第17話

 短い冬休みが始まった。


 次第に寒さは厳しさを増してきていて、それは即ち羽場の行動範囲を酷く狭めることに繋がっていた。とても彼は冬休みのバイトをする気力もないようで、「ちょっと人生について見つめ直してみるつもりだよ」などと云っていたが、ずっとアパートに閉じ籠もり、主にクラックやゲームでもして過ごすつもりなのだろう。


 そこに瑠璃子は、サルサパリラの瓶を携えて現れる。


「来たよっ! さ、今日から何しよっか!」


 羽場は暖房をガンガン効かせた室内であっても、肩から毛布を被って現れる。


「何って。せっかくの休みだってのに。ルリちゃん相変わらず元気だねぇ。ボク、さっき起きたばっかなのに」


 酷く目をしょぼつかせながら立ち尽くす羽場の身体の向きを変え、とにかく中へ押し入っていく。


「やっぱりね! だろうと思って、昼ご飯買ってきてあげたよ? メンタスにラッドXにサルサパリラ。羽場ちゃん大好きでしょ?」


 散らかった床の上に並べられた栄養補助食品の類を一眺めして、彼は未だに眠そうな顔をしながら頭を掻いた。


「――何? やだよボクは?」


 あれっ?


 呆気なくシナリオが崩壊してしまい、それでも何とか瑠璃子は修復を試みる。


「やだって。何が? ただ私はいつも羽場ちゃんにはお世話になってるから――」


「ボクはさ、この世の中で信じてないのが三つある。神様でしょ? テレビの云うことでしょ? それと無償の愛ってヤツ」


 今度はちゃんと三つだ。


「いやいや別に愛ってほどの話じゃないけど、私は純粋に、羽場ちゃん一人暮らしで大変だろうなって思って――」呟きながら、手元のサルサパリラのキャップに付けられた、小さな付録を開く。「あ、あれ? 羽場ちゃん、なんかサルサパリラ、新しいキャンペーン始めたみたいよ?」


 眠そうに眼を細め、渋い表情で首筋をバリバリと掻きながら、指定席のコンソールの前に座り込む羽場。


「――何その三文芝居」


「さ、三文ってことないでしょ! あ、ほら、早起きは三文の得って云うし! 羽場ちゃんは早起きして、私の凄い芝居を見られて幸せ――」駄目だ、とても瑠璃子は、羽場ほど上手く屁理屈を捻り出せない。「何さいいじゃない! 何で羽場ちゃん、アイドル嫌いなの!」


「だから云ったじゃん。馬鹿馬鹿しいって」


「サルサパリラ・フェチは馬鹿馬鹿しくないっての?」


「あぁ、そりゃあルリちゃんから見たら馬鹿馬鹿しいかもしれないよ。でもさ、じゃあ人類が共通して【馬鹿馬鹿しくない】って云える事って。どれだけあるんだろうね? 温暖化? 貧困? 戦争? どれにだって、それを望む人がいるじゃない。自分に害が及ばない限り、他人の信念には口を出さないのが正解だよ」


「じゃあ羽場ちゃんも私の趣味に口出ししないでよ」


「口出ししないよ? でも協力する気もない」


「でも、8pをクラックしたら。サルサパリラの秘密情報が手に入るかもよ?」


「たかがアイドルに、サルサパリラが秘密情報流すワケないじゃん。彼らは200年間も全フレーバーの原料を隠し通してきた企業だよ?」


 クソッ、どうしても勝てない。


 それは羽場は変人かもしれなかったが、実際は彼をジャンプたらしめている鋭い洞察力と論理的思考能力を備えている。


 それでも、むぅ、と口を尖らせながら眠そうな羽場を睨み付けていると、ついに根負けした、というように、彼は大きく溜息を吐きながら両腕を広げた。


「ま、そんなにやりたいなら、ルリちゃんやればいいじゃない。もう、そんくらいのスキルは身についてるでしょ?」


「――えっ、そんな。私まだ全然。ネットワークの盗聴とか探査くらいしか、まともに出来ないって!」


「んなこと云わないで。やってみたら? ただ免許皆伝にはほど遠いから、ちゃんと監視はさせてもらうけど」彼はコンソールからベッドの上に身を移し、ゴロンと横になった。「実際、自分で色々やってみないと。わからないことって多いしね」


