第24話

 警察に追われた。完全に姿を見られた。


 それは瑠璃子を動揺させるのに、十分な出来事だった。何とか逃げ切ったのはいいものの、いつ、その角から警官の集団が現れ、抑え込まれるんじゃないかと思うと――まるで落ち着いて考えることも出来ない。


 それでも辛うじて羽場との合流を果たすと、云われるがままに変装用の眼鏡とニット帽、それに安いスタジアム・ジャンパーをコンビニのゴミ箱に突っ込み、目に付いたネット喫茶に入って一息つく。


「いやぁ、もう、どうしよう! 警察に追いかけられたのなんて、ボク初めて!」


 興奮に促されるよう、顔を真っ赤にしてベラベラと喋る羽場。瑠璃子は吐き気がしてそれどころじゃなかったが、とにかく彼の傷ついた手の平に向かって、ドラッグストアで買ってきた諸々を広げる。


「でも見せたかったなルリちゃんに! ボク、もの凄い逃げ方したんだから! ほら、電線でさ、ビューって百メートルくらい滑り降りて、そんで――」


「それで大事な武器を壊してちゃ、世話ないじゃない」とても瑠璃子に医学の知識は皆無だったが、彼の手は酷く腫れ上がっていて、震えが止まらず、とてもこれでキーボードを操る事なんて不可能だろう。「曲げられる? 折れてない?」


「う、うん。折れてはいないし、でも――痛い! 痛いってば!」


「我慢して!」


 適当に消毒剤を吹きかけて、ガーゼで血を拭い、ソフトボールをやっていた時に学んだテーピングを撒く要領で、グルグルと包帯を巻き付けていく。そしてようやくそれらしく仕上がると、毛糸の手袋を被せて包帯を隠す。


「それにしても、どうしよう」と、大きく溜息を吐きつつ、瑠璃子は項垂れた。「変装してたから、殆ど顔は見られてないと思うけど――」


「大丈夫だよ。ボク、アキバの監視カメラの位置はだいたい知ってるし。それ避けて逃げたから、まず平気なはず」


「ホント? でも、なんであそこに警察が? 警察だよね、あれ?」


「うん。CNUって云ってた」そこで羽場は身じろぎし、鞄から何かを取り出そうとする。「ルリちゃん、ゴメン、取って?」


「何を?」彼が指し示したのは、ちょっと見たことがないタイプのCELLだった。「これは?」


「逃げるときに、CNUのヤツから盗んできた。なかなかやるでしょ? ORDERSじゃ、こうは行かないんだけれども――」


 まるで呆れて物も云えない。そう口を開け放ってる瑠璃子に、彼はニヤリとして見せてから促した。


「ちょっと代わりにやってくんない? 中を調べて、連中が何を何処まで掴んでるか探り出す」


「でも――」瑠璃子は自らの携帯端末、それに接続用のケーブルを取り出しながらも、普通のCELLと比べて比較的重くて頑丈な作りになっているCELLを眺めた。「こんなの、盗んできて大丈夫なの? ホラ、清水クンの時みたく、電波で位置を逆探知されちゃうんじゃあ――」


「大丈夫。盗んですぐに電源切っちゃったし」


「でも電源入れないと調べられないじゃん」


「だからルリちゃんにアルミホイルを買ってきてもらった」


 そういえば何に使うのかさっぱりわからなかったが、包帯と一緒に頼まれて手に入れていた。


「これを? 何に使うの?」


「アルミホイルってさ、独り暮らしだとあんま使うケースって逆にないんだよね。だって電子レンジ入れたら危ないんだもん。だから銀行の口座作った時にもらったりとかするんだけど、実際使い道とか全然ない。代わりにビニールのラップの方。アレって凄いと思わない? 最近のはかなり特殊な素材になっててさ、かなりの熱にも耐えるし気密性も凄いし信じらんないよね? だって見かけ、ただのビニールだよ? 普通ライターとかであぶっちゃうとすぐドロドロに溶けちゃうようなヤツがさ、最新の化学技術を使うとあんな強靱な物に――」


