第6話

「ヤバイ、ヤバイ、IP抜かれた!」清水は転がりそうになりながら教卓を立つと、慌ててパソコンの列に向かって、無理矢理背後の電源を抜き始める。「串も通してたのに、何でだよ! どうやったんだよ!」


 清水の攻撃が、ばれた?


 何が起きているのか良くわからないまま教卓のパソコンに目を落とすと、バンド・デシネの掲示板では矢継ぎ早にメッセージが増えつつあった。


『撤収! 総員撤収せよ!』


『つか百万PV/sとか叩き出してた馬鹿、学校のパソコン使ってたのかよ。救いようのない馬鹿だな。』


『武蔵ヶ丘高校のみんな! 見てる? オタクの馬鹿が一人捕まるよー』


『そういやラインハルトって、どこぞの都内の高校生とか云ってなかった? あの中二病のヤツ。大岡山とか小杉とか云ってたから、距離的には近いな』


 ラインハルト――それは清水の、ORDERSでのキャラクター名だった。


『あぁ、あいつウザかったんだよな。ヘタクソな癖に』


『武蔵ヶ丘? オレ近くに住んでるから偵察してみるか。まだ気付かないで馬鹿やってるかもしんねーし』


「ルリ! 手伝えって! 電源を――」


 叫ばれ、顔を上げる。


「え? 落とせばいいの?」


「そうだよ急げ! ヤバイって!」


 清水は完全にパニックに陥っていて、恐ろしい程に顔を真っ青にしている。そしてルリが手伝うまでもなく全ての電源を落とし終わると、教卓に駆け戻ってきて画面に目を落とす。


「ヤベェ、マジでヤベェ、クソッ、デシネの連中に何とかしてもらわないと――」


「無駄なんじゃない?」未だに事の重大性がわからないまま、瑠璃子は云った。「彼ら、今度は清水クンを玩具にして遊ぶみたいよ?」


「何? 何だよそれ!」


 今ではすっかり、ネットサイファーのことは忘れられているようだった。掲示板の話題は清水の別名であるラインハルトに集中しており、彼の過去の行状から身元を突き止めようとする動きまで出ている。


「何だよ、クソ、コイツら! オレがどんだけ――」


「とにかく、良くわかんないけど――逃げた方がいいんじゃないの?」


「そう、そうだ!」


 叫び、パチンと教卓のパソコンの電源も切り、彼は四方にライトを向けて何かを探る素振りをする。


「じゃ、じゃあ、逃げるぞ?」


 まるで呂律が回らないまま云い、苦しそうに首元を緩め、情報演習室を出る。


 まったく、こんな事になって、どうしたらいいんだろう?


 いや、こんな事って、どんなことだ?


 瑠璃子はこれから何が起きようとしているのか、まるで想像が付かなかった。それはこのまま学校を出てしまえば捕まりようがない気もするが、実際、どうなんだろう。


 そう、攻撃が行われていたのは、ここのパソコンだ。幾ら辿っていっても辿り着けるのは高校までで、そこに清水や瑠璃子が関与しているのは、知りようがないはず。


 けれども――瑠璃子なんて、ネットの裏に足を踏み込んで、まだ一月のぺーぺーだ。何か知らない調査手段があるのかもしれないし、そうなると――もの凄く、ヤバイ。


 そう、ヤバイ、ヤバイかも知れない。


 あの、瑠璃子が初めて、CELLにカスタムOSを入れた日。その時と似た緊張感に包まれ、心臓の鼓動が早まり、一方で膝は冷たくなり、背中が寒くなってくる。


 だから、うっかりしたのかもしれない。ふと侵入した元の音楽室に辿り着いた時、ポケットの中に入れていたCELLがないのに気付いて、思わず声を上げてしまう。


「あー」


 それまで無言のまま、息を荒くしていた清水。彼は驚くほどの反応を見せ、もの凄い勢いで振り向いた。


「な、何だよ!」


「私、CELL忘れて来ちゃった」


「なっ、何やってんだよ!」そして恐ろしい程の暗闇に包まれている辺りを見渡し、云った。「あ、じゃ、オレ、先に行ってるから。ホラ、鍵」声を上げかけた瑠璃子を遮り、「別れて行動した方がいいって! 下手に一緒だと――」