「――わかったし。やってやるよ!」


 計画は冒頭から破綻してしまったが、なんとか目的は達成した。早速瑠璃子は自らの携帯端末を取り出し、羽場のシステムに接続し、コンソールを操作をする。


「えっとー、そうだな、先ずは8pの事務所を探ればいいのかな?」


「だろうね。ホームページに穴があれば、そっから侵入するのが手っ取り早い」


 やる気のない羽場の同意を得て、瑠璃子はすぐさま8pの所属する事務所のホームページを開く。大抵の企業は自らの情報を開示しているホームページが攻撃の起点となったが、しかしここに来て、意外な【壁】にぶつかった。


 8pの所属している事務所のホームページは、あるにはある。しかしそれは完全に外部のコンピュータ企業に委託されているらしく、とてもそこから事務所の内部に侵入することは不可能らしかった。瑠璃子は更に幾つかの方法で事務所のネット上の所在を確かめようとしたが、そもそも8pの所属している芸能事務所は個人経営のような所で、従業員数も数名、企業情報の発信もないといった具合で、まるでネット上に存在しているかどうかも怪しい状態だった。


「これじゃ全然、クラックどころの話じゃないじゃない! そもそも8pの事務所がネット上にないんじゃ、手の打ちようが――」


「そ。ある程度の規模の企業を探るならまだしも、中小企業を探るのって。意外と難しいんだ。情報化されてなかったりするから」


「中小って云っても、8pはかなり有名なグループだよ?」


「だから? アイドルなんて特に、プライバシーにはもの凄い気を遣ってる。スキャンダルとか怖れてね。メールアドレスだって、知ってる人が何人いるか――」


 確かに、そうかもしれない。


「でもジャンプってさ、前にも覚醒剤やってた芸能人のメールを暴露したりしてたじゃない」と、瑠璃子は彼の業績を思い出す。「あれはどうやったの?」


「たまたま持ってた名簿に、メールアドレスが載っててね。メールアドレスさえわかれば、攻撃の方法は幾つかあるし――」


「また名簿? なんかジャンプって、やたらその手の記録ばっかり持ってるよね?」


「そりゃあそうだよ。何かを調べようと思った時に個人情報以上に使える物はないし、ネットが無理で現実世界で攻めるときにだって――」


「じゃあ、そのジャンプ名簿に。8p関係の記録はないの?」


 そしてまた、例の不満そうな顔だ。


「さてね。ボクの持ってるのは、せいぜい三百万人くらいだから。あるかどうか――」


 彼は様々な企業や団体をクラックして得た名簿類を、一つの巨大なデータベースに整理格納しているらしかった。彼がコンソールから、そのプログラム言語とは少し違う独特の言語を操ってデータ検索を行うのを眺める。


 パッ、と画面に現れたのは、履歴書のような体裁の文書ファイルだった。右上には、煌びやかな衣装を纏った八人の姿が映し出されている。それぞれ美形ではあったが画一的ではなくて、どのメンバーを見ても飽きが来ない。


「わぁ、リーダーに、西村さんに、真田さんだ! あるじゃない!」


「こんなオカマ連中の何処がいいのさ。なんかチンピラみたいなのもいるし、コイツなんて見るからに馬鹿っぽい」肘で頭を小突かれつつ、羽場は内容を精査していく。「うーん、これって一年前にテレビ局をクラックした時に手に入れた、芸能人の契約データか何かだなぁ。全然記憶にないけど」