 スイッチが入った羽場に口を尖らせながら人差し指を立てると、彼は軽く両手を掲げてからアルミホイルを指し示した。


「オッケー。ゴメン。アルミホイルって金属だよね。それで携帯の電波って、金属には吸収されたり跳ね返されたりし易い」


「巻けばいいのね?」


 最初っから、そう云えばいい。


 瑠璃子はアルミホイルを引っ張り出して、云われた通り一度クシャクシャにし、そこから何重にも警察仕様のCELLに巻き付ける。そうしてしまうとCELLのディスプレイも確認しようがなかったので、予め瑠璃子の携帯端末と接続しておいたケーブル経由で、全ての状態を確かめて行く。


「ホントだ、ちゃんとアンテナ圏外になってる」


「でしょ? 生活の知恵。ルリちゃんも居留守使いたいときとか用にアルミホイル持ち歩いたら? あ、でもボク相手にそんなこと――」


「持ち主は朝霞さん、って云うみたい。盗んだのって、あのダンディーな感じの刑事さんから?」


「ルリちゃん、ダンディーって言葉の使い方を間違ってるよ。あぁいうのは【草臥れたオッサン】って云うの。ダンディーってのはボクみたいな知性溢れる男のことよ?」


 とにかく羽場に云われるままコマンドを発行し、中に蓄えられている捜査資料らしきデータを確認する。


「うーん、どうもCNU,G2ボットネットを盗聴してたみたいね」どうやら、そういうことらしい。思い起こせば、8pを探っていたとき、何度かG2の通信が不調に陥っていた。「それで何個か単語拾われて、私たちがラグランジュを追ってるって突き止めた」


「――参ったね。ヤツら、相当本気だな」


「それは、ジャンプ相手なら――」


「そうじゃない。ヤツらはG2を盗聴するのに、G2ウィルスに感染してるパソコンを狙い撃ちにして感染する、別のウィルスをばらまいてたみたい。でもそれって違法な捜査だよ」


「――そうなの?」


「あぁ。どんな理由があったって、知らない人のパソコンに勝手に感染する類のウィルスって。全部違法なんだ。だってそうでしょ? 幾らクラッカーを捕まえるためにだって、無関係の人の通信まで盗聴していいはずがないよ。でも変だなぁ。なんでそこまでして、ボクを追うかなぁ」


「何でって。羽場ちゃん、それだけのこと、してるじゃない」


「程度の問題だけどさ。警察とか諜報組織がそこまでやるのって、普通、テロリストとか敵性国家を相手にする時くらいだよ。とてもジャンプが、それほど憎まれなきゃならないようなヤツだとは。思えないよ。なんでこんなことになるかなぁ。変だよこれって」


 意気消沈したように呟く羽場。


「――ここが、限界じゃない?」


 そう、瑠璃子は云おうとして――それってとても受け入れられないだろうな、と思って、言葉を飲み込む。代わりに口にしたのは、より前向きな台詞だった。


「じゃあ、急がないと」困ったように表情を歪める羽場に、瑠璃子は身を寄せる。「今ならまだ、敵の先手も打てるかも。残り二カ所でしょ? 相手はそこまで絞り込めてないみたいだし、なら今すぐ動けば――」


「でもさ。ヤバイよ。これ以上ルリちゃんを危険に曝すワケには――」


「その手で、どうやってパソコン弄ろうって?」深い溜息と共に、両手を見下ろす羽場。「でしょ?」


 彼は暫く、そうしていたが――ふと諦めたように顔を上げ、例の皮肉っぽいような、子供っぽいような笑みを浮かべた。


「それもやっぱり、無償の愛じゃない?」


「違うし。しつこいし」


 残り二つの内の一つ。それは赤坂にある一軒家に存在しているはずだった。


 とりあえず警察のCELLは、下手に持ってるとどんな探知方法をされるか、わかったものじゃない。だから二人はそれを適当な物陰に捨ててしまって、地下鉄の駅へと降りていく。


 日曜の夜というのもあって、繁華街は多少閑散としていた。しかし酔っぱらいの集団や客引き連中を避けて裏通りへ入っていくと、次第に高級な料亭や古びた民家が現れ始め、三味線だか吟遊だかの声まで響いてくる。更に車が一台通るのがやっとという道へと足を踏み入れていくと、途端に街灯が暗くなり、様々な音が遠ざかっていき、三階建てほどの高価そうな一軒家が、都心では考えられないような敷地に散在している。


