第22話

 所轄の刑事課に張り込みを依頼するにしても、物の所在を確かめなければ頼みようがない。早速朝霞は佐野と手分けしてリストに載った人物へ電話を始めたが、半数は繋がらず、残りの半数にしても――未だに手元にあるというのは、三台のみだった。


「佐野! 所轄の刑事課にこの三件の張り込みをさせろ! そして残りの五台の行方を他のメンバーに探らせろ! それとインフィニタスに、ラグランジュが狙われる心当たりがないか確認を! 五分後に出かけるぞ」


「了解! でもどちらへ」


「二台ほど中古市場に流れてるらしい。現物を確かめに行く」


 他のCNUメンバーへの指示に手間取っている佐野を急かし、再び秋葉原に舞い戻る。しかし電気街の様相も渡米前とすっかり変わってしまっていて、朝霞が地図から当たりを付けた近辺には、まるで目的の店の看板が見あたらない。加えて辺りは歩行者天国でごったがえしていて、コスプレ少女のゲリラ撮影会やら、モバイルカメラとパソコンを活用した即席ネット中継などが行われていて、まるで落ち着いて地図を確認している余裕もない。


 一度人の流れから外れ、通りと大型店舗の配置から、目的の店を探す。


「秋葉原か。私が現役だった頃は、もっと硬派な街だったんですが――」


 あまりの混雑に、辟易したように云う佐野。


「現役? キミは何の現役だったんだ」


「そりゃあ、メカですよ。サバイバル・ゲームも好きだった。今じゃ、そんなことしてる暇は全然ありませんが」


「休暇を取らせると云っただろう」どうもこの青年は、酷く恨みがましい所がある。「どうやら、そのビルらしい」


 うぅむ、と、酷く厭そうな声を上げる佐野。それもそのはず、入り口は人一人通れるか通れないかといった鉛筆ビルで、壁中にはメイドだのアダルトゲームだののポスターが貼り付けられている。


 エレベータにしても、酷く古くさく小さな物だった。一階下ってくるのに何秒も要して、一度止まるとなかなか動こうとしない。


「ボスは、昔からこんな所に来てるんですか」


「こんな所って何だ! 立派な日本の誇る文化だぞ? アメリカでも日本のポップカルチャーは有名で――」


「ポップ? ただのエロじゃありませんか」


「エロは偉大だぞ? 敏腕ハッカーの殆どは、その手のコンテンツをどうやって安全に手に入れるかで、基本的な技術を身につける。キミもその手だろう?」


「私はそんな下品な真似はしません」


「だからキミはウィザードに届かないんだ。クラッカーを捕らえるには、彼らの心理を知らなきゃならん」


「そうは云いますがね、ボスだってジャンプは得体が知れないと――」


「だから面白いと云ってるんだよ。キミみたいに投げ出したら、それで終わりだ」


 ようやっと、目的の六階に辿り着く。こちらは古き良き秋葉原の店と云った風で、暗い照明に禿の店主、雑然とした陳列と、一通りの要素が揃っているようだった。


「さて、問題のラグランジュだが――」


 朝霞が云いかけたとき、ふと、場にそぐわない、甲高い小さな声が耳に入った。


 まるで中学生か、高校生のような。それは不思議なエコーを伴っていて、朝霞は足を止めて周囲を窺う。


「――ここは後回しかな。とても手が出せそうにないよ」


「うーん、何か手はないのかなぁ。ネットで取引を持ちかけて、ラグランジュだけ先に送らせるとか――」


「それは可能かもしれないけど、ボクのポリシーに反するよ」


「ポリシー?」


「可愛そうじゃん、あの店主。きっと物凄い思い入れがあって――」


 階段。


 朝霞は咄嗟に身を翻して、エレベータのすぐ脇にある螺旋状の非常階段から、下を覗き込む。


 鮮やかな色彩を纏った、二つの人影が目に入った。


 一人はこちらに、真っ黒なニット帽を被った頭を向けている。顔には緋色のマフラーをグルグル巻きにし、緑を基調にしたスタジアムジャンパーに両手を突っ込んでいた。


 そしてもう一人は、朝霞が下を覗き込んだのと、ほぼ同時に――朝霞のことを見上げていた。赤茶色のニット帽を目深に被り、山吹色のマフラーの上から、悪戯っ子のような瞳を覗かせている。


「――どうかした?」


 明らかな、少女の声。そして振り向いた彼女が見せたのは、まるで猫のような、クリッとした瞳だった。


 そして、硬直する彼ら。


 どれだけの間、三人は見つめ合っていただろう。


 ふと、とすん、と少年が一歩だけ階段を降りるのを目にし、朝霞は思わず叫んでいた。


「――ジャンプ!」


 一時停止が解除され、途端に階段を駆け下り始める二人。朝霞は一瞬エレベータを使うか駆け下りるかを迷ったが、既に箱が別の階に向かっているのを見て、段を滑り降りるように駆け下りる。


