第11話

旭は、私にとって都合の良い子供だった。

愛情に不慣れで、孤独で、大人しい。

少し優しさを見せれば、思うより簡単に慕ってきた。


馬鹿な子供だ。

本当の優しさが何かも知らないで、私の事を好きだと言う。

君は“良い子”だ。


朝の情報番組の画面、左上に表示された日付を見て旭の誕生日が近い事を知る。

季節は冬に差し掛かっていた。


「伊織さん見ました? 僕の今日の運勢、一位です!」


にこー、っと笑った旭がランドセルを背負いながらテレビを指差した。


「きっと良い事有るよ」


誕生日。あの古ぼけたアパートから持って来た旭の荷物の中には母子手帳も紛れ込んでいた。

何かお守りのようだと思って保管していたそうだが、怖くて中身は見ていないと旭は言っていた。

色の変わったビニールカバー、表紙には丸っこい文字で母親の名前と子供の名前が記入されている。

パラパラと中を読むと、意外な事に事細かに旭の成長過程が書かれていた。

日々の体重の記録、寝返りをうった日、歯が生えた日、固形物が食べられるようになった日、喋るようになった日。

愛されていたのかも知れない。最初はそうだったのかも知れない。

望まれなかった訳では無いのだ。

旭にこれは必要かと訊くと、中身を知らない彼は「解りません」と曖昧に笑った。


手帳は普段旭が開ける事は無いであろう引き出しにしまった。

別に、捨てても良かったんだけど。


誕生日と言えばケーキとプレゼントだ。

靴を履く小さな背中を眺めながら、この子供は何が欲しいのだろうかと考える。

本人に訊いても絶対にこれと言った具体的な物は口にしないだろう。

そもそも彼に“欲しい”という感情はあるのだろうか。

思えば出会った頃から一度も旭の口から『良いなあ』とか『羨ましい』といった言葉を聞いた事が無い。

無い物ねだりをしない性格。

両手で収まる年数しか生きていない中で、どれ程の事を諦めてきたのだろうか。

現に、明後日が誕生日だというのに何かを期待する素振りも見せなかった。


玄関を開けると冷気がなだれ込んでくる。

「ひゃー」と小さく叫んで旭が肩を竦めた。

細い首筋。マフラーが必要だ、と思った。


誕生日当日、会社の昼休みに行ける範囲の洋服屋と雑貨屋を巡るがなかなかピンとくるものが見つからない。

いつも主張をしないから、彼の好みが全く解らないのだった。

何色が好きで、どんなデザインが嬉しいのだろう。

そこまで考えて、私は旭を喜ばせたいのか、と思った。

途端に言いようの無い奇妙さが這い上がって来て、パッと目に付いた白いマフラーを手に取った。

少し幅が広く、生地も厚いそれをレジに持って行って包装を頼んだ。


以前ショートケーキを買ったケーキ屋で小さなホールを予約している。

仕事帰りに取りに行き、「プレートのお名前と、ろうそくは10本でお間違いないですか?」と笑顔の店員に確認を求められて可笑しくなった。


家の玄関を開けるといつものように迎えてくれる旭。

目の前にしゃがみ、「誕生日おめでとう」とプレゼントを差し出すと、途端に少年の顔は首まで真っ赤になり、泣き出した。


「また泣いてる」


私が笑うと、旭は焦ったように手の平で雑に涙を拭った。


「そんな事したら瞼腫れちゃうだろ」


荷物とケーキを脇に置き、細い手首を掴むと、邪魔が無くなった涙は彼の頬をぼろぼろと流れた。

プレゼントの袋を勝手に開けて中のマフラーを取り出す。

細い首に巻きつけると、幅広のそれは旭の鼻先まですっぽりと覆った。


「あったかい」


擦れた小さな声でそう呟く。


「うん」


「ありがとうございます」


赤い眼を細めて彼が笑った。


「うん」


そのまま旭を抱き締めると、頬に新品の匂いがするマフラーがもふりと当たり、ちょっと邪魔だった。

左手で顔に掛かったマフラーを引き下げる。


「他に欲しい物無いか?」


「ありません」


「なんでも良いのに」


「……ありません」


「そう。旭、あったかいなあ。ケーキもあるけど、先に夕飯にしようか」


身体を離して立ち上がる。

歩き出そうとすると、スーツの裾を引っ張られた。

今までそんな事は無かったので驚いて振り返ると、引っ張った旭自身も驚いたようにパッと手を離した。


「す、すみません!」


マフラーに顔を埋めて俯いたから綺麗なつむじが見える。


「どうした?」


「なんでも、ないです」


「なんでもないの?」


「あの……わからなくて」


無意識だったのだろうか。

また膝を折って目線を合わせる。

顔を上げさせると、旭は困ったような表情をしていて、指先がぞわりとした。


「来年も、プレゼントあげるよ」


肌とマフラーの隙間に手を入れて、首筋を撫でた。

子供の素肌は触り心地が良い。


「その次の年もあげる。何が欲しいか、考えておいて」


旭が頷いた。

ほんの少し、彼の欲が顔を出し始める。

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