「それで、何か使えそうな情報はある?」


「あった。事務所のメールアドレス。仕事の依頼なんかは、ここにするようにって」羽場はそのメールアドレスを指し示し、瑠璃子に歪んだ笑みを向けた。「それで。メールアドレスがわかった。後はどうする?」


 メール・サービス。それは良く普通の郵便に例えられるが、一つだけ異なる点があった。


 普通の郵便では、相手の住所、氏名を記す。けれどもネットでのメールは全て私書箱方式になっていて、この私書箱の誰々さん宛て、という形式でメールを送信する。そして受け取る側は、その私書箱を定期的に覗きに行くような仕組みだ。


 つまりメールアドレスがわかったということは、相手の私書箱が何処にあるか、わかったということ。あとは私書箱の鍵――パスワード――さえ掴んでしまえば、瑠璃子は簡単に届いたメールを盗み見出来てしまうはず、だったが。


「よし、メール・サーバに接続。ユーザー名はinfoでしょ? それでパスワードは――」


「admin? passwd? じゃなきゃ123456」


「全部駄目」むぅ、と瑠璃子は唸りながら、眉間に皺を寄せる。「前みたいには、簡単に行かないみたい。どうしよう?」


「どうしようって、これはルリちゃんの仕事だから、ボクは口出ししない」


「えー」瑠璃子は口を尖らせながら、考え込む。「うーん、そういえばさ、何か色々なパスワードを勝手に試していって絞り込んでくれるクラック・ツールとか、あるんじゃなかった? それを使ってみるとか? あぁ、でもそうやってパスワードの入力を何回も失敗したら、管理者に変なアクセスが沢山来てるって警告が行くかも知れないし――」


 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、ベッドの上でORDERSに興じる羽場。その横顔をチラチラと眺めながら呟いてみたが、彼はなかなか反応しようとしない。


「ちょっと、なんで無視するの! 教えてってば!」


「簡単に教えたら勉強にならないじゃん」不平を口にしようとした瑠璃子に、彼は溜息を吐きつつCELLから目を上げる。「とは云っても、ボクだって最初は、ルリちゃんでも出来る方法を一番に試すね」


「私でも出来る方法? んなこと云って、ジャンプだったら――メール・サーバのセキュリティー・ホールだって何処かにはあるだろうし――そういうの突けばいいじゃない!」


「そんな大変なこと、たかだか芸能人のゴシップのために、する気にならないよ。だいたいそこまでやらなくたって、他に手は幾つかあるし」


「じゃあ――」


 相変わらずのにやけ面で、ふと、羽場は指を一本、立てた。


「ボクはヒントを出したよ?」


「ヒント? 何?」


「もう三回目だ。後は頑張って?」


「え? 何それ!」


 瑠璃子が叫んだ瞬間、羽場は頭にヘッドセットを載せて、ベッドの上でCELLを構えていた。


 ヒント? 何時? 何を?


 まるでわからないまま、無為に一般的なパスワードを幾つか打ち込んでみる。それは全てincorrectで跳ねられてしまい、利用者は多少はセキュリティーに気を遣っていることがわかる。


 しかし、メール・サーバの不具合を突く方法なんて知らないし、ユーザーのパスワードも簡単な物は使われていない。羽場は何か別の手があると云っていたが、これ以上、ネットでどんな手が――


「――あ、あれ?」


 瑠璃子はふと奇妙な感覚がして、キーボードから手を離して考え込む。


 そう、羽場は何度も云っていたじゃないか。ネットなんて、現実世界の延長であって――それが全てではない、と。


 当然だが、メールを送れば、それを読む人がいる。いくらコンピュータ・ネットワーク・システム上は穴がないように管理されていたとしても、その恩恵にあずかっている人間もまた、完璧であるとは限らない。


 なら、どうすればいい?


 何をどうすれば、受信者の心の隙を突ける?


