第10.5話
これが夢でも構わなかった。
伊織さんが僕を見つめてくれている、この夜空のような黒い瞳を思い出すだけで、押し入れで苦しさをやり過ごす毎日だって、声が出ないくらいの痛みだってなんだって耐えられると思った。
少し外の空気が肌寒くなってきたある日、伊織さんがソファに身体を沈ませながら、開いた通帳をぼんやりと見ていた。
母親もよく通帳を眺めていた事を思い出す。そして嗤って言うのだ。
『あんたがいると金ばっか喰ってしょうがないわ。あんた本当はヤクビョウガミなんじゃない?』
『ねえ、なんであたしの言う事聞かないの』
『なに、そのカオ』
『あーあ、もっとあんたが良い子で産まれてくれば良かったのに』
あの声色まで思い出し、恐ろしくなって、廊下に立ち尽くす。
今湯船で温まって来たばかりなのに、なんだか身体が一気に冷えていく気がした。
気配に気付いたのか伊織さんが僕の方に視線を移し、驚いて目を丸くする。
「うわっ、髪の毛濡れたまんまじゃん。寒くなって来たんだから、ちゃんと乾かさないと風邪ひくぞ」
伊織さんは通帳を座卓の上に放り投げ、僕の手からタオルを取ってそのままわしゃわしゃと髪を掻き混ぜた。
「伊織さん」
「どうした?」
濡れて束になった髪の隙間から、伊織さんの表情を見る。
「あの」
言葉に詰まって続きを言えないでいると、伊織さんが「髪乾かそうか」と立ち上がって僕の背中を押した。
洗面所でドライヤーをかけて貰いながら、鏡越しに目が合う。
自分が今どんな顔をしているのか解らないから、表情を見られたくなくて視線を逸らした。
優しい手つきが気持ち良い。
いつもは自分で乾かしているから、余計にこの指先を嬉しく感じた。
「はい、終わり」
「すみません。ありがとうございます」
目を合わせられないでいると、伊織さんの骨ばった指が僕の顎を捕らえてそのまま真上を向かせられた。
覆いかぶさるようにして後ろから顔を覗き込まれると、伊織さんの髪がちくちくと僕の頬を刺す。
「言いたい事後回しにしてるとタイミング逃して言えなくなるぞ」
「え、あ」
「ちゃんと聴くから、言ってごらん」
「……ごめんなさい」
「何が」
「僕がいるから、お金が掛かって」
伊織さんが瞬く。
数秒してから「ああ」と口にした。
「別に、君が居るからって困らないよ。通帳見てたのは、っふ、ふふ」
途中でストンと腰を落とし、伊織さんは笑い出した。
戸惑っていると、肩を掴まれてくるりと身体の向きを合わせられた。
伊織さんが僕の胸元に寄り掛かる。
「私の口座から君の給食費が引き落とされてるのが、なんか、ウケる」
「う、ウケる?」
「そう。だから、君が謝る必要は無いんだよ。君は悪くないし、自分が悪いんだと思い込む必要も無い」
「でも、僕はヤクビョウガミだって。もっと良い子で産まれてくれば良かったのに、って」
「そいつが言ってるのは、“自分に都合の”良い子だろ。大丈夫だよ」
伊織さんが少し顔を上げる。手が伸びてくる。
優しい親指が、僕の下唇を撫でる。
「旭は悪い子じゃ無いよ」
嫌な思い出たちが押し流される。
伊織さんの夜空のような瞳に、自分の顔が映っているのが見える。
本当に、この人の夜空に包まれてしまいたいと思った。
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