第10話
ここのところの朝霞は、何かにつけて自分の年ばかり意識するようになってしまった。それは数字上は四十を超えているし、最早覆い隠すのも面倒になるほど白髪も増えている。
しかし数ヶ月前までは、まるでそんなことは気にならなかった。頭の回転が鈍った気もしないし、徹夜の捜査を続けても活力は失われなかった。
だが、この状況では。
「――この顔は――恩田かえで、だったかな」
朝霞は虚ろな気分のままキーを操り、アダルトビデオの製品情報を検索する。そして別のスクリーンに映し出されている裸体が蠢く動画とパッケージ画像を見比べてみたが――どうにも、判然としない。
そもそもAV女優の顔なんて皆似たり寄ったりだし、最近はハリウッド顔負けの画像修正技術のおかげで、パッケージ画像ばかりは秀麗に仕立てられている。
そう、パッケージには見られない黒子がある。ほうれい線だって深く刻まれているが、画像の方は二十歳かそこらにしか見えない。
数分、朝霞はそうやって半裸のパッケージ画像と蠢き続ける動画とを見比べ続けたが、不意に自分のしていることの馬鹿馬鹿しさに思いが至ってしまい、全てのウィンドウを閉じて椅子に寄り掛かった。
こう、毎日毎日、何十、何百というアダルト動画ばかり見ていれば。朝霞の男も不能になる。
そう、思いたかった。思いたかったが、果たしてそれが本当に仕事の所為なのか、年齢の所為なのか。わからなくなってくる。
「いかん、こんなことを続けていたら。本当に駄目になる」
朝霞は呟き、机とパソコンが置かれているだけの狭い部屋から外に出る。通路の左右には個室ビデオ店のようにずらりと小さな密室が並んでいて、十人ほどの捜査員たちが、朝霞と同じ悩みを抱えつつ、押収された動画ファイルの素性を探っているはずだった。
まったく、世の中を探しても、これほど急速に男としての機能を失わせる仕事はないだろう。
これは酷く深刻な問題だ。
課外の捜査員たちは、朝霞たちのそうした仕事ぶりを楽しげに眺め、ある者は羨ましそうにすらする。だからそうだ、この仕事は庁内の男性捜査員全員の持ち回りとし、しっかりとした制限を設けるべきだ。いや、男性だけに限らなくてもいい。女性だってこうしたものに寛容というか、受容するタイプだっている。だから全ての押収動画は庁内のサーバに格納し、男性用ブースと女性用ブースを設け、一人一日一時間を限度として広く開放するべきだ。ただし酷く特殊な趣味が入った物は別途制限を設け、捜査員それぞれの性癖と適合するように予め問診を行う必要がある。しかしそうなるとカウンセラーが必要になってくるし、そもそも動画ファイルというのは、開いてみるまで中に何が撮影されているかもわからない。最初は単なるアダルトビデオでも、途中からとんでもない展開が為される場合もある。だとするとやはり、予め動画の内容に従って整理分別させるためにある程度の耐性のある人間を選抜する必要があり、それにはどうしたらいいかというと――
「――私は何を考えてるんだ」
頭を振って、朝霞は足を急がせた。照合ルームを抜けてオフィスを抜け、真っ直ぐに隔離されたブースへと向かう。ガラスの壁で仕切られた向こうには、すぐに土井部長の巨体が見受けられた。彼は大きな手を持て余すようにキーボードをポチポチと叩いていたが、不意に壁をノックした朝霞に瞳を上げ、大きく破顔する。
「あぁ。朝霞クン。もう仕事には慣れたかね」
朝霞の倍はあるだろう、身体の幅。それに黙っていれば恐ろしさしか感じない丸坊主の顔ではあったが、こう笑みを浮かべられると可愛い孫を相手にする好々爺のようにしか見えない。
だから朝霞も一瞬気を抜いて笑みを浮かべかけたが、ふと本来の目的に意識が戻ると、無理に表情を引き締めて机の上に両手を突いた。
「用件は、わかりますよね?」苦笑する土井に、朝霞はすぐに捲し立てた。「いいですか。貴方は私に、この国のCNUを立派な組織にしてもらいたいと頭を下げてきた。それは恐縮ですし、余りある光栄だと思います。だから私はFBIを辞め、この国に戻ってきた。いや、まぁ家庭の事情もあったので、全てを貴方の所為にするワケにはいきませんが――」
「まぁ待て」彼は破顔したまま、机の上にソーセージのような指を組んだ。「キミはあの部屋に入って、どれくらいだったかな」
朝霞は指を、二本立てた。
「二ヶ月。二ヶ月です。朝から晩まで、著作権違反の容疑で押収してきた動画ファイルを眺め続け、どれがどの女優で、何てタイトルなのかを延々と――」はっ、と声を上げながら身体を揺する土井に、朝霞は更に身を乗り出させた。「何が可笑しいんです! 私はこんなことをするために、この国に戻ってきたワケじゃあ――」
「しかしそれは、誰かがやらねばならん仕事だ。何しろ被害を明らかにせねば罪には問えんワケだし――」
