第8話

社会人になると、理不尽に怒鳴られる事が少なからずある。

目の前で嫌味をぶつけてくる上司を頭の中で何回か殺しながらその場を流して自分のデスクに戻ると、隣に座る同期の女が「災難だったね。今日は機嫌悪いみたい」と肩を寄せて来た。


「ああ、そうみたいだね。あれだけで済んで良かったよ」


軽く笑いながら小声でそう返すと、彼女もつられたようにはにかんだ。

うるせえ女。見てねえで仕事しろよ。


今日は少し残業になってしまったけれど、そんなに遅くはならなかった。

同僚からの呑みの誘いを「用事があるから」とやんわり断り、スーパーに寄って安くなった弁当を買ってから一直線にアパートに帰る。


用事なんて無い。

にこにこと皮をかぶって愛想笑いをするのが面倒なだけだ。

普段の対応に気を付けているからか、誘いを断っても嫌なイメージは付けられなかった。


「ただいま。遅くなってごめんね」


玄関のドアを開けると、いつものように旭が迎えてくれる。


「お疲れ様です、伊織さん。お帰りなさい」


「うん。ただいま。今日はから揚げ弁当だよ」


「からあげ!」


旭はにこーっと笑い、弁当を受け取ってレンジで温め始めた。

その間にポットのお湯を出して、