 ごにょごにょと聞き取りづらい言葉を発し、そのまま彼は、背を向けてしまった。


 音楽室に入っていく清水と、取り残される瑠璃子。しかし瑠璃子は後ろ盾を失った恐怖より、彼と別れられる安堵の方が上回っていた。


 まったく、本当に――最低、最悪なヤツ。


 瑠璃子はとうに彼の口車に乗ってしまった自分を恥じていたが、実際問題として、何だか不味い事態に取り残されているのには変わりない。すぐに踵を返して情報演習室に戻ろうとするが、一人になった途端、靴下が床をするペタペタとした音や、衣擦れの音が気になり始めた。そして次第に鼓動が高くなってきて、遠くをパトカーが通り過ぎていく音に身を縮め、まるで頭に余裕がなくなってくる。


 どうしてこんなことになる? 自分は単に清水の手伝いをしただけだってのに、このまま悠長にしてたらデシネの偵察隊に見咎められて、ネットで祭り上げられてしまうかもしれない。


 いや、そんなのは、まだ良い方だ。


 最低、最悪、今日の出来事がCNUに知れ――逮捕されてしまう、かも。


「――冗談っ!」


 小声で叫んだのを契機にして、瑠璃子は恐る恐る進むのを止めた。ペタペタと音が立つのも構わずに廊下を駆け、階段を上り、半ば息を切らせながら三階の情報演習室へと辿り着く。


 曇りガラスの向こう側は完全に闇に落ちていて、未だに誰かが飛んできた様子はない。


 それでも恐る恐る、音を立てないように扉を開くと――明らかに何かの気配がして、一瞬のうちに身を凍らせる。


 何か、いた。


 その証拠に電源を落としたはずの教卓のパソコンが、再び光を灯している。


 カタカタ、カタカタ。


 まるで清水なんか及びも付かないほどの、高速で軽やかなキータッチの音。


 そして教卓の影からは人影が現れ、今度は清水が見向きもしなかった、隅の方にあるラックに向かう。


 彼は躊躇なく、その冷蔵庫のような扉を開く。途端に中からは甲高いファンの音が響き始め、彼はそれを一通り見渡すと、中に入っていた機器の一つを手元のCELLと繋げ、片手で高速にキーを叩き始める。


 まるで瑠璃子は、開いた口が塞がらなかった。


 完全に放心して、トボトボと室内に入り込む。それが逆に自らの気配を消すことに繋がったのだろうか、彼は瑠璃子が背後に歩み寄ったのにも気付かず、ケーブルを別の機器に差し替え、キーを叩き、更に別の機器へとケーブルを差し替えようとする。


「――何やってるの?」


 瑠璃子の声に、彼は酷く動揺した。片手に持っていたCELLを放り投げかけ、お手玉しながらも辛うじて再び手に収める。


 しかしその間も、彼は一言も、声を発することがなかった。


 それは目の前の男が――瑠璃子の知る、軽口で意味不明な事ばかり云う小男――パーティー・ポッパーズの羽場と違うことを、明確に示していた。


 硬直し、怯えたように瞳を上げ――まるで見知らぬ人物と相対したかのように、彼は視線を揺らがせた。


 誰だっけ、こいつ。確か名前は――


 そんな風に曖昧な表情を浮かべた後、彼はようやく、口を開いた。


「や、やぁ、ルリちゃん」


 まるで、何を尋ねて良いかわからない。


 無為に彼の困惑した表情を眺めていると、彼は落ち着きなく辺りを見渡し、チョコチョコと歩いて教卓へ戻る。


「ゴメン、色々と楽しいお話で盛り上がりたい所だけど、今は時間がないんだ。そもそも時間って人によって相対的なものでさ、ボクにとっての十分とルリちゃんにとっての十分ってのは、かなり重みが違う。だからって別にルリちゃんを軽んじてるなんてワケじゃないんだよ? ただ今はボクの素晴らしい脳味噌の回転は思いを吐き出すのに必死になってて、それってつまり――」