「そりゃあそうですが――」
「いやいや、待て」彼は笑顔のまま遮り、両手を腹の上に乗せる。「すまん、これはCNUの通過儀礼みたいなもんでな。男としての苦悩を分かち合うのにはうってつけの仕事だ。だろう?」
「かも、しれませんが。じゃあ一体、何時まであんなことを続けていろと――」
「今で終わりだ」
「――今?」
怪訝に問い返した朝霞に、土井は重そうな身体を揺らしながら立ち上がった。
「私に直接文句を云いに来るまでだ。大抵のヤツは一週間と持たずに文句を云いに来たり、配置転換を願い出てくるもんだが――二ヶ月か。最高記録だ。キミなら忍耐強い最高の捜査官になるに違いない」
クソッ、やられた。
それは警視庁のコンピュータ・ネットワーク犯罪関連組織をまとめ上げるだけに、そう容易な相手ではないと思っていたが。この土井という初老のデブも他のハッカーたちと違わず、一癖二癖ある人物のようだった。
「そう腐るな」項垂れる朝霞の肩をポン、と叩き、彼は通路の方へと促す。「キミには早速やってもらいたい仕事がある」
「――今度はホラー映画の品定めじゃないでしょうね」
「ホラーは著作権侵害でも人気がないな。おかげで最近は自腹でレンタルしなきゃならん」
足を止めて怪訝に眺める朝霞に、彼は身体を揺らしながら笑い、一つの扉を押し開いた。
中は、そう、照合ルームは比較にならない設備が整えられていた。様々な最新機器が所狭しと並べられ、正面には何かの監視センターのように、十ほどのディスプレイが掲げられている。それらは国内のネットワーク通信の監視状況を示しているらしく、主要なIXPのデータ流量やそのプロトコルの種類、それにセキュリティー企業から送られてくるウィルスの検知状況、違法トラフィックの検出状況などがリアルタイムで表示されている。
そのコンソールの前に座っていたのは、ハッカーには珍しい筋肉質タイプの男だった。二人の気配に勘付いて向けられた瞳は、酷く鋭く、若々しい輝きを宿している。口元には黒々とした髭を蓄えており、彼はそれをバリバリと掻きながら軽く土井に頭を下げた。
「佐野、彼が今日からキミの部隊のボスだ」と、土井は朝霞を指し示す。「元FBI捜査官。朝霞修司。恐らく今のCNUでは、一番のハッカーだろうな」
佐野と呼ばれた男はゆらりと立ち上がり、骨張った手を差し出してきた。
「お噂はかねがね。佐野です」
外見通り、深く、何か秘めた所のあるような声だった。
「あぁ。よろしく」軽く手を握ったところで、土井に顔を戻した。「それで私は――我々は――一体、何を?」
「後は若い者同士、好きにやってくれ」
「え。いや、好きにって――」
云っている間に土井は踵を返し、軽く片手を挙げて出て行ってしまった。困惑しながら顔を正面に向けると、佐野はさも可笑しそうに、片手で口元を覆っている。
「さっさと慣れた方がいい。あの爺さんは煮ても焼いても食えませんからね」
「そのようだ」溜息混じりに、朝霞は椅子に戻った佐野の手元を覗き込む。「それで、キミのミッションは?」
「そうですね。FBI風に云うなれば、専任捜査官、って所でしょうか。国内のネットワーク状況に応じて能動的に動き、クラッカー共の先を打ちます」
「いいじゃないか。私の得意な分野だ」
「と、聞いています。とはいえ、その手の能動的捜査については、CNUも始めたばかりで。ノウハウがない。色々と試行錯誤はしていますが、なかなか上手く行かず」
「それでキミは、今までにどんな事件を?」
「色々ですがね。今は少し手が空いているので、ジャンプを追ってます」首を傾げる朝霞に、彼は苦笑した。「そうだった、忘れてた。帰国したばかりでしたね。ジャンプってのは、国内じゃ珍しい偽善型クラッカーですよ。企業や役所で何か不祥事が噂されると、そこに侵入して証拠を洗いざらいネットにぶちまける。明らかになってるだけでも十前後、明らかになっていない物を含めれば、数十のシステムがクラックされてるだろうと」
「ほう。この国にも、そんな凄腕がいるのか」
「凄腕どころじゃない。どうもソイツは、ネットを荒らして楽しんでるスクリプト・キディなんかとは違って。かなりの技術を持ってるらしくて。最初京都府警が追ってたが、お手上げだって話で。もう二年近く野放しになってる。私も試みに手を付けてみたものの、あまり進展はありません」
京都府警。警視庁に先駆けてCNUを構築し、警察組織内では一番の技術を持っているとされる。
「いいじゃないか。私の初仕事には丁度いい。さっさとソイツを捕まえよう」
佐野は土井のような上司を相手にし続けてきたせいか、朝霞の言葉もまるで真に受けられないらしい。腕を組み、苦笑し、髭を撫でながら顔を上げる。
