第28話

夕方五時に仕事が終わる。

引っ越してからは伊織さんも通勤路が変わり、あの公園の近くを通る事が無くなった。

それにきっともう、行く必要も無いのだろう。


ガチャリと、鍵の開く音がした。

彼が「ただいま」と言う前に、待ってましたとばかりに「お帰りなさい」と出迎える。


「そんなに楽しみだったの?」


笑われて、確かに子供だな、と少し恥ずかしくなったけれど、嬉しいのだから仕方が無い。

あれから一年経ち、今日は夏祭りの最終日だ。

約束した通り、今年は神社で花火を見ようと二人で決めていた。


「着替えて来るから、ちょっと待ってな」


「はい」


僕の髪を掻き回し、伊織さんが自室に消える。

お祭りに行くのは初めてだった。

小さい頃、手を繋いでヨーヨー片手に楽しそうにしている親子だとか、浴衣姿で集まって皆で出掛けて行く同年代の子供達と擦れ違う度に、どんな所なのだろうかと想像し、自分とは縁が無い物なのだろうと思っていた。


「お待たせ、行こうか」


普段の服に着替えた伊織さんに、大きく頷いた。

外は蒸し暑く、時折吹く風が気持ち良い。

神社が近くなると、提灯の数が増えて辺りが明るくなってくる。

からんころんというげたの音に、人々の楽しげな喧騒が迫ってくる。

広いとは言えない参道の両端に屋台がひしめき合い、近所にこんなに人が居たんだな、と思うくらい多くの人で溢れ返っていた。


「何か食べたいものある?」


あまりの人の熱気に面食らっていたが、伊織さんは慣れたように人混みを掻き分けて僕を先導していく。

どんな屋台があるのかも解らないので辺りをきょろきょろしていると、伊織さんを見失いそうになって、慌てて彼の手首を掴んだ。


「びっくりした。悪い、歩くの速かった?」


「あ、その。人混み慣れてなくて。すみません」


「あー、そうだよな。そうだった。ああ、あそこ。人少ない」


手を握り返され、引っ張られる。

屋台で使う備品のようなものがまとめて置かれたそこには隠れたようにベンチがあり、二人で腰をおろした。周りを木々で囲まれていて、参道の騒がしさが少し遠くに感じる。


「伊織さん、慣れてますね」


「まあ、この歳になればな」


長い脚を投げ出して、伊織さんがぼんやりと人の流れを眺めている。

互いに手を繋いだまま、手の平はじんわりと汗をかいてきた。


「伊織さん、あの、手」


「嫌なの?」


「違います」


「じゃあ繋いでて」


「お祭り、誰と行ったんですか?」


「えー、家族とか、友達だった人とか、あと彼女とも来たな」


「楽しかったですか?」


「別に。あんまり記憶に無い」


「手を繋いで?」


「何、対抗してんの?」


「あ、対抗というか、その」


「嫉妬か」


情けなくて俯く。

僕の初めては伊織さんばかりだけど、伊織さんの初めてが僕じゃないのなんて当たり前だ。

赤くなった顔を見られたくないのに、彼は下から覗き込むようにしてくる。


「馬鹿だな、旭。本当、可愛いな」


「からかわないで下さい」


「からかってない。これまで関わってきた人の事なんてどうでも良いだろ」


「そう、ですよね」


言いながら、心の中では『これっぽっちも良くない』と反論する。

気になってしまう。なんて自分は心が狭いのだろう。


「ほら、こっち向いて」


促され、仕方なく顔を上げる。

口端を上げて笑っている伊織さんは僕の目を見つめながらもう一度「どうでも良い」と言った。

繋いだ手が熱い。

背中にじわりと汗が滲み、さっきまで心地良かった風も生温く感じる。

時々鋭くなる彼の瞳に、恐ろしさを感じる事があった。

小学生の時も、思わせ振りに触れて来る時も、身体を繋げている時も、この瞳になる事があった。

恐い。けれど決して嫌では無い。逃げ出したくはならない。

むしろ見つめられると気持ちが良くて、動けなくなる。