 あ、いつもの羽場だ。


 ひたすら喋りながら高速で手を動かす彼を無言で眺めていると、根負けした、というように彼は溜息を吐き、椅子を瑠璃子に回した。


「いいよ。でも三十秒だけ」


「何やってんの!」


 張り詰めていた息を吐き出しながら叫んだ瑠璃子に、羽場は慌てて胸の前に両手を広げた。


「清水の後始末、というか、尻ぬぐい、かな」


 尻ぬぐい?


 まるでワケがわからない。


「いいよ。時間を節約しよう。ボクは清水が何をやろうとしてるか、大体見当が付いてた。ヤツが成功しようが失敗しようがボクの知ったことじゃないけど、それにルリちゃんが関わるってなら話が別だ。だから近くまで来てネット越しに様子を見てたんだけど、思いの外、サイファーが強硬手段に出てきたんで。リカバーが必要だと思ったワケ。三十秒経ったね。じゃあ」


 云って立ち上がり、再びCELL片手に、ラックに積まれた機器に戻る。


「ちょ、ちょっと待って? 清水クンが何をしようとしてたか、知ってた?」


「あぁ、知ってた」と、片手でキーを叩きつつ。「良く餓鬼の使う手さ。仕組みも知らないでクラック・ツール使って、プロになった気でいる。サイファーのページを落とした? それに何の意味があるってのさ」


「そ、それ、私も疑問で――」


「商売が半日かそこら止まったって、そりゃあ多少のダメージがあるだろうけど、その程度で連中が考えを改めるなんてことはない。単なる自己満足ってか、単に集まって騒ぎたいだけなんだ。ピンポンダッシュして喜んでる小学生と同じ」そして機器からケーブルを外し、溜息混じりに瑠璃子を押しのけ、教卓に戻る。「しかもそれにルリちゃんを巻き込んで、先に逃げるだなんて。最低最悪のヤツさ」


 パン、と彼がキーを叩くと、灯りが消えていた生徒用のパソコンが、一斉に起動を始める。


「いいかい? ルリちゃん。別に説教する気なんてないけど、ネットってのは――そう簡単なものじゃないんだ。いや、簡単だけど。でも人によっては簡単じゃない。だから清水の馬鹿みたいなヤツの口車に、簡単に載ったりしちゃあ――」


「さっきから何やってるの? 尻ぬぐいって、それって――」


 大きな溜息に続けて、彼は教員用パソコンの画面を指し示した。


「ぶっちゃけ、このままじゃあ。専門家が調べれば、清水とルリちゃんが忍び込んでジャンプ・ツールを使ったってのがバレちゃう」


「え? 清水クンはアレにしても、どうして私まで――」


「CELLだよ」と、彼は瑠璃子が置き忘れた白磁色の携帯端末を指し示す。「CELLは常に、自分の電話番号を乗せた電波を発信してる。そりゃ当然、近くの基地局が、どの電話番号が近くにいるかわからないと繋げられないからね。これは幾らカスタムOSを入れても変わらない。それで警察が調べれば、この時間帯、この近くの基地局が掴んでいた電話番号が全部わかる。更に云うと、その電話番号の中にこの学校の生徒がいれば、一発で怪しまれる。加えて清水だけど、馬鹿な事にこのシステムにログインするのに自分の演習アカウントを使ってる。そこから管理者権限を取ってるのは彼の手柄だけれども、それもジャンプ・ツールのおかげさ。こうして全部、履歴が残ることも知らないなんてね。ちゃんとツールには履歴を消す機能もあるのに、それが必要なことかどうか、彼は全然知らないんだ。ホント、豚に真珠ってヤツさ」