「どうやら噂に違わず、随分自信過剰の方らしいですね。いや、別に駄目だって云ってるんじゃありませんよ? 頼もしいって話です。ですが、そう易々とジャンプを捕らえられるかどうか」
云いながら彼は椅子を一つ朝霞に回し、正面に掲げられたスクリーンを軽く指し示して見せる。
アメリカ、韓国、中国、ロシア。
様々な国から、様々な国へ、様々な通信が飛び交っている。それは根本的には光ケーブルを伝う0と1の並びでしかないが、それが膨大な数だけ並ぶと――一つの言葉、一つの目的として形成される。
ロシア、ブラジル、イタリア、中国、中国、中国。
「相変わらず、中国か。本当にあそこは、厄介な国だな」
朝霞はコンソールから辛うじて読み取れる、通信元を示す文字列を眺めながら、呟く。
「確かに」同じ通信ログを別の端末から追っていた佐野が、物知り顔で呟く。「連中は著作権なんかお構いなしだから、海賊版のOSを使いまくる。当然そんなのにはウィルスが潜んでいて、最早中国のネット自体が、巨大な病原体みたいになっている」
「そのウィルスが、こうしてこの国の様々なコンピュータを常時攻撃し続けている」
それが、この通信ログに現れている。
中国、イタリア、中国、中国、ロシア――
「ですけどね。それが中国人民の意思とは限らない。知ってます? 先日クォンタム社が主催したセキュリティーセミナーで聞きましたがね、中国からのネットワーク攻撃の大半はウィルスによって構築されたボットネットによるもので、実際それを操ってるのは――大半が中国国外のクラッカーによるものだそうですよ」
ボットネットか。
また厭らしい手を思い付くヤツがいたものだ、と、朝霞は深い溜息を吐きながら椅子に倒れ込む。
ウィルス。OSやアプリケーションの欠陥を突いてコンピュータに感染し、所有者には知られないよう、密かに【何か】を行うプログラム。
一昔前は【何か】といっても、悪戯程度の単純な物だった。OSに必須なファイルを無闇矢鱈に削除し、再起不能にしてしまう物。無駄に裏で円周率とかを計算し続け、コンピュータの処理能力を落とす物。
しかしその【何か】も、次第に複雑で、営利的で、厭らしくなっていった。
常に所有者のキー入力を監視し、その内容をウィルス作者に通知する物。メールや個人情報が記されたファイルを検索し、ネット上に公開してしまう物。
そして、ボットネット。
ボットネット・ウィルスは、直接的にそのコンピュータには危害も加えない。しかしそのウィルスは、ウィルス作者からの通信を、また別のウィルスへと中継する機能を持っている。
日本から、アメリカ、北京、上海、韓国、香港。
そうやって中継された通信は、最早何処の誰から発せられたものか、わからなくなる。それがまた一つの経路を取れば辿りようはあるのだが、ボットネットは、何千、何万という寄生されたコンピュータを、ランダムに選択して中継してくる。だから通信の一つ一つが別の経路を取ることになり、とても、その根源を追ってはいられなくなる。
世界的に活動するクラッカー連中は、それぞれ、様々なタイプのボットネットを駆使している。それを利用して企業が攻撃されたとしても――攻撃自体は把握できるが、朝霞たちCNUには、とても犯人を辿ることは出来なくなっていた。
「それで? その話とジャンプとが、どう繋がるんだ?」
「私はどうも、彼の物らしいボットネットを突き止めましてね」CNUが検知済みの、ウィルスに感染しているコンピュータ群。その膨大な点が地図上にプロットされ、現在の状態を様々な色彩で表していた。「セキュリティー会社が、Trojan.ThreedogAとして分類しているウィルスです。どうやらそれに感染しているコンピュータが、ジャンプのボットネットを構成するノードになっているらしい」
彼がキーを叩くと、それこそ田舎の夜に見上げた星空のような光点の内、主に中国や東南アジアにある点の一部が、赤く瞬いた。
「コイツらです。CNUのウィルス監視網は全世界のコンピュータの一パーセントも網羅していませんが、それで把握できているだけで、数十台が感染している。実際の所は、数千から数万台が感染していると見て間違いないでしょうね」
「どうしてそれが、ジャンプのボットネットだと?」
「ボスもご存じの手法だと思いますがね。私は一台の、何の変哲もないパソコンを用意して、わざとThreedogAに感染させ、無防備なままネット回線に接続しました」
ほう、この青年、顔に似合わず、そこそこのハッカーらしい。
朝霞は僅かに感心しながら、彼の話に身を入れる。
ボットネットの全容を知るには、どうしたらいいか? 全世界に散らばっている、Trojan.ThreedogAに感染したコンピュータを調べ、それぞれが何処と極秘裏に通信しているかを調べるか?