「ジャンプ? 何です!」


 叫びながら追って来た佐野に、叫び返す。


「ジャンプがいた! あの二人だ!」


「本当ですか!」


「男と女だ! 子供だ!」


 チラチラと階下に見え隠れする、緋色と山吹色のマフラー。それはビルの出口を駆け抜けていって、遅れること数秒、朝霞と佐野も混雑する路上に出る。途端に視界は鈍色の群衆に覆われ、まるで二人の姿が見あたらない。


「黄色いマフラーと、赤いマフラー! 身長百六十センチ前後、少年は茶色いニットを被っていて――」


「いた!」


 まるで猟犬のように駆け出す佐野。慌てて朝霞も追っていくと、間もなく群衆から外れて逃げていく二つの色彩が目に入る。彼らは万世橋方向に大通りを駆けながら、歩行者天国の警備目的で制止しようとする警備員をあしらい、再び人混みに紛れようとする。


「クソッ! 革靴なんて、履いてくるんじゃなかった!」


 喘ぐ朝霞を、ぐんぐん引き離していく佐野。彼は二人を組み伏せられる直前まで云っていたが、そこで少年は不意に足を緩め、傍らの警備員に佐野を指し示した。


「あっ、アイツらがナイフを持って! 殺される!」


 怪訝そうにしながらも、佐野の前に立ち塞がる警備員。


「違う! あっちが犯人だ! どけっ!」


 完全に足を止められる佐野。その間にも少年少女は背後の様子を窺いつつ、裏路地へ飛び込んでいく。


「CNUだ! 警視庁だ!」ようやく追いついた朝霞が手帳を示したことで、数人にまで膨らんでいた警備員の輪が緩んだ。「佐野! 回り込め!」


「回り込めったって、どっちに!」


「橋を渡ってから右に!」


「ホントにそっちに、行くんでしょうね!」


 昔と人の流れが変わっていなければ、そちらに出る可能性が高い。とにかく再び駆け出した佐野と別れ、朝霞は二人が消えて行った路地に飛び込んでいく。そこは小さなパーツショップがひしめく一帯で、あっちにぶつかり、こっちに遮られと、そう遠くない所に二つの頭が見あたる。


「どけっ! 警察だ! 道を空けて!」


 あまり派手派手しくやると後が怖かったが、今更後にも引けない。すぐさま殆どの視線が朝霞に向けられ、積極的にではないものの、流れが止まる。


 そうしている間に、T字路に辿り着いていた二人は、不意に行く手を別れさせていた。少女が右に、少年が左に。


「クソッ! もう何人か連れてくれば良かった!」


 愚痴りながら、左右に飛び散っていく色彩を眺める。緋色の少女は運動でもやっているのか、佐野顔負けのスピードでどんどん小さくなっていく。一方の山吹色の少年は、かなり足に来ているらしく、メイドから奪い取ったビラを散らかしたり、看板を倒したりと、なんとかして追跡者の足を緩ませようとしている。


 さすがに少女が、ジャンプと云うこともないだろう。そう当たりを付け、朝霞は左の少年を追う。


 しかし朝霞の肺も足の筋肉も、大分限界に達しつつあった。少年以上の速度で疲労し、息が上がり、とても追いつけないと諦めかけた時だ。


 電気街から抜け、昌平橋からお茶の水方面へと向かおうとした少年。その前に頼もしい姿が現れ、朝霞は思わず腰を折り、思い切り酸素を補給した。


「さすが佐野。回り込めたじゃないか」


 少年の向こうで、油断なく身構えながら歩み寄ってくる佐野。少年は瞳を大きく見開き、佐野と、そして腰を上げて近づいてくる朝霞とを見比べ、車線の向こうに活路を見出そうとする。しかしひっきりなしに往来する車に恐れを成してか、橋の欄干に背を付け、二人からなるべく離れようと位置を取る。


「諦めろ、ジャンプ!」朝霞は無理に息を飲み、呼吸を落ち着けさせる。「下手なあがきは止せ!」


「なっ、何だってんだ一体!」


 その声は明らかに、思春期を過ぎたばかりの少年の声だった。元の身体の小ささもあってだろうが、甲高く、透き通っていて、橋の下を潜る総武線の騒音にもかき消されず、耳に届いてくる。


「何だってんだ一体! オマエらはアレか、その、CNUか!」


「ご名答。CNUだ。さすがのジャンプも、ちょっと暴れすぎたようだな」


 少年はしきりと瞳を泳がせ、逃げ道を探る。だがそれは一つもないと踏んでか、不意に橋の欄干に跨り、下を覗き込む。


「おい! 止せ!」


 慌てて足を止めた朝霞と佐野。それにジャンプは怯えた瞳を浮かばせ、声を震わせながらも、酷く明るく云った。


「何が? あっ、それ、警察仕様の特殊CELLでしょ? ボクも一回触ってみたかったんだよね。ちょっと見せてくんない?」慎重にCELLをポケットに収めた朝霞に、ジャンプは無理に苦笑しながら云った。「いいじゃん減るもんじゃないし。そうだ。ねぇ、もしボクがこっから落ちて死んだりしたら、アンタはもの凄い怒られることになんのかな? それってヤバイんじゃないの? そもそもCNUって、頭脳派でしょ? なんでそんな筋肉モリモリなオッサンまでいるの? あっ、そうだ、いいこと教えてあげる。良く筋肉付けるのにプロテインとか飲むけど、あれってヤバイよ? 大元は牛乳なんだけど、最近は牛乳って云っても遺伝子改良された牛を使ってて――」