 後半はイマイチ何を説明されているのかわからなかったが――しかし清水はそんなこと、全然気にもかけていなかった。


 愕然とする瑠璃子に、羽場は再び溜息を吐いて見せる。


「たかだか一企業のページに攻撃しかけた程度じゃ、普通は警察もそこまで調べないけど。でもサイファーはあの通り、かなり強気な会社だからね。少なくともこの学校から仕掛けられた攻撃については、徹底的に調べるようにCNUに云うはずさ。別に清水が捕まるのは構わないけど、ルリちゃんは――あぁ、前科付けて箔を付けたかったりする?」呆れて口を開こうとした瑠璃子に、更に彼は言葉を被せた。「だよね。だからそもそもの可能性を覆い隠すしかない。誰かがここに来たとかいう推理をする可能性を、潰すんだ」


「どう、やって?」


「全部、ウィルスの所為にする」


「――ウィルス?」


「あぁ。生徒用のパソコン全部にウィルス仕込んで、それがサイファーを攻撃してたように偽装する。それでこの学校の生徒が疑われることはなくなる」


「え? でも、ウィルスなんて、普通ウィルススキャンとかで――」


「そりゃ、既知のウィルスなら。すぐに駆除されちゃう。でも未知のウィルスなら、駆除されるまでに数日かかる」


「未知の、ウィルス?」


「そ。十分で作ったのだから、上手く動くかわからないけど――」


 そして彼は、パチン、と一つのキーを叩く。


 すると先ほどと同じように、部屋中のパソコンが一斉に甲高い音を発し始めた。


 これだけで、羽場の技術が清水と段違いなのがわかる。清水はパソコン一台一台に設定して行っていたのに、羽場は手元で、全てを操っている。


 凄い。


 凄い、っていうか。


 彼は、一体、何者なんだ?


「さっすが羽場ちゃん、ぶっつけ本番でも大成功!」小声で奇声を上げてみせて、彼はパチンと両手を打ちあわせた。「さ、とにかくこれで尻ぬぐいは終わりだ。結果的に清水の馬鹿は全然関係ないってことになって、サイファーへの攻撃は中国から紛れ込んだウィルスの所為ってことになる。実際に人が入り込んだなんてことは誰も考えないし、当然電話の基地局も調べられることはない。清水のヤツがお縄にならないのは少し残念だけど、まぁ仕方がないね」


 そして、ようやく瑠璃子は気がついた。


 羽場は両手に手袋を嵌めていて、完全に指紋を残さないようにしている。加えて彼が手にしているCELLだと思っていた端末は明らかに別物で、あまり見たことのない高性能な小型ノートパソコンらしかった。


 そこに繋がれていたケーブルを、彼は手早く巻き取る。そして全てをウェストポーチに納めると、瑠璃子を情報演習室の外に促した。


 彼は清水とは別の侵入経路を確保しているらしく、音楽室とは逆方向に向かう。そして一階の階段を最後まで降りると、地下があれば階段が続いているだろう方向に向く。


 そこには、生徒は誰も気に掛けない、小さな鉄の扉が一つだけあった。


 羽場は軽くサイドバックを漁ると、予め作っていたらしい鍵を手に取り、それが当然と云った様子で扉を開け放つ。奥は暗闇に包まれていたが、すぐに耳慣れた甲高い音が溢れ出てきた。


 それはやはり、通信用の機械か何からしい。狭い倉庫的な部屋の奥には、同じように小さな扉がある。更にそこも別の鍵で開け放つと、扉は校舎裏の雑木林に面していた。


 それでもまだ、バンド・デシネの一味が近くに偵察しにきている可能性があった。それを避けるために羽場は瑠璃子を促し、なるべく人通りの少ない方向から雑木林を抜け、街灯の少ない道を選び――そしてようやく一つのコンビニの前に辿り着くと、大きく息を吐いて、何事もなかったかのように大通りの方向を指し示す。