とても出来た話じゃない。
では、どうするか。
そう難しい話ではない。ボットネットに加わっているコンピュータは、他のボットネット・ウィルスに感染したコンピュータと通信を行っている。だから一台のノードを継続的に監視し続ければ、それがどのノードから通信を受け、何処に対して発信しているかという情報が掴める。
つまり、スパイ・ネットワークに、二重スパイを送り込むような物だ。
「ThreedogA同士の通信は暗号化されていて、具体的に何処を攻撃しているのかまではわかりませんでしたが――つい先日、BoS社の機密漏洩事件があった際に、通信量が爆発的に増加していた」
「それで、BoS社の件も――ジャンプの仕業だと?」
「えぇ。例によって流出させた資料の中で、関わりのない一般人の名前が出ている部分は――全てjumpjumpって文字列で埋め尽くされていた」
ふむ、と朝霞は唸り、久しぶりに――本当に久しぶりに、自らのコンピュータ・ネットワーク知識を動員させた。
「しかし大抵のボットネットは、それを構成するノードにランクを持たせるような仕組みを持っている。新参者は経路を錯乱させるための中継点としか使われず、実際にクラッカーから直接命令を受け取る一次ノード、それに最終的に目標に接続する末端ノードは、ボットネットに組み入れられて長い、信頼性のある、通信速度の速いノードが請け負うことになっている」
「えぇ、それは私も知っています。そして実際、ThreedogAも、同様の仕組みを備えています」
「キミのスパイが一次ノードにならなければジャンプが指示を出しているコンピュータは突き止められんし、通信の暗号を解読出来なければ、ボットネットが何をやっているのかもわからない」
「その通り」
「それで、お手上げ?」
彼は途端に顔を顰め、渋そうに髭を撫でた。
「お手上げってワケじゃありません。ただ私のスパイ・ノードを格上げさせるには、恐らく数ヶ月――あるいは数年――ボットネットに繋ぎ続けなきゃならないはずです。ですがもし、ThreedogAがどうやってランク付けを行っているかという内部処理を明らかにし、それをどう書き換えれば一次ノードになれるのかがわかれば――それほど待たずに、ジャンプから直接指示を受け取れる立場になれるかもしれない」
「つまり、お手上げってワケだろう?」
「あぁ、もう、皮肉は沢山です!」彼は笑いながら片手を振り、その厳つい顔を子供のように綻ばせていた。「実際、私は惨めったらしいプライドなんて持ち合わせていませんから、京都のCNUと共同調査するのが手っ取り早いと考えてたんですがね。ヤツらに依頼するとなると色々面倒な手続きが多くて――」そこで、ついっ、と、彼は髭面を朝霞に近づけた。「だがこれも、元FBI捜査官の貴方にかかれば、簡単な話ですかね。なにせ、スーパーハッカーだ」
試されてるな。
朝霞はすぐさま挑戦の意図を読み取り、軽く苦笑いして見せた。
「概要はわかった。とにかく、その――キミのスパイ・ノードを見せてくれ。それとTrojan.ThreedogAのバイナリを。キミの手に余るというなら、私が何とかするしかないだろう。それがボスの役割だからな」
早速Trojan.ThreedogAの本体をコピーし、記憶スティックを投げ渡す佐野。朝霞は自らの携帯端末を取り出して起動させると、何かあってもOS本体に影響を及ぼせない安全な環境にウィルスをコピーし、逆アセンブラに投入して内部構造を把握していく。
「――ふむ。面白いな」
呟いた朝霞の肩に手をかけつつ、佐野は画面を覗き込んだ。
「何がです」
「非常に洗練された構造だ。ジャンプってのが何者かは知らないが、高度なプログラミング技術があるのは確かだろう。見ろ、これだけのロジックを詰め込んでるのに、ウィルス本体は僅か数キロバイトのサイズしかない」
「ボスのライバルに、成り得ます?」
楽しそうに尋ねる佐野に、キーを叩きながら苦笑する。
「さて、それはどうかな。キミがスパイとして送り込んでるパソコンも見せてくれ」
彼からそのネットワーク・アドレスを渡され、朝霞はリモートでそのコンピュータに接続する。
何の変哲もない、eXectorOSで稼働する一般的なパソコンだ。