「――へぇ、考えたね」高速でキーを叩き始めた瑠璃子の背後に羽場は寄ってきて、画面の中を覗き込む。「【パスワードが漏洩した可能性があるから、こちらのページから変更してください】か。そのページはどうするの?」


「似たようなドメインを取って、そこに作る」


「いいね。上手く行けばいいけど」


 そう、思い付けば何てことはない。ネット上でよく使われている、詐欺手段の一つだった。


 見つけ出したメールアドレス宛に、私書箱の管理人を装って、メールを送る。それは注意深く観察すれば本当の管理者からのメールではないとばれてしまうが、送り主が【管理者】だろうが【菅理者】だろうが、流し読みしてしまえば気付かない。


 そして受信者を、瑠璃子が用意した偽のページに誘導する。現れるのは、パスワード変更システムを装ったページ――【現在使用しているパスワード】と、【新しいパスワード】を入力するページだ。


 上手く引っかかれば、受信者は慌ててパスワードを変更しに来るはず。そこで瑠璃子は現在使用しているパスワードをまんまと手に入れ、メールアドレスを乗っ取る事が出来るという訳だ。


「どうかな? これで上手く行くかな?」


 メールの送信ボタンを押す手前で、羽場に尋ねる。彼は例によって口の端を歪めたかと思うと、急に片足を上げながら人差し指を画面に突き付けた。


「行ってみよっ!」


 送信。


 サーバ接続中。


 メール送信中。


 送信完了。


 初めて自分が立案した作戦ということもあり、瑠璃子はまるで落ち着かなかった。どうもそれは羽場も何度か試みたことのある手らしく、その点、送信者を探知されてCNUが乗り込んでくるような事も考えられなかったが――それでも心臓が変に鼓動して、まるで何処にあるともわからない試験結果の発表板を探し歩いている時のような気分になる。


 五分経過。既に8pのマネージャーか何かはメールを受け取っているはずで、瑠璃子の用意した偽ページにアクセスして来てもいいはず。


 瑠璃子はじっと、偽ページのアクセスログを凝視する。これが上手く行けばメール用のパスワードだけではなく、アクセスして来たパソコンに侵入するための足がかりも出来ることになるが、果たしてそう、上手く行くか。


 十分経過。


 十五分経過。


 まるでアクセスはない。


「やっぱりちょっと、ベタな手だったかな」と、溜息混じりに羽場が云う。「最近、この手のソーシャル・クラッキングが流行ってるからね。警戒されてるかも――」


「あれ、これってその、ソーシャル・クラッキングってヤツなの?」


「そうだよ?」


「何だか全然、正面からコンピュータやネットワークを相手にするより、楽ちんじゃない? 全然難しい知識も使わないし――」


「だから不特定多数を詐欺ろうとする連中は、こんな手ばかり使う。十人中一人でも引っかかれば成功だからね。でも特定の一人をターゲットにした場合には、かなり運に左右されるし――」


 そこで、ビョロッ、と、瑠璃子が眺めていたコンソールに、一行だけログが出力された。


 瑠璃子は思わず大きく息を吸い込み、そのまま声を発していた。


「来たあっ!」


「ワオ、ラッキーだね」羽場がすぐさま背後に寄ってきて、椅子の背もたれに寄り掛かりながら、矢継ぎ早に出力されてくるログを指し示す。「GET――おっと、POSTされた。パスワードは?」


「そ、それっぽいの入力してるよ!」


 どうやら8pの誰かかマネージャーだかは完全に瑠璃子のメールに騙されたらしく、まんまとパスワード変更手続きを行ったようだった。


 現在のパスワードと、変更後の新しいパスワード。


 だが、実際にそれでパスワードが変更される訳ではない。単に瑠璃子は現在のパスワードが知りたかっただけで、すぐさま相手から送られてきたパスワードを参照しつつ、メールサービスへのログインを試みる。


% telnet 0x325644F3 110

+OK MARCARS v5.32 POP3 ready.