 如何にも高級そうな、黒い国産車が路駐されている。しかし目的の住所の近くには場違いな白いセダンが停められていて、羽場と瑠璃子は電柱の影から様子を窺う。


「――CNUかな」


「そんな感じ。ちょっと様子を見よう」


 動きのないまま、数分。ふと車から一人の男が現れて、目前の家へと向かう。彼は寒さに肩を震わせながらインターホンを押したが、応答はなかったらしい。大きく溜息を吐きながら車へと戻り、姿を消す。


「やっぱCNUみたいね。中、誰も居ない?」


「みたいだ。これってチャンスかも。ルリちゃん、端末で電波のサーチして」


 云われた通り瑠璃子は携帯端末を取り出し、周囲に行き交っている電波を探る。


「えっと、それで?」


「ちょっとその、下の方――そう、で、そこで右側のアイコンを――違う、それじゃないって!」


「いちいち怒んないでよ! こっちは素人なのよ?」


 まるで二人羽織のようなもどかしさを感じつつ調べて行くと、電波の殆どが辺りの家の中に設置されている家庭用無線アクセスポイントから発せられているものだったが、一つだけ、自らのIDを隠匿しつつ電波を発している端末が見つかる。


「ソイツだ。多分、車に乗ってる刑事の端末だ」


 更に瑠璃子は操作を加え、端末の状態を確認していく。


「さっきの――羽場ちゃんが盗んだCELLと同じ機種みたいね。ちょっと特殊な仕様になってる」


「そうだね。CNU仕様の特殊CELLってヤツだ」


「端末のIDくらいしか掴めないや。どうすればいい? 侵入するにしても穴を見つけないことには――」


「穴なんて要らないね」


 羽場は自らの携帯端末を取り出し、アンテナのような棒の付いた拡張インターフェースを取り付け、痛みに顔を歪めながらぎこちない操作を加える。


「何かするなら、私がやるって」


「ルリちゃんの端末じゃ無理。ボクの端末はハードウェアにも手を入れててね、150MHz帯の電波を扱えるようになってる」


「150MHz? 普通パソコンの無線って、2.4GHzとか5GHz帯を使ってるんじゃなかったっけ」


「そ。でもね、警察無線は150MHz帯。コイツのデコードすんの、もの凄い大変だったんだから。ちょっとその端末のID、こっちにくれる?」そして彼は軽く咳払いすると、胸を張って低い声を無理矢理押し出した。「あっあー。私だ、朝霞だ。応答せよ」


 全然刑事っぽくないし。


 そう瑠璃子は口を尖らせていたが、リアガラスの向こうに沈んでいた刑事は慌てて身を起こし、懐からCELLを取り出したようだった。


「あっ。はい、何でしょう」


 若干、慌てた風の刑事。羽場は殊更に声のトーンを低くし、何とか朝霞のそれに近づけようとする。


「ちょっと緊急事態だ。至急本部に戻ってくれ」


「はぁ。でも――本部? って? 何処です?」


「い、いいからさっさと戻ってこい! ケツを蹴っ飛ばされたいか!」


 多少違和感はあったらしいが、何とか押し通せたようだった。了解、と彼が応じると、間もなく車のエンジンがかかり、ゆるゆると離れていく。


「よし、これで邪魔者は追い払った」


 満足そうに端末を仕舞う羽場に、瑠璃子は溜息を吐く。


「どっちが三文芝居よ」


「騙せれば何だってオッケーじゃん? 結果オーライだよ」そして何故か酷く感動したように、まるで少女のように腰をクネクネさせた。「一度云ってみたかったんだよね! 【ケツを蹴っ飛ばされたいか!】ってさ! 刑事物やミリタリー映画じゃ定番じゃん? 格好よかった?」


「いいから時間ないよ? どうせ、すぐバレるって」


「【サー・イエッサー!】」


 ビシッ、と敬礼する羽場のケツを軽く蹴って、瑠璃子は問題の家の前に進み出る。


 目的の家は、三階建て。一階がガレージと玄関で占められてるタイプだったが、ガレージは空で、灯りも全て消えている。


 彼が騙されたことに気付いて、サイレンを鳴らしながら戻ってくるのに。どれくらいだろう?