「――成る程、ここか」朝霞はウィルスの本体と感染したコンピュータの状態を見比べながら、大まかな挙動を掴んでいく。「凄いな。日本人でこれほどのウィルスが作れるヤツがいたとは。しかも素人で」
「興味が出てきたようだ」
「まぁね! CIAがロシアを混乱させるために作ったウィルスだと云われても、私は信じただろう。それほどの出来だ」
「つまり、お手上げ?」
「そうは云っていない。ざっと見る限りだが、このウィルスにはノード・レーティング・システムに穴があるように見える。こいつを突いてやれば、ボットネットの最上位まで辿り着けるかも――」
朝霞はウィルス本体の解析に移り、そこの暗号化通信制御部位を探る。
それにしても素晴らしいウィルスだと、改めて思う。自身の秘匿化に重点を置きすぎれば、それだけウィルスのサイズが大きくなり、観察者に発見される可能性が高くなる。一方でそれを蔑ろにすれば容易に発見されてしまうのも同じで、このウィルスはその辺のバランスを上手く取り、隠すべき所は隠し、諦めるところは諦めている。
それ故に通信の暗号化を行っている部分は比較的簡単なロジックだったが、次第に朝霞は――そのジャンプというクラッカーに、酷く脅威を覚え始めていた。
これだけのスキル。
そう、これだけのスキルを持つクラッカーは、産業スパイや国家機密目的のスパイ、あるいはサイバーテロリストの中でも、ほんの数えるほどしかいないはず。以前にCIAが似たようなウィルスで中東の核開発を潰したことがあったが、そのウィルスに匹敵する――あるいは部分的に凌駕する――ウィルスだとしか云いようがなかった。
それで、彼の目的が――世直し?
どうにもジャンプというクラッカーが、良くわからなかった。そんな偽善じみたことを考え、実行に移すのは――それはテロリストにはありがちな行動ではある。
だが、彼、もしくは彼女は、テロリストとは考えられなかった。
テロリストは自らを誇示し、犯行声明によって思想を世に示そうとする。
だが佐野に聞く限り、ジャンプが残すのは、ただ、jumpjumpという文字列、そして結果だけだ。
一体、彼の目的は何なのだろう。
とても表面通り、単なる世直しだけとは思えない。
「よし」怪訝に思いながらも一通りの解析を追え、渋い表情を続けている佐野に画面を指し示して見せる。「行けそうだ。しかも都合のいいことに、ジャンプがボットネットを使い始めた形跡がある」
「チャンスだ!」佐野は朝霞の背面の席に戻り、ガシャガシャと激しい音を立てながらキーを叩く。「確かに、他の監視下にあるノードも、通信量が増大している」
「佐野、ちょっと私は大至急でトラッキング・マクロを組むから、ウィルスの活動をモニターしていてくれ」
「トラッキング?」
「ウィルス自体に改造を加えてる暇はない。通信を横取りして、偽の活動記録を送りつけて、キミのスパイ・ノードをジャンプ本体に近づけられないか。試してみる」
「了解、さすがスーパーハッカーだ!」
朝霞は自らのプログラム・モジュールを高速で切り貼りし、目的の機能を持ったプログラムを構築していく。加えてウィルスの通信暗号化・復号化モジュールも取り込み、それ自体がウィルスのように動作しつつもウソの報告をして権限を奪取していくような物に仕立て上げていった。
「まだですか!」
「よし、出来た。こいつが上手く動けば、ジャンプが何処からボットネットに指令を出しているか。わかるはずだが――」
朝霞が慎重に、パチン、とキーを叩くと、コンソールにはサラサラと幾つかのメッセージが流れてくる。
tracking packet...
found 0x00FD32A6...
creating fake request call...
「よし、何とか潜り込んだが――」
「どうです」
「何しろウィルスの挙動が完璧にわかってる訳じゃないからな。あっさり弾き出されるかもしれんが――」
その時、パッ、と、新たな文字列がコンソールに現れた。
accepting your request!
this node was rank up 0E to 0D.
sending new order to other hi-node...
accepting all other hi-node.