user info

+OK password please

pass mAkE81reA5e

+OK Maildorop locked and ready


「来た来たっ! 中に入れたよっ!」


 叫ぶ瑠璃子に、羽場が再び背後から画面を指し示す。


「いいね。じゃあメールの一覧を取得してみようか」


「えっと、コマンド、何だっけ」


「statでlist。それで総件数を取得して、retrでゲット」


stat

+OK 327 512493441

list

+OK scan listing follows


 更に幾つかコマンドを追加すると、途端にコンソールには、三百二十七件のメールが怒濤のように流れてくる。まるで用意していなかった瑠璃子は慌ててその出力を止め、羽場の指示に従って全てのメールをダウンロードする。それはものの数秒で終わり、ふと、急に途方に暮れて背後の羽場に振り返った。


「これで、終わり?」


「そうだなぁ。とても不正アクセスのログを消せそうもないけど、まぁボットネット経由でのアクセスだから。終わりでいいんじゃないかな?」


「じゃ、じゃあ、quitで回線切断――」


 しかし瑠璃子がそのコマンドを叩く前に、不意に侵入していたメール・サーバとの接続が切断された旨のメッセージが表示された。


「あっ、あれっ?」


「――何だろう。タイムアウトかな」羽場は瑠璃子の背後から両手を伸ばし、背中にくっつくようにしながらキーを叩く。「うーん、なんかG2ボットネットが変だ。それでセッションが切れたみたい」


「何で? また前みたいに、誰かに察知された?」


 彼は眉間に皺を寄せながら、一分ほど様々なコマンドを打ち続ける。そしてその結果を確かめると、軽く首を傾げつつ身を上げた。


「いや。単に調子の悪いノードがあって、幾つか致命的なパケットがロストしただけみたい。まぁそれは後で根っこから対処しておくし。それより早速、メールを見てみたら?」


「あー、そう、しようかな」


 ここに来て急に、瑠璃子は何だか後ろめたいような気分を抱えてしまっていた。それは相手が幾ら国民的大アイドルだとしても、プライバシーを持っていることには変わりない。今更申し訳なく思う気持ちもない訳ではなかったが、それでも最終的には、瑠璃子の好奇心の方が勝っていた。ダウンロードしたメールの一覧を表示させ、一通一通、内容を確認していく。


「――あぁ、やっぱりこれって、8pメンバー直通のアドレスじゃないみたいね」そう、ガッカリしたような、安心したような気分を抱えながら呟く。「何だか仕事のお話が殆どみたい。あとは普通に広告メールだとか、ウィルスが添付されたメールだとかが一杯――」


「枕営業の依頼とか来てない?」


「8p、そんなグループじゃないもん」


 CMの出演依頼、舞台の台本確認、ライブの打ち合わせ。やはり人気グループだけあってスケジュールはみっちりと詰まっているらしく、その範囲も実に幅広かった。


 メールの内容はそうした実務的な物ばかりで、瑠璃子の好奇心を満たすようなメールは、まるで見あたらない。


「うーん。完全に仕事用のメールアドレスみたい。面白そうなのは全然ないなぁ」


「終わり? 満足した?」


 完全に乗り気じゃない羽場の言葉に、逆に頭に来た。


「まだ探る手はあるもん」瑠璃子は頬を膨らませつつキーを叩き、先ほど瑠璃子の偽ページにアクセスして来たパソコンのアドレスを表示させる。「これこれ。メールが駄目なら、メールを取りに来たパソコンに直接侵入して。データ盗んじゃえばいいんじゃ?」


「そりゃそうだけど。何もそこまでやんなくたってさぁ。どうせやるなら、あの、ほら、何だっけ、前のサルサパリラのCMに出てた娘とかの方が――」


「えー。あんなオバサンの何処がいいの」


 とにかく第一段の作戦が、成果はなかったが成功したこともあって。瑠璃子は大分落ち着きを取り戻していた。パスワードを変更しに来たパソコンが未だにネット上に存在していることを確認し、相手の状態を確かめるコマンドを叩く。