「さ、帰ろう。ルリちゃんはそっち。ボクはこっち。じゃあね」


「ちょっと待って! 逃がすワケがないでしょ?」


 慌てて肩を掴んだ瑠璃子に、溜息を吐きながら振り返る羽場。


「やっぱり? でもさ、人にはそれぞれ触れられたくないプライバシーってもんが――」


「ばらすよ?」


「え? 何を?」


「羽場ちゃんが、もの凄いハッカーだって」


「ハッカーって何? ボクなんにも知らない」


「冗談だと思ってる?」


「ルリちゃん、ハッカーって云ったって、何が何だか知らない癖に! もういいからさ、今日は――」


「そうよ、何にも知らないよ!」


 思わず、叫んでしまっていた。加えて声も震えてきて、涙も出そうになってくる。


 格好悪い。


 無理に唇を噛みしめたが、どうしても鼻水が出てくる。


 その様子に、余程羽場は狼狽えたらしかった。俯く瑠璃子に、彼は辺りを見渡してから、軽く手を肩に添えて瑠璃子をコンビニの影に促す。


「と、とにかく。今日は色々あって、お互いに忙しいし、そうだ、今日はテレビで夜からウィンブルドンの中継やるよ? ルリちゃんテニス好きでしょ? 早く帰って観ないと――」


 クソ、超絶に格好悪い。


 なかなか鼻水が止まらず、肩の震えも止まらなかった。今、声を発したらガクガクに震えて、きっと涙も溢れてきてしまうに違いない。


 私は羽場のこと、何も知らなかった。


 瑠璃子の中の羽場は、運動が苦手で、気が弱くて、それをネタに皆に玩具にされていて、それでいて酷いお喋りで、まるで空気が読めない馬鹿な癖に――何だかその言葉には酷い真理のようなものが鏤められていて――変人故の天才になりそこねた、妙に憎めない不思議な人間のように思えていた。


 加えて彼は、高校生活で最大の瑠璃子の危機を、救ってくれた。


 最近は偶然だったんじゃないかと思い始めていた。単に彼はゲームが好きで、一緒にプレイしてくれる相手を探していただけなのかもしれないと。そこに暇そうな瑠璃子を見つけて、何か上手く行きそうな言葉を探した挙げ句の――あの言葉だったんじゃないか、と。


 でも今では、それは見込み違いだったと確信する。


 彼はきっと、何か特別な人間なのだ。その本性を可能な限り覆い隠し、滑稽な自分を演じることで――瑠璃子たちを騙していた。


 そして裏では、何だかワケのわからない、ハッカーという活動を続けていた。


「――それでこれから、何するの」


 ぐしゅっ、と鼻を鳴らし、辛うじて震えを最小限に抑えて、尋ねる。


「え? 何? 何って、ボクは帰ってお風呂に入って明日の学校に備えて――」


「そういうの、もういいから」ようやく、目を上げられた。「羽場ちゃん、ジャンプなんでしょ」


「えっ? だ、誰それ?」


「羽場ちゃん、美也ちゃんのお父さんが亡くなって、その日の、誰も知らないうちに、美也ちゃんの心配してた。それに亡くなってすぐに裏事情を探った情報が出てくるっていうのも変だし、それに――前に変態先生のリストが流されたときも、前の日に羽場ちゃんとそんな話をしたばっかりだったし――何で? 羽場ちゃん、いつからこんな事してるの? どうして私に黙ってそんな――」


「止してよルリちゃん、ボクには何の事かさっぱり――」


「これで終わりじゃないんでしょ? ジャンプはサイファーの機密情報を流出させた【ことにした】。それにデシネが乗って、大暴れすることを予想して。だとして、次の手は? その混乱に乗っかって、何かするつもりだったんじゃないの?」