「よし!」朝霞は思わず叫び、手を打ちあわせた。「一つ近づいた。まだジャンプが指令を出しているパソコンは遠いが――何とか辿り着けそうだ」
何しろ、それほど細かくウィルスのプログラムを分析できていた訳じゃない、短時間の昇格を阻む何らかの仕組みが潜んでいるのではと朝霞は危惧していたが、どうやらそこまでのロジックは仕組まれていないようだった。ほんの数分で佐野のパソコンはどんどんランクアップしていき、ついにはジャンプから直接指示を受けられる、一次ノードの立場まで辿り着いた。
「よし、行けるぞ!」佐野は叫び、早速通信を送りつけているノードのアドレスを取り出す。「ジャンプのコンピュータが持つアドレスは――0x18550645、これだ! 待ってろよジャンプ、すぐにオマエの首に縄をかけてやる。一体どこの回線業者に割り当てられてるアドレスだ?」
「0x18――?」朝霞は聞き覚えのあるアドレスクラスに、早速国内のアドレスを管理している機構に問い合わせを行おうとしていた佐野へと顔を向ける。「待て、佐野。0x1855は――確か国内の教育機関に割り当てられてるアドレスクラスじゃなかったか?」
「えっ?」一瞬彼は朝霞に顔を向けたが、すぐさま自らのコンソールに顔を戻し、キーを叩く。「あぁ、本当だ。まさか大学の教授がクラッカーの真似事を――」
「まぁいい、佐野、行くぞ。都内には違いない」
ジャケットを手に立ち上がった朝霞。佐野は慌てて自らのCELLを手に取り、朝霞を追い越してセキュリティー・エリアを抜ける。
彼が回してきた車に乗り込みながら、朝霞はCELLを取り出し、更に詳細な割り当て先を検索する。
「それで、何処の大学に向かえば? 東大? 東工大?」
「――あぁ、それなんだが」朝霞は意外な結果に、僅かに言葉を失っていた。「中学だ。城西方面の、中学」
「中学校?」声を裏返しながらも、佐野は城西方面へと進路を向けた。「なんでまた中学校なんて――」
「情報担当の教師が、学校の設備を使ってるのかな」
しかしあれだけの技術を持ってる人間が、中学の情報担当教官なんて立場に落ち着いている筈がない。
何か変だ。気に入らない。
十分も経たない間に車は高速を降り、一つの街道から閑静な住宅街へと入り込んでいく。
午後も遅い時間になってきていた。買い物客でごった返している商店街を抜け、子供たちが遊ぶ公園の脇を抜け――そこで佐野は、しまった、というようにハンドルを両手で叩いた。
「夏休みですよ!」
「あぁ――」云われてみれば、そんな時期だ。「夏休みに、学校なんて開いているもんなのか?」
「さぁ。行ってみないことには何とも――」
佐野が車を停めたのは、古びた外見の公立中学だった。ゴミゴミした街並みの中にある三階建ての校舎は、コンクリートは汚れ、校庭は野球が出来そうもないほど狭い。
一車線の路上に面した校門は固く閉じられており、中は部活動が行われている気配もない。ミンミンと蝉が鳴く声以外は静けさに包まれていて、まるでこんな所で希代のクラッカーが活動しているとは思えなかった。
「さて、どうしたもんですかね」
呟きながら校舎を見上げる佐野。朝霞は脇のインターホンを試みに押してみたが、まるで内部からの応答はなかった。
「佐野ならこの状況、どうする?」
尋ねた朝霞に、彼は太い腕を組みながら、僅かに首を傾げる。
「管理人を呼んでる場合でもないし――」そしてふと、視線をグルリと、宙に舞わせる。「電柱、ですね」
「電柱だな」
「それであの太い線は電気、細いのは電話。その電話線の下に付いてるのは――」
「光ファイバーだ」
心得た朝霞は、佐野と共に電線を辿り、光ファイバーの行き先を探る。グルリと校舎を巡って裏手まで来ると、ケーブルは一つの電柱から分岐し、校舎に向かって伸びていく。
塀を隔てた校舎の壁面には細いパイプが埋まっていて、樹脂コーティングされたケーブルは、そこに潜り込んで行っていた。
「あそこです」
「あそこだな」
「それで?」
「何がだ」
佐野はニヤリと笑い、軽く辺りを窺い、コンクリートの壁に手をかけた。朝霞はその片足に手を貸し、彼が這い上がる手助けをしてやる。次いで差し出された手を掴んで朝霞も塀の上によじ登ると、日陰になっている校舎裏へと飛び降りた。
グチャッ、と、足下がぬかるんだ地面に軽く取られた。辺りは苔に覆われていて、暫くは誰も足を踏み入れていない様子が窺える。そして朝霞と佐野が見咎めた光ファイバーの引き込み口付近には、金属製の小さな扉が設えられていた。