「よしよし、まだいる。パーソナル・ファイア・ウォールも入れてないみたい」


「で? どうする?」


 まるで生徒の進歩具合を確かめる教師のように尋ねる羽場に、瑠璃子は素早くキーを叩いて一つのファイルを呼び出す。


「とりあえずジャンプ・ツールで探査をかけてみる。これって反則?」


「――ま、そんくらいは見逃してあげるよ」


 ジャンプ・ツール。瑠璃子はまだその仕組みの半分も理解できていなかったが、使い方は大分マスターしてきた。ジャンプ・ツールにはネットワークの向こう側にいるパソコンを探査する機能があって、実に様々な方法で相手のパソコンに不正アクセスし、その状態を探ることが出来る。それでもし相手が大きなセキュリティー・ホールを放置していることが判明したら、ひょっとしたら瑠璃子の知識でも潜入できてしまうかもしれない。


 すぐさま、パラ、パラパラっと、コンソールには様々な文字列が流れてくる。稼働しているeXectorOSのバージョン、適応されたパッチ、動作中のサービス、ファームウェア・バージョン、ミドルウェア・バージョン――それに加えて画面には、パソコンの所有者情報なども流れてきた。


「あっ! あぁっ!」瑠璃子は一瞬流れた日本語に、思わず奇声を上げながら羽場の脇を突きまくっていた。「今の見た? 利用者名! 藤波さんの名前だったよ!」


「誰その藤波って」


「リーダーだよリーダー! もの凄い苦労人でさ、8pをここまでするのに何年も掛けて、もう涙ぐましい話が一杯――そっか、スケジュールの管理とかのマネージメント、リーダー自身がやってるんだ! 凄いね! 私感動しちゃった!」


「へん。随分安い感動だね。そんな赤の他人の苦労話、何処までホントだかわかったもんじゃない」


「何よ何でそんな羽場ちゃん捻くれてるのよ」


「云ったでしょ?」と、羽場は不意に瑠璃子の背中から離れて、ベッドの上に倒れ込んだ。「ガッカリするって。きっとソイツらにしたって、云われてるほど綺麗なワケ――」


 厭な予言だ。


 思わずムッとしながら、瑠璃子は更にキーを叩き続ける。


「いいもん。それだって確かめるもん。で? えっと、eXectorのセキュリティーパッチは最新、サービス類に穴がありそうなのもないし、ファームウェアのバグは――これといってナシ。やっぱ私じゃ無理かなぁ」そう諦めかけた所で、ふと、標的のパソコンで見慣れないプログラムが稼働しているのに気がついた。「あれっ、これって何だろう。DragonLady――ドラゴン・レディー? 何かのゲームかなぁ。藤波さん、とてもゲームするような人には――うぉっ?」


 急に視界がグルリと回って、瑠璃子は思わず悲鳴を上げる。いつの間にか寄っていた羽場が勝手に椅子を動かし、そのまま瑠璃子をコンソールからどかせると、立ったまま高速でキーを打ち始める。


「な、何?」


 尋ねる瑠璃子も無視して、一番大きな画面に探査結果を表示させ、子細に確認していく。


「ドラゴン・レディーだって? ソイツ本物か?」


「もう、何なの!」


 ガラガラと椅子を転がしながら戻ってきた瑠璃子に、羽場は高速にキーを叩き続けながらも、一瞬だけ、目を向ける。その表情は見たことがないほど困惑に包まれていて、彼は僅かに口籠もった後、途切れ途切れに声を発する。


「ドラゴン・レディー。クラッカーの間じゃ、伝説と云われてるマルウェアだよ。国内――いや、世界中でも確認例が殆どなくて、目的を達すると短時間で自壊しちまうもんだから、今まで誰も稼働状態のドラゴン・レディーを捕らえた事がない。ボクだって、二年前、たった一度しか見たことがないんだ。だから未だに誰もワクチンを開発出来ていなくて、完全に野放し状態になってるウィルスだよ」


 二年前?