 彼は困惑に包まれていた表情を、大きく開かせた。


「驚いたな。どうしてそう思うの?」


「だってジャンプが、本当にサイファーにとって致命的な資料を盗み出せてたんなら。サイファーはヤバイと思って、攻撃されても下手に出るか知らない振りを通すかするしかない。違う? なのにサイファーは、あんな挑発的なメッセージをお知らせに載せたりした。それって変じゃない」


「――参ったね。さすがルリちゃん」辛うじて、というように。「そう、ジャンプが【盗んだ】とされる資料は、全部ウソっぱちの偽物なんだ。どうしてそんな資料をでっち上げて、デシネを煽る必要があったか? それは連中の組織による大規模な攻撃が必要だったからだ」


「どうして、デシネの大規模な攻撃が必要だったの?」


「それはえっと――」困惑したように、宙を仰ぐ。「悪いけどルリちゃんに理解出来る話じゃない。専門的すぎる」


「じゃあ理解させて!」


「頼むよルリちゃん。云ったようにネットの世界ってのは、現実世界とは少し違ったルールで動いてる。ルリちゃんみたいなのが軽く踏み込むような世界じゃない」


「なんでそんな清水みたいなこと云うの! 私みたいって何? 元気だけが取り得の馬鹿ってこと?」


「そうは云ってない。そうじゃなく――」彼は頭を振り、溜息を吐いた。「そう、そんな難しい話じゃない。犯罪なんだ。わかるだろう? 犯罪なんだよ、彼のやってる事っていうのは」


「だから何。捕まってないんでしょ?」


「知らないかもだけど、ネットの犯罪ってのは。結構重い罪になるんだ。彼の犯した罪を全て積み上げれば、数十年は牢屋に放り込まれるほどの――」


「でもその警察は、美也ちゃんのお父さんの敵を取ってくれない。だからジャンプが動いたんでしょう?」


「ジャンプの目的は、そんな崇高なものじゃないんだ!」


「じゃあ何? 何が目的で、そんな――」


「頼むよルリちゃん」本当に懇願するよう、彼は顔を近づけた。「頼む。ボクの一生のお願いだ。頼むから今日の事は忘れて――」


「一生忘れない」


「なんでさ! どうしてそこまで――」


「本気でわからない?」再び流れてきた鼻水を、瑠璃子は思い切りすすった。「羽場ちゃん、私を騙してたんだよ?」


「騙す? どうしてさ! ボクはそんなこと――」


「私だけじゃない、美也ちゃんだってそうじゃない。私や美也ちゃんは、羽場ちゃんのことが大好きで、ずっと一緒に遊んでたんだよ? それが何? 裏では実は超有名なハッカーで、もの凄いこと色々やってました? 何それ、許せると思う?」


 大きく口を開け放ち、硬直する羽場。


 そう、彼は確かに怪我をした瑠璃子を思い計る洞察力はあったかもしれないが、事、自分の事については――自分の演技がどれだけ他人に影響を与えていたのか、完璧には把握できていなかったのだろう。思いがけない瑠璃子の言葉に、完全に放心し――それでもすぐに、言葉を探るように、無為に辺りを見渡す。


「あぁ、それは――そう、なんだろうな」


「でしょう? どう思う、羽場ちゃん?」


「どうって、その。責任取って、二人ともお嫁さんにしちゃう? ボクは全然構わない――」


「馬鹿!」言葉より先に手が出ていた。思い切り平手で頭を叩かれ、彼は数歩、蹌踉めく。「もうその手は食わないの! 逃げようったって、そうは行かないんだから! とにかく隠さないで、全部教えてよ!」


 それでどうやら、彼は観念したらしかった。


 頭を擦りながら大きく溜息を吐き、それでも僅かに戸惑い、最終的には、瑠璃子の家の方向とは逆方向の道を指し示した。


「わかったよ。けどさ、ボクのやってることって、決して綺麗なことじゃないし、誰にでも云える話じゃない。だから――これだけは約束して。美也ちゃんや他の連中には、絶対に云わないって」


 瑠璃子は答えなかった。


 それは、これから私が――判断する。

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