 緊張の末か、愚にも付かない戯言を口にし始めたジャンプを無視し、朝霞も軽く下を覗き込む。遙か下には川と並列して走る中央線のレールが延びていた。


 こんな所から落ちたら、確実に、死ねる。


「止せ」慎重に云いながら、朝霞は一歩、足を踏み出した。「何も死ぬ事はない。キミは未成年なのか? ならそう重い罪には――」


「罪? 未成年?」酷く悲しそうに、少年は云う。「それがどうしたってんだ! オマエら、ボクなんかより追わなきゃならない相手が一杯いるだろ! 何やってんだよ!」


「――何だって?」


「はぁ? 全然思い当たる所がないって? いいだろう、教えてやるよ! ジャンプが何をしたってんだ? 誰かを殺したか? 誰かを悲しませたか?」少年は完全に欄干の外に足を着き、下を見下ろした。「そんなこと、やってないだろ! だってのに何だ! オマエらは簡単な事件ばっか取り締まって、ホントにヤバイ事やってる連中なんて、ろくに調べもしない! そんなんだから、ボクがクラッカーになんなきゃならなかったんだよ!」


「待て、聞け! 決して我々は、そんなことは――」


「よし! 決めた! ボク、こっから落ちる!」


「止せ!」


「いい? 行くよ! 五! 四! 三!」


 カウントダウンを始めた瞬間に、朝霞は数メートル先のジャンプにダッシュしていた。そして、ふっ、と、少年は欄干から手を離した瞬間に朝霞は飛び込んだが、その手は彼の襟首を捕まえる寸前で空を切り――ジャンプの姿は、瞬きの間に、消え去っていた。


 あぁ、クソッ! まさか、飛び降りるだなんて!


 とても歪んでグシャグシャになった少年の身体を見下ろす気にもなれず朝霞が蹲っていると、駆け寄ってきた佐野が、呆れたように声を発していた。


「ほう。なかなかやるもんだ、餓鬼の癖に」


「何だと?」


 慌てて起き上がって、橋の下を覗き込む。すると少年は欄干から伸びていた電線か何かにマフラーを巻き付け、手を滑らせ、一直線に線路に向かって降りて行っていた。そして最後の着地ばかりは失敗したが、川端の藪の中に飛び込むと、身体を確かめつつ、ゆっくりと起き上がる。


「――クソッ!」


 欄干に足を掛けた朝霞の袖を、慌てて佐野が掴んだ。


「無理ですよ! ボス、体重何キロですか」


「じゃあキミは何キロだ!」


「ボスよりは重い。主に筋肉ですが。ちなみに私はプロテインはエッグプロテインを飲んでますから、ジャンプの云うホエイプロテインの問題点は当てはまらない――」


「何を云ってる! いいから行け!」


「無理に決まってます」


「クソッ! クソッ!」


 まるで納得行かず、朝霞は再び橋の下に齧り付く。


 ジャンプは足を引き摺りながらレールの脇を逃げていたが、ふと振り返ると、二人に向かって、何か小さな機械を掲げて見せた。


 見覚えのある、シルエット。


「あぁっ!」


 慌ててポケットをまさぐったが、そこに備えていたはずのCELLが、影も形もなく消え去っていた。


「クソッ! いつの間に!」


「――ははぁ。カウントダウンだ」


「何だと!」


「ボットネットの時と同じだ。ヤツは何でカウントダウンしたんです? 最初からボスを引きつけて、CELLを盗むつもりだったんです。しかしまぁ、こりゃ、お手柄どころか――懲戒処分物ですね」


 最早、佐野の皮肉も聞く気にならなかった。


 ほんの、ちょっと。


 あと一センチの距離に、ジャンプの肉体があった。


 だってのに、それを、取り逃がすだなんて――


「佐野、ヘリだ! ヘリを呼べ!」


「冗談は止してください」


「ここまで来て逃がせるか! 追え!」


「無理ですよ、完全に別の階層です。回り込んでる間に逃げられる」苛立ち紛れに欄干を蹴飛ばす朝霞に溜息を吐き、彼はどんどん小さくなっていくジャンプの姿を追いながら、ふと、髭を撫でる。「それにしてもアイツ、何だか妙なこと云ってましたね」


「――何をだ」


「何か、我々が――やるべきことをやってない、みたいなことを。あれは一体――」


「知るか」


 朝霞のハッカー人生の中で、この日は、最低、最悪の一日になりそうだった。

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