 ジャンプの活動開始時期と、一致する。


「――それって、何するウィルスなの?」


「トロイの一種だって云われてる。感染したパソコンのデータを盗み出すって類の。ほら、盗撮騒ぎの時に使ったウィルスあるでしょ? あれと似たようなタイプのウィルスだと思う」


「じゃあ、今、私たちとは別に――藤波さんのデータを盗もうとしてるヤツがいる? 私たちじゃない、別の、クラッカー?」


「だろうと思う」


「ひょっとしてそれが、ジャンプの捜してた物?」


 無言のまま彼はコンソールを起動し、高速で幾つものコマンドを発行していく。そしてようやく彼は目的の情報に辿り着いたらしく、幾つかの数値を見比べる。


「tsenc.ebinが185KB、vcservice.ebinが31KB、mag.a.0が98KB――それにCRCが、325452469F00! 一致だ! 過去の事例と完璧に一致する!」そして彼は唇を震わせながら、瑠璃子の両手を握りしめた。「やった! 遂に! 遂にボクは見つけたぞ! 二年、二年だ! 二年掛けて、ボクはようやく、【ドラゴン・マスター】を見つけ出したぞ!」


 羽場は完全に動転していて、なかなか次の声が出てこない。しかしそれは瑠璃子も同じで、彼に一体何があったのか、このウィルスに何の問題があるのか。まるでわからず、何と言葉を発していいのかわからない。


「そっ、その――」それでも沈黙に耐えきれず、瑠璃子は無理矢理、喉を動かした。「そのドラゴン・レディーってウィルス、すぐ自壊しちゃうって――それって、自分を自分自身で削除しちゃうってことでしょ? ならすぐ、何をやってるか調べないと――」


「いや、それより先に」そう、先ほど瑠璃子が実行した攻撃マクロを開いて、もの凄い勢いで細部を修正していく。「ドラゴン・マスターを追うのが先だ」


「その、ドラゴン・マスターっていうのが。ドラゴン・レディーの作者のクラッカー?」


「仮だよ仮。ヤツは自分の名前を何処かに残すようなことは、一切してない」


「それで、どうやってマスターを追うの?」


「ドラゴン・レディーは、感染したパソコンの中身を何処かに送る仕組みになってる。だから今、その藤波ってヤツのパソコンは外部にデータを送信しているはずで、その先には――」


「クラッカー。ドラゴン・マスターのパソコンがある?」


 一時の興奮が収まるに連れ、羽場はまた別の興奮に包まれつつあった。声もキーを操る手も震えている。


「よし、これで全部の通信先が――」


 パチン、と羽場はキーを押し込む。


 僅かな遅延の後、画面には、今現在、藤波のパソコンから行われている通信の宛先が、十件ほど流れてくる。


「これはボクらのボットネット、これはeXectorのアップデートサーバ、これは検索サービス、これは――」


 矢継ぎ早に選別していた手が、ピタリと止まる。


「――コイツだ。ウィルスはここに盗んだデータを送信してる」


「それが、クラッカーのパソコン? じゃあそいつに侵入しちゃえば、相手が何者か――」


「わかってるってば! ちょっと黙ってて!」


 グッ、と口を噤む瑠璃子を無視し、彼は先ほどのパソコンに対して実行したのと同じ、パソコンの稼働状況を把握するプログラムを実行させる。


 OSのバージョン、適応パッチ状態、起動サービス一覧、ファームウェアバージョン一覧、インストール・アプリケーション一覧、パソコンの製品名、そして――


 カクン、と、不意に画面に流れていた文字列が、動きを止めた。


 釣られて、二人も硬直する。しかしそれをいち早く脱した羽場は、すぐさまキーの入力を試みるが――コンソールは何も、応答を返してこなかった。


「あ? 何だ? おい、なんでこんな時に――」


「OSはハングしてない。通信が切れたんじゃあ――」


 慌ただしく羽場は新しいコンソールを起動させ、ウィルスがデータを送信していた宛先に対し、再び接続を試みる。


 しかし、再びコンソールは応答を停め――一つの文字列を、繰り返し、繰り返し、表示し始めた。


connection unreachable.

connection unreachable.

connection unreachable.


