第9話
もう何年も会っていないけれど、騒がしい親戚の子供が嫌いだった。
いや、今でも嫌いだ。
自分中心に世界が回っているかのようにわがままで、ちょっと気に入らない事があるとすぐに泣いて同情を得ようとする。
多分きっと、愛されているから。
多分きっと、何をしても自分を嫌う事の無い人間がいるのだとどこかで解っているから。
多分きっと、必ず心配してくれる人がいるから。
だからそんな事が出来たのだろう。
自分より、この私なんかを気遣い、笑い方さえ下手くそなこの少年はなんなのだろう。
私を好きだと震えながら口にする少年は。
口に出した後、私の反応も見られずに俯くこの少年は。
「旭」
彼の傍に寄り、頑なに下を向く彼の顔を覗き込むように身体を折り曲げる。
目が合った。
長い睫毛が揺れて、ぽたりと涙が落ちた。
私の手は荒れていなかっただろうか。
少しふっくらとしてきた旭の頬に手の平を添えて上を向かせる。
泣いている。
大きな瞳まで零れそうに滲んでいる。
「ごめんなさい」
少年は絞り出すように言った。
「いおりさん、……ごめんなさい」
瞬きをすると、次から次から涙は溢れた。
「謝るなよ。さっき口に出した言葉が勿体無くなっちゃうだろ」
薄い口唇を親指でなぞる。
その動きにそって旭がうっすらと口を開いた。
「さっき、なんて言った? もう一回」
何かを求めるように彼の口唇が動き、声にならない声を吐く。
「旭、もう一回」
往生際が悪い。この子供は濡れた睫毛をぎゅっとさせて私の顔を見ない。
「いお、伊織さん、すき、好き」
「良いね、目え開けて。もう一回。言えるだろ」
触れている頬は熱いなんてもんじゃなかった。
旭は観念したのか、瞼を開け、少しぼんやりとしたまま。
「伊織さん、全部好き」
それでも私の目を見てやっと口にした。
笑えた。全部好きだって。
私の事、何を知っているっていうんだろう。
全部好きだって。
どういう好きなんだ?
解っているんだろうか。
私は、お前を、めちゃくちゃにしてやりたいよ。
めちゃくちゃにしてやりたい。
生白かった手足もそれなりに日に焼けた。
出会った頃の痣はほとんど消えて、少し上手に笑えるようになった。
なんだか視界が少し歪んだ。
口唇に触れていた親指を、口中に滑り込ませる。
柔らかい舌先に触れると、旭は少し身体を縮こませたがまた嫌がらなかった。
彼の舌が動く。動かしているのか、動いてしまうのか、どちらなのだろう。
濡れた指を引き抜く。
そのままその指を私が舐めると、彼は僅かに身を引いた。
「私は悪い大人だから、旭が嫌がるような事もするよ」
旭は逃げなかった。
私を見つめたままだった。
「どうして、僕が嫌がるなんて思うんですか。僕は伊織さんのしてくれる事、全部、うれしいのに」
「本当?」
「本当」
「今ちょっと逃げたろ」
「は、恥ずかしくて」
「それだけ?」
「それだけです……」
小さな顎に手を掛け、くっと上を向かせて無防備になった喉を食む。
旭が緊張に唾を飲み込むのが伝わった。
「お前の事めちゃくちゃにしたい」
「良いですよ」と旭は微笑んだ。
解ってんだろうな。
解ってないんだろうな。
あの馬鹿な母親と私以外、知らないんだもんな。
私以外に、優しくされた事無いんだろうな。
でなければこんな事にはならなかっただろう。
「旭」
「はい」
「旭、うそだよ。嘘。旭の事、大事にしてやりたい」
嘘だよ。めちゃくちゃにしてやりたいよ。
親戚の鬱陶しい子供を思い出す。
バレなきゃ良いと教えた従兄を思い出す。
「旭、俺も、お前が好きだよ」
嘘だよ。君の事。
旭。どうして。
少し構ってやっただけじゃないか。
少し優しくしただけだろう。
「お前の事、どうにかしてやりたい」
狭いバケツの中で溺れていった虫たち。
ばちゃばちゃともがいて水面を波立たせる。
「旭、俺が好きなの?」
自分の視界に映る幼い輪郭がぼやけていく。
数度瞬きをすると、徐々にはっきりとする。
旭は「はい」と、頷いた。
「そう」
小さな身体。その背中に両腕を回して抱き締めた。
俺の身体にすっぽりと埋もれてしまうくらいだった。
「旭、だめだ、おれ。あさひ……旭。どうして」
苦しいと、ぽとりと言葉が落ちた。
何が苦しいのかは自分でも理解出来なかった。
心も感情も思考も身体もばらばらになってしまいそうなのに、この小さく頼りない旭の腕がそれを引き留めている。
「伊織さん、僕は伊織さんが僕にしたいと思う事をされたいです。だめですか?」
「だめだよ」
「どうして」
「どうしてかな」
解らないよ。
何一つ。
深く息を吐いた。
吐いたつもりだったのに、上手くいかなかった。
その夜、あの頃の姿のままの従兄が夢に現れた。
『なにやってんだよ。バレないようにやんなきゃダメって言ったろ』
口元だけで笑って、従兄は『なあ、そうだよな。あいつバカだよなあ』といつのまにかベンチに座っていた子供の前にしゃがみ込んだ。
痣だらけの細い手足。缶コーヒーをちびちび飲んでいる子供は旭だった。
『バカの代わりに、おれが優しくしてあげる。な、良いだろ。旭が嬉しい事、全部してあげる』
従兄が旭の素肌に触れる。
息が吐けない。
『旭、おれ、お前の事愛してるよ』
旭が口を開こうとしている。
『本当?』
『うん、本当。愛してるよ』
『嬉しい。僕も。僕も好き』
旭が顔をほころばせる。
声が出ない。ごぼりと空気の泡が口端から漏れた。
足元が揺れて、視界が急降下し、そのまま気付けば水中に落とされていた。
旭。助けて。
もがいてどうにか水面に顔を出す。
数メートル先の水面のふちから、従兄と旭がこちらを見下ろしていた。
『ほら、バカが溺れてるよ』
旭は怯えるような顔をして、俺を見ていた。
どうして、旭。助けて。俺を助けて、旭。
俺も、愛しているのに。
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