 とにかく時間が限られているのは確かだった。二人は植木の影に身を潜め、すぐ目の前にある玄関を眺める。


「カードタイプの電子錠だ」


「さっさと開けてよ。普通の鍵より得意でしょ?」


「え? 無茶云わないでよ! 時間があれば、一度こういうのもクラックしてみたいんだけど――」


「出来ないの? 映画じゃみんな、やってるじゃん!」


「ボクはインドア派なんだよ! だいたいそう簡単に云うけど、今採用されてる電子錠ってかなりセキュリティー的に強固でさ、だってそうでしょ? 家の鍵なんて財産を守るための最初の壁なんだからさ、そう簡単に突破出来るなら、じゃあ普通の鍵の方がいいって話になるに決まってるじゃん! だからそりゃあ世界中のエリートが何年って検証して穴がないように作り上げてるに違いないし、それでも一昔前ならローカルな仕組みだったから回避のしようもあったけど、今はネットに繋がってて認証情報なんかは全部セキュリティー会社のサーバ上とかに置いてあって、ちゃんと公開鍵暗号が実装されてたりするからかなり厳しいんだって! そういうのを突破するにはやっぱりソーシャルな方法を使わないと――」


 ベラベラと小声で抗弁し続ける羽場は放置し、瑠璃子は隣の家との、ギリギリ人一人入れる程度の僅かな隙間を覗き込む。


「そこ、破れば入れそうだよ」


 辛うじて小柄な二人なら身を入れられそうな、足下の小さな窓を発見する。


「えっ? 破るの? それって泥棒じゃん?」


「何を今更――」


「だってボク、ちゃんと鍵を手に入れたり用意周到な方法でしか侵入ってしたことないし、だいたいそういう野蛮なことってボクのポリシーに反する――」


 云ってる間に、瑠璃子は音を誤魔化すためにマフラーを被せ、蹴る。


「クソッ! 壊れろっ!」


 数度目の蹴りにしてようやく、ガラスは鈍い音を伴って蹴破られた。


「ルリちゃんおっかない。普段から泥棒でもやってるの?」


「ジャンプに云われたくないし」


 僅かに身を潜めて誰にも気付かれていないことを確認してから、狭い隙間で無理矢理身を捩り、猫のようにして室内に入り込む。


 どうやらそこは、廊下の明かり取り用の窓だったらしい。瑠璃子は何の用意もしていなかったが、一度中に入ってしまえば、そこからは羽場も経験豊富だ。彼は鞄からマグライトを取り出し、足音を忍ばせながら奥へと進む。


 この手の建屋は、二階に広いリビング、三階に数部屋の個室と相場が決まっている。予想通り二階には二十畳以上はありそうな、簡素だが洒落たリビングが広がっていて、パソコンの類はまるで見受けられない。


 三階へ。扉は三つあり、それぞれを慎重に開いて中を確認していき、完全に無人らしいことがわかる。


「ふぅ。大丈夫。これはボクらの城だ」


 大きく息を吐きながら云う羽場。


「子供が――8pのファンなのかな」そう、瑠璃子はポスターやグッズで溢れかえっているピンク色の部屋を覗く。「ちょっと凄いんですけど。いろんな限定版とかレアもののグッズが沢山――」


「女子って好きだよねそういうの。ボクってそういうの、全然理解できない。生写真やグッズを沢山持ってたからって、生身が好意を寄せてくれるとでも思ってるのかな?」ハッ、と鼻で笑ってため息を吐く。「完全にATMになってるだけだよね。ボクはそんな女の子、幾ら可愛くてもお断りー」


「男子だって似たようなことしてんじゃん! アイドルの生写真やら握手券やら――」いやいや、そんなこと云ってる場合じゃない。「でも、パソコンの類が全然ないんだけど――」そう、瑠璃子は携帯端末のディスプレイを灯り代わりにして、まるで新築同然に整っている部屋を確かめて行く。「どの部屋にも、情報機器はテレビやタブレットくらいしか――ラグランジュは、何処?」