「あぁ、クソッ! 切れた! 逃げた! 逃げやがった!」


「まさか、自分が調べられてるのを検知して――」


「あぁ、そうだ! クソッ、しくじった! 何でもっと慎重に――相手がクラッカーなら、ポートスキャン検知くらい備えてて当然だろう! 何やってんだよジーニアス羽場!」


 両手を投げ出し、頭を抱え――彼は泣き出しそうな表情になりながら、コンソールが発し続ける【接続先が見つかりません】という文字列を眺め続ける。


 参った。


 一体何が、どういう状況なんだ。


 まるで瑠璃子はわからなかったが、それでも彼が、一世一代の失策を犯してしまったことだけは、理解出来ていた。


 彼が二年も追い続け、ようやく発見した謎のウィルス。ソイツが盗んだデータを何処に送っていたかを突き止めたのまでは良かったが、そのパソコンを探ろうとしたところで――相手に、不正アクセスがばれてしまい――回線を、切断されてしまった。


 ウィルスの製作。それに不正アクセスへの対応。恐らく相手も、それなりのスキルを持ったクラッカーなのだろう。であればとても同じアドレスで相手が再びネットに繋いでくることは考えられず、それはつまり、ほぼ、完全に、相手を見失ってしまったことを意味していた。


「でっ、でも」と、瑠璃子はとにかく場の空気を好転させようと、無理な芝居を試みる。「ほら、少しは情報取れてるよ? OSの状態とか、バージョンとか――」


「何の役にも立たないよ、そんなの」


 机に蹲ったまま、溜息混じりに吐き捨てる羽場。


「で、でも。あ、これは? パソコンの製品名。ラグ――ラグランジェ? これが売られた先とか調べれば――って云っても、何万台とあったらアレだけど――」


「――ラグランジェ?」


 不意に羽場は顔を上げ、瑠璃子が指し示していた行を眺める。そこは通信が切断される直前に得た部分だった。


「ラグランジュ(Lagrange)だ。これって確か限定版で――」彼はネットの検索ページを開くと、その文字列を打ち込む。「そうだ、インフィニタス社が創業百周年を記念して発売したヤツで、確か国内じゃ千台しか売り出されてなくて、優良顧客優先に割り当てられたって――」


「ほ、ほら、手がかり、あるじゃない! それにその下、シリアル番号でしょ?」瑠璃子は嬉々として云いかけたところで、目に飛び込んできた桁数に、思わず言葉を落としていた。「――あぁ、ギリギリで切れちゃってる。056、までしか――」


「0560、0561、0562、0563、0564、0565、0566、0567、0568、0569。十台該当する。どうやって捜す? クソッ」


 まるで呪文を唱えるように呟きながら、彼はようやく、瑠璃子に顔を向けた。


 瞳を赤くし、酷く疲れ切った表情。


 そして不意に大きく息を吸い込み、吐き出したかと思うと、彼は立ち上がりながら瑠璃子の肩を掴んだ。


「ゴメン、ちょっと今日は終わりにしてくれないかな」


「え? 終わり、って――」


「本当にゴメン。今日は帰って。一人にして欲しいんだ」


 彼は荷物を拾い集めて瑠璃子に押しつけ、その肩に両手を置いて出口へと押していく。


「ちょ、ちょっと! 少しくらい教えてくれたって――」


 廊下に押し出されて振り向いた途端、ドアはバタン、と閉じられていた。


 一体、何なんだ?


 謎のウィルス。二年前の出来事。


 どうもそれらは――羽場がクラッカーを志す原因になった原因としか、思えなかった。

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