軽くノブを回してみると、鍵のかかっている気配はない。だが実際問題として、この奥にはジャンプが潜んでいる可能性が酷く高かった。朝霞は用心深く扉に耳を当て、その特徴的なファンの音を耳にし、奥には何台かのネットワーク機器が設置されていることを把握する。
まるで人の気配はなかったが、安心は出来ない。朝霞は身を屈めつつノブに手を掛けると、静かに回転させ、佐野に目配せしてから、一度に、それでいて音を立てないよう、開け放った。
そして一瞬、中を覗き込み、身を戻す。網膜に焼き付いたのは暗闇の中に点滅する幾つかのLEDだけで、人影はなかったように思う。
同様にして佐野も中を覗き込み、やはり人影を見つけられないと、二人はそれでも足音を殺しながら、身を屈めて扉の中へと入っていった。
そこはコンクリートに覆われた配線室らしく、ひんやりとした空気に包まれている。設えられたラックには電話とネットワークの配線板が同居していて、そのアナログチックな電話配線と共に、見慣れたネットワークケーブルが窺える。
回線会社によって引き込まれた光ケーブルは、ここで信号変換を行われて構内ネットワークと接続されている。まず最初にファイア・ウォール装置があり、その先には経路制御のためのルーターが置かれ、そこからの出力は幾つものパソコンに分配するためのスイッチへと繋がれている。
朝霞は懐からCELLを取り出し、シリアルケーブルでルーターと接続する。目的のアドレスが、学内の何処に割り当てられているかを探るためだ。
「どうです」
外部に繋がる扉を閉じ、マグライトに灯りを灯しながら尋ねる佐野。朝霞は片手で四苦八苦しながらキーを叩きつつ、目的のアドレス宛の通信が何処に向かっているかを探す。
「攻撃はもう、終わってしまったようだな。殆どがデータストリームらしい。壁を突破して、略奪中といった所だ」
「急ぎましょう、まだジャンプは学内にいる」
「急かすな。0次ノードからの通信は――十二番ポート」朝霞はルーターからケーブルを引き抜き、ルーターからの配線を辿り、そこに接続されているスイッチへとケーブルを差し替える。「――ここから、四十番ポート」
最大で四十八本のネットワークケーブルが刺せるスイッチ。その四十番目の口を探ると、そこには赤いケーブルが差し込まれていた。
「――ったく、酷い配線だな」
ケーブルはまるで長さも整えられておらず、ゴチャゴチャとこんがらがっていて、何が何処に向かっているかというタグもつけられていない。佐野に手元を照らさせて苛立ちながらケーブルを辿っていくと、遂に赤いケーブルの終端に辿り着く。
朝霞も佐野も、そこから更に学内の配線に接続され、情報演習室か何かに向かっているものだとばかり思い込んでいた。しかしケーブルの終端には、随分旧式のパソコンが直接、接続されていた。
「――何です? ノートパソコン?」
普通のノートパソコンとは、すこし違った。それは通常のインターフェースとは別に、何らかのケーブルが内部から這い出して来ていて、何か得体の知れない弁当箱サイズのケースに繋がっている。
恐らく、古い性能を補うための外部拡張装置だろうか。それにしては、見慣れないタイプの拡張方法だ。
他には電源、そして赤いネットワークケーブルの他は、何も接続されていない。
「どうやらコイツが、キミの探ってたボットネットの中心らしい」
ジャンプ。
ジャンプか。
朝霞は心中で呟きつつ、溜息を吐いてノートパソコンを置き、無為に配線室の中を見渡す。
「何なんです。どういうことです!」
要領を得ない佐野に、朝霞は再び携帯端末をスイッチに接続しながら云った。
「彼はやはり、生半可なクラッカーじゃない、ってことだ」
「何でです! この端末がボットネットの中心なら、どうして誰もいないんです! まさか攻撃成功を確信して、トイレに行ったとでも云うんですか!」
「馬鹿を云うな。外には足跡はなかった。つまりこのノートパソコンは、更に別の場所からの通信を受けて、ボットネットを制御していたってことだ」
「更に、別の場所、ですって?」
「あぁ。ジャンプは恐らく、こんな所じゃなくクーラーの効いた快適な部屋から、このノートパソコンを遠隔で操っているんだろう」
「クソッ! 根っこを探れば、また別の根っこか?」
ジャンプ。
まさにジャンプだな、と思う。せっかく通信の根っこを探り当てたと思ったら、そこから更に遠くへとジャンプしていく。
だが結局それも、コンピュータ・ネットワークの仕組みを超えることは出来ない。双方向通信である以上、戻り先は、必ず探り当てられる。