 先に立って階段を降りていく羽場。瑠璃子も慌ててその後を付いていくと、彼は侵入口を通り過ぎて玄関まで行き、上部にある配電盤を背伸びして確かめる。


「まだ、部屋がある」そう、彼はブレーカーに付けられたパネルを照らし上げた。「見て。40Aのブレーカーがある。今まで見た部屋に、そんな電気を使う機器なんてなかった」


「電気って、良くわかんないんだけど。40Aって、どれくらい?」


「パソコン二十台分くらい」それは大変な電気だ。「地下か?」


 彼はマグライトで隅々まで確認しつつ、一階を探っていく。


 一階には、トイレと、六畳間が二つ。その双方とも半ば物置として使用されているようだったが、片方は何か、不自然に部屋の中央付近が空けられていた。


 しゃがみ込み、フローリングの床を探る。するとそこには一メートル四方の切り込みがあって、パカンと開きそうな感じがする。


「どうやって開ける?」羽場は立ち上がって、様々な家具や段ボールが積み上げられた周囲を窺う。「家主のCELLじゃないと開かない仕組みとかもあるからな。そうなると凄い辛いけど――」


「取っ手がないってことは、何かしら機械で動くのよね?」


 と、座り込んだまま何と云うことはなく床に手を滑らせていた瑠璃子は、入り口らしい切り込みとはまた別の、小さな四角い溝を発見した。


 試みに、押してみる。


 するとその部分はパカンと開いて、まるで電卓のような数字の並んだパネルが現れた。


 無言のまま歩み寄って来て、パネルをマグライトで照らし上げる羽場。


「クソッ、何者だよ、ここまでするなんて」彼はぎこちなく端末を操作し、インフィニタスから盗んできた所有者リストを表示させる。「猪川雅臣。臭いよ。臭すぎるよコイツ」


「で? これ、暗証番号よね? どうするの?」


「どうって――」彼は困惑しながらパネルの脇にしゃがみ込み、その四隅に指を走らせて造作を確かめる。「随分作りはしっかりしてる。きっと建てる時から考えてたんだろう。ボクも家を建てられるくらいお金持ちになったら、こんな地下室欲しいな。そしたら見つかったら恥ずかしいようなのは全部この中にぶち込んで、ヤバイとなったら自爆して全部埋まっちゃうような――」


「いいから。さっさと番号探り出してよ。じゃなきゃ誕生日とか、電話番号とか入れてみるとか――インフィニタスのリストに、その手の情報は入ってたでしょ?」


 呆れて云った瑠璃子に、羽場は軽く頭を振って、鞄からドライバーを取り出す。


「コイツが、そんなベタなセキュリティー・ホールを作り出すはずがない」


 彼は躊躇なくドライバーをパネルの隙間に突っ込むと、力を込め、バキンとそのカバーを取り外す。


 中に覗いたのは電子工作で見るような配線と基盤で、彼はそれを指先で辿り、幾つかの線を指し示した。


「これ。ニッパー。クラッカー七つ道具に入れるの忘れてたけど必須よ?」と、小振りなニッパーを瑠璃子に手渡す。「そことそこ、切って」


「ハッカーっぽくない。ちゃんと端末繋いで、番号探り出そうよ」


 云われた通りにしながら呟いた瑠璃子に、羽場はニヤリと笑って見せた。


「ルリちゃん、次は電気工事士の資格取ろうよ。二種でいいからさ。色々と役に立つよ? じゃあ、今度はそっちの赤と黄色を切って、短絡させて?」


 瑠璃子は別に探り出したケーブルを、恐る恐る接触させる。


 ガチン、と音がして、瑠璃子は慌てて床から立ち上がる。


「開けゴマー」


 羽場は満足そうに呟いて、両腕を掲げて見せた。瑠璃子は早速浮き上がった床に手を掛け、押し広げる。


 中には、暗闇が広がっていた。しかし同時に、瑠璃子や羽場には酷く馴染みのある音、馴染みのある臭いが沸き上がってきて、ふと、顔を見合わせる。


 幾つものファンが高速で回る音、それに酷く乾燥した空気に、埃が焼き付くような臭い。


 地下室の割に、階段は比較的緩やかだった。恐らくコンピュータ機器を出し入れするためだろう。その軽く湾曲を描く階段を一歩一歩下っていくと、遂に――緑や、青や、赤といったLEDが、忙しなく点滅する光が見えてくる。


