第12話

わがままを言うと、私に嫌われるとでも思っているのだろうか。

出会って半年以上経ったというのに、いまだに旭は自分の気持ちをあまり口にしない。

それが私にしてみればどんな些末な事であっても、私からすればわがままではない事でもだ。


「今日昼ご飯なににする? 食いたいものある?」


お互いに休みの土曜日、部屋の掃除を終えて一息吐いた所でそう訊けばいつも通り「伊織さんは何が食べたいですか?」と尋ね返された。


「私は、旭がどうなのか訊いてるんだよ」


出来る限りの優しい声音を出す。

しかし彼は困ったような顔をして、居心地が悪そうにソファの上で身体を縮こませた。

この子供の中にはまだあの母親が居座っている。

家庭は世界に等しく、親は神に等しい。

薄暗い狭い世界しか知らずに神に見放された人間は、新しい世界を手に入れても動けなくなる。

私はあの女とは違うのだという事を解らせなければ。


隣に座り、肩を寄せる。

じんわりと熱が伝わってくる。


「旭はどうしたいの」


「僕は」


「うん」


先を促すが彼は黙り込んでしまった。

膝の上で握った拳は丸く小さく頼りない。


「私は、いつも旭がどうしたいか訊きたいと思ってるよ」


旭が私を見上げる。

何か口にしたそうな表情をして、それでも言葉にするのをためらっている。


人間は自分たちが思うより動物的だ。

心地良い言葉を口にした所で、態度で表せなければ信用しては貰えない。

目や口唇、指先の些細な動きまで無意識の内に判断材料にされている。


「伊織さんは、どうして僕を助けてくれたんですか?」


「旭が、助けてと言ったから」


「だけど、その前から一緒に居てくれましたよね。うちに様子を見に来た大人も、先生も、お父さんも、僕に何かしてくれた人は今までいませんでした」


「……人間は、見て見ぬふりも、ごまかすのも得意だからね。何かに巻き込まれて責任を負って責められる事から出来るだけ逃げたいから、自分の良い様になんでも解釈するんだよ」


旭を助けたというのは語弊がある。

私は私の為の行動しかした事が無い。

大体の人間は、自分の築き上げてきた世界を誰にも邪魔されずに守りたいものだ。


「伊織さんは、逃げたくないんですか」


「私は」


口を開きかけて閉じる。


「旭、私を見て」


自分の拳を見つめたままだった旭が、慎重にこちらを向いた。

黒い睫毛に縁取られた、母親から遺伝したアーモンド型の瞳。


「どうして、逃げなくちゃいけないの」


君の神様は、もうあの馬鹿な母親では無い。

いつ殴られるかも解らない押し入れが君の世界では無い。


「……お母さんは、一回だけ僕に『愛してる』と言ってくれました。でも次の日の夜、また叩かれました。もしかしたら夢だったのかも。だけど、僕はそう言われた事が嬉しくて、ずっと……ずっと覚えてました。伊織さん。愛してるってなんですか」


「『愛してる』」


ああ、また泣くと思った。

潤んだ瞳が瞬くと、小さな頬をすっと涙が流れていった。

指先を伸ばして親指で瞼のふちを拭ってやる。

「すみません」と彼は呟いた。


「お母さんと居た時は、全然泣かなかったのに。伊織さんが、いると」


「良いよ。泣けなかった分、泣いてくれて良いよ」


泣き声が大きくなった。

顔を隠す様に背中を丸め、肩を震わせる。


「なんで俺が居るのにうずくまるの」


彼の髪を掻き上げると、横顔が現れた。

濡れた黒い眼が動き、真っ直ぐにこっちを見る。


「おいで」


旭がためらうのが解る。

一瞬嗚咽が止み、口唇が薄く開いた。


「おいで」


小柄な身体が、おずおずと寄り掛かって来る。

そのまま抱き締めてソファに倒れ込んだ。

自分の全体重をかけてしまったと慌てる旭が逃げようとしたからそのまま放さなかった。

もう数センチそこに彼の瞳がある。

この目に、俺はどんな風に映っているのだろう。


「お、重いから、放してください」


「嫌だ」


旭の丸く形の良い頭を撫でる。

観念したのか、彼は俺の胸に頬を押し付けて息を吐いた。


「心臓の音がする」


「うん」


「伊織さん」


「うん」


「伊織さん」


「なに」


疲れたのか、旭はそのまま眠ってしまったようだった。

少し身体を持ち上げ、顔を寄せて口付ける。

吐きそうだった。

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