そう朝霞が集中して通信ログを調べ始めた時、まるで意識から外していた佐野が、苛立たしげに辺りを見渡し、考え込み。
そして朝霞が慎重に放置したノートパソコンを手に取るのを、見逃していた。
「なら、徹底的に追い込んでやる。コイツを探れば通信元を――」
「おい、止せっ!」
咎める間もなかった。佐野は勢いよくノートパソコンを開き、キーに指を走らせようとしたが――すぐさま硬直し、困惑した瞳を朝霞に向けてくる。
「――何です、これ」
やはり。
溜息を吐きつつ彼の背から画面を覗き込むと、そこには一面に、こんな文字列が表示されていた。
【自爆システム作動まで、あと 22 秒】
「自爆?」
呆然として呟く佐野。朝霞は慌てて彼からノートパソコンを取り戻し、幾つかのリセット操作を試みた。
「佐野! このパソコンに繋がってる箱は何だ!」
「え? さぁ、何かの外部記憶装置なんだとばかり――」
「爆弾って可能性は!」
「――はぁ。まぁ、あり得るでしょうね」
ふと、顔を見合わせる二人。
そこからは上下関係がどうとか云っている場合ではなかった。一目散に外部に繋がる扉に飛びついた朝霞に、背後からはカウントダウンの声が聞こえはじめる。
それがまた、冷徹な機械音ではなく――アニメ調の、明るい女の子の声だった。
『さぁ、あと十秒で爆発しちゃうぞ! 十! 九! 八!』
「佐野! なんでまた鍵なんて閉めた!」
「閉めてませんよ! 貸してください!」
狭い通路で、折り重なるようにして佐野がノブに手を伸ばす。そして彼が何か操作を加えて扉が開くと、二人は転がるようにして、ぬかるんだ苔の上に倒れ込む。
『二! 一! ドッカーン!』
声と共に、反射的に身を伏せる二人。
だが何時まで経っても、爆発音も、髪が炎に焼かれる臭いもしてこない。
それでも数秒、泥の中に身を伏せていたが――そろそろと佐野が顔を上げたのに続いて、朝霞も瞳を、暗闇に沈む扉の中に向けた。
「――何だ?」
呟く佐野。彼の髭は泥に覆われていて、更には緑色の苔まで貼り付いている。
朝霞は大きく溜息を吐き、忌々しい思いで泥だらけになったスーツを改めた。
「減点一だな」
呟いた朝霞に、佐野は舌打ちしながら叫ぶ。
「何です!」
「余程ジャンプってのは。キレるヤツだってことだよ」
「何が! どういう意味です!」
苛立ちながら髭の泥を拭う佐野に、朝霞は何だか次第に楽しくなってきて、笑いながら云っていた。
「自爆? まぁ爆発するのも悪くないが――彼が目的としていたのは、唯一自分に繋がるだろう証拠を抹消することだ」
「そりゃ、そうでしょう。でも爆発してない!」
「爆発しないなら、どうしてカウントダウンする?」
「単なる悪戯とか――じゃなきゃ起爆に失敗したとか?」
「違う。彼は時間を稼ぎたかったのさ」
朝霞は腰を上げ、泥を払い落とそうと無駄な努力をしてから、配線室に戻る。
「ほらな」
朝霞がノートパソコンを指し示すと、そこには見慣れた表示がされていた。
Operating System not found.
パソコンが完全に初期化されていることを示す、表示だ。
それで佐野も悟ったらしい。
「あぁ、クソッ!」
叫びながら踵を返し、金属製の扉を蹴る。
「ま、そういうことだ。パソコンの初期化には、幾ら手を尽くしても数十秒はかかる。その間に電源を落とされたら、ある程度の記録は復元されてしまう。それを防ぐために、彼は自爆を装って――時間を稼ごうとしたんだろうな」
まったく、たいしたヤツだ。
クラッカーというのはコンピュータ・ネットワーク技術にのめりこむ余り、現実世界の無限の自由度、そして人という酷く可塑性の高い存在に関わるのが面倒になってしまう。
だが、ジャンプはその弱点を見事に克服し――現実世界を最大限活用することにより、自らの正体を完全に覆い隠してみせた。そして恐らく朝霞と佐野がこのトラップを見事潜り抜けていたとしても、第二、第三のトラップが、二人を待ち受けていたに違いない。
しかし、このボットネットの中心であったパソコンが完全に初期化されてしまった今、二人には最早、彼の通信元を探る手は残っていなかった。
「だが、これで彼のボットネットを崩壊させたのには違いない。最後の最後で失策はあったが、まぁ、半分はキミの手柄だよ」
そう声を掛けた朝霞に、佐野はまるで親友を戦場で失ったかのように――大声で叫び声を上げていた。
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