キスがしたくなって顔を近付けたが、ここは外だったと思い出して慌てて身体を離した。


「しないの?」


伊織さんがにやにやしている。


「い、家までとっておきます」


「楽しみにしてる」


「もう落ち着いたので、行きましょう」


誤魔化すようにベンチから腰を上げ、繋いでいた手も離した。


「そうだな。今度はゆっくり歩くようにするよ」


ざわめきに慣れたのか、参道に出ても先程よりかは戸惑わずに人混みを歩く事が出来た。

焼きそば、あんず飴、金魚すくい、射的、屋台は眺めているだけでも楽しく、飽きる事が無い。

噛み切れない牛肉の串焼きをもごもご食べていると、隣で伊織さんが「そろそろだな」と言った。


空気を切り裂くような音がし、夜空を見上げるとパアンッときらめきが花開く。

周りの人たちも脚を止め、上向いた顔がカラフルに彩られる。

去年部屋で見ていたより、音も迫力も段違いで、ほんのりと熱さまで伝わってくる程だった。

一瞬息が詰まる。なんで周りにこんなに人が居るんだろう。

僕は伊織さんに抱き締めてもらいたかった。

綺麗な情景は見惚れている内にまたあっという間に終わり、人々が感嘆の溜め息を零しながら歩き出す。


「近くで見るとやっぱり違うなあ。さ、帰るか」


「はい」


人の流れに乗るように歩を進め、鳥居をくぐると人々は思い思いの方向へ帰って行く。

神社から家までの帰り道にはもうしばらく立ち寄っていないあの公園があった。

出会ったベンチに脚を進めると、伊織さんは何も言わず後ろからついて来てくれる。

公園に人影は無く、電球の切れかけた灯りがぼんやり光りながら虫を集めていた。

ベンチは、ペンキが塗り直されたのか少し綺麗になっている。

二つ並んだ右側に座ると、伊織さんは左側に座った。

ここから毎日、住む世界が違う人間の事を眺めていたのだ。

向こう側には多分幸せがあって、僕には想像する事も出来なかった。


出来なかったのに、伊織さんが僕を呼んでくれたから幸せが何か解ってしまった。

解ってしまったから、もっと欲しくなってどんどん欲張りになる。

それさえも許してくれるから、少しで良かったはずなのに、もうあなたの全部が欲しくなってしまった。


押し入れの狭い世界が拡がっていく。


隣に視線を向けると、花火の夜空よりも綺麗な彼の瞳に見つめられた。


「そっち、行って良い?」


頷くと、伊織さんは笑いながら僕の肩に触れ合う位置に腰を下ろした。


「伊織さん」


「ん?」


「ありがとうございます」


「なにが」


「僕に、声を掛けてくれて」


「お前、俺の話聞いた後でもそんな事言うんだな」


「あんなに人が居る中で、僕を選んでくれたから、それだけで嬉しいんです」


伊織さんの肩に頭を預けると、優しく髪を撫でられた。

帰る場所が有る。話を訊いてくれる人がいる。

愛する人がいる。愛してくれる人がいる。

殴られて辛かった。独りは苦しかった。それは当たり前になってしまっていた。

助けて、と言ったのがあなたで良かった。

助けてくれたのが伊織さんで良かった。


「泣き虫旭、好きだよ」


彼が僕の顎をとり、口付ける。


「ここ外ですよ」


「何事も、バレなきゃ良いんだ。誰もいないだろ。さっきお預けくらったお前からのキス、楽しみにしてるよ」


口端を上げた伊織さんは、悪い顔をしていた。


「帰ろう、旭」


まるで水面のように、視界に映る伊織さんの横顔が滲んでいる。

彼の腕が伸び、親指で優しく目尻を拭われた。

帰ろう。自分が居ても良い場所へ。

帰ろう。あなたが呼んでくれるから。

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溺れる 杉村衣水 @sugi_mura

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