 壁際のスイッチを探り当て、パチンと入れると――目の前には、まるで羽場のコンソールなんか及びも付かない、酷く高性能っぽい操作卓が現れた。


 広々とした机。アームで自在に稼働する八面のディスプレイ。酷く高価で有名な、ハッカー用キーボード、マウス。


 そして甲高いファンの音に振り返ると、そこにはとても個人では大げさすぎる、コンピュータ機器用のラックが三本も林立していた。中に納められているのは、瑠璃子は写真でしか見たことのない業務用のサーバ機器というヤツだろう。軽く見ただけでも数百万は下らない装置群で、それは羽場の口すらも黙らせる程だった。


「――凄い。何? この人、プロ?」瑠璃子は当惑しつつ、八畳ほどの広さのある地下室を眺める。「ドラゴン・マスター? プロのクラッカーって、個人でこんな凄い装置を揃えてるもんなの?」未だに口を開け放っている羽場の脇を突く。「ちょっと、何か云ってよ!」


「あ、あぁ、いや」我に返ったように、頭を振る。「それで――ラグランジュは何処だ?」


 それは机の上に、無造作に置かれていた。


 白磁色の筐体、独特な丸みを帯びた外観。羽場は早速それに取り付いたが、ふと両手を掲げると、渋々といった具合で瑠璃子に椅子を譲る。


 この部屋の主は、誰かに侵入されることなんて考えてもみなかったのだろう。ラグランジュにはロックらしいロックはかかっておらず、簡単に中に入り込んでしまえた。


「――間違いない。シリアル番号0568」かなり打ち心地のいいキーボードに、指を走らせる瑠璃子。「ドラゴン・レディーは――」そして、羽場を振り向いた。「あった。やっぱりコイツ、ドラゴン・マスターだよ」


 表情を虚ろにし、唇を噛みしめ――背を向ける羽場。


 彼は小刻みに肩を震わせ、頭を振り、そして無為に、周囲に積み上げられたコンピュータ機材の空き箱を荒らし始めた。


 それは、複雑だろうな、と思う。


 彼が二年もかけて、追って来たクラッカー。


 大切なお姉さんの、敵。


 その本体に辿り着いたのはいいが、当の本人は、幸か不幸か、不在ときている。


 彼としては、怒りの向け先を探しているといった所だろう。大きな空き箱を投げ捨て、蹴り倒し、積み上げられた古い機材をガラガラと崩す。


「――羽場ちゃん、どうする?」瑠璃子はラグランジュからメイン・コンソールに指を移し、記憶装置の中身を調べる。「あ、これ、ヤツが今までに盗んだデータっぽいよ。コマンド一発で、簡単に消去できちゃう」


「ないっ! 何処だ! 何処にあるっ!」


 彼は遂に怒声を上げ、別のガラクタの山に向かっていた。古いスイッチを投げ捨て、パーツが取り去られたパソコンの残骸を転がし――


「だから。羽場ちゃん、きっとこの中に。全部あるよ」


「何の話さ! ボクはそんなデータなんて、全然興味ない!」


「――まさかデータ以外にも、何か証拠を盗まれてたの?」


「証拠? 何の!」


 彼は友を亡くして錯乱する兵士のように、終には大きく積み上げられていたガラクタの山を、根こそぎ倒す。


 ガラガラと酷い音を立てて、かなりの振動を伴って崩れていく、段ボールや鉄の塊や電子基板やら――


 と、そこで不意に彼は身体を硬直させると、一番奥底にあった青い箱に飛びついていた。


「――あった! あったぞ! 絶対あると思ってた!」


 歓喜の叫び声を上げる羽場。


 瑠璃子はイマイチ状況がわからず、そろそろと立ち上がって彼の元へと向かう。


「あったって――何が?」


 瑠璃子が怪訝に尋ねた時、酷く巨大な音が頭上で響き、思わず身を縮めつつ見上げる。


「ひぃっ!」


 青い箱を両腕で抱きながら、酷く情けない叫び声を上げる羽場。


 彼が、散々部屋を引っかき回した所為だろう。


 開け放っていたはずの地下に通じる扉は、元通り、堅く閉じてしまっていた。

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