何だって上層部に問い質してた。そこで――」クッ、と親指で首を掻き切って見せた。「自殺だろ? 絶対何かあるに決まってる」


「ま、待ってよ。それホント?」


「ルリだって、カスタムOSを自力で入れたくらいだ。ネット上に流れる情報の真偽を確かめるのが難しいのは、わかるだろ?」そりゃ、わかってる。「でも、ちょっと知識さえあれば簡単さ。オレが調べた限り、本物だね」


「でも、なんでそんな話が、ネットに出てくるの?」


 そこで清水はにやけ面を、僅かに瑠璃子に近づけた。


「ジャンプの仕業さ」


「――ジャンプが?」


「そう、ジャンプ。知ってるだろ?」そして身を反らし、誇らしげに続けた。「それでこのネタにはデシネの連中も食いついてて、今夜サイファーを一斉攻撃しようぜって話になってる」


「――デシネの、連中が?」


「そう。詳しい話は出来ないけど、連中の組織力は凄いぜ? 連中がこうと決めたら、それこそ何百ってハッカーが集まってくる。敵に回せば本当に怖いわ」


「だから何で、デシネの連中が、こんなことに――」


「だって、明らかにサイファーが悪いじゃん。悪いヤツはオレらで懲らしめる。それがネットのやり方さ」


「何でよ! 本当にサイファーが美也ちゃんのお父さんを殺したんなら、警察が――」


「警察?」心底可笑しそうに、清水は身を逸らした。「オマエだって知ってるだろ。無法地帯のネットで、警察に何出来るって。ネットの治安は、ある意味、オレやデシネのような連中が守ってるんだ」


 治安、だって?


 あの、ろくにゲームマナーも弁えない連中が、治安?


 まるで理解出来ない。


 そう、数週間前の瑠璃子なら――まるで理解出来なかっただろう。


 だが今では、それが、ほんの僅かだが――理解出来る。


 ネット上には様々な違法行為が横行しているが、その中でも、摘発されるのは極一部。しかも著作権侵害だとか政治家への殺害予告だとか、そんな企業や政治家に都合が悪い事件しか調べない。一方でジャンプがすっぱ抜いた猥褻教師リストは――未だにネットの騒ぎで収まっていて、マスコミが報じる様子も、警察が行動を起こしている気配も――まるで、ない。


 まるで役に立たない――いや、むしろ、自分たちに都合の悪い犯罪ばかりに目を光らせ、それ以外は無視したり、覆い隠したりするのだ。ネットの治安を守るという点では、有害に近い。


 だから、美也の心情を思い計れば、きっとそれが一つの答えなのかも知れない、という気もする。


 詳しい事情は知らないが、美也子のお父さんは不正を糺そうとしていた。だってのに会社側はそれを揉み消したくて、圧力をかけて、彼を追い込んで――


 ふと俯き、清水は小さく、尋ねた。


「ルリ、オマエも美也のお父さんの弔い合戦、したくないか?」


「――弔い合戦?」


「だってそうだろ? 美也の親父さんは、会社に殺されたのさ。そうに決まってる。だからサイファーを叩かなきゃ」


「そ、そりゃそうかもしれないけど、どうやって――」


「オレたちには出来るよ」彼は歪んだ笑みを浮かべ、云った。「ネットには不可能なんて、ないんだ。ルリだってわかっただろ? ちょっと深く潜ればね――オマエにその気があるなら、見せてやるよ、壁の向こう側を」


 壁の、向こう側。


「今夜、八時くらいに学校に来い」


 そして清水は、例のにやけ面を浮かべたまま、瑠璃子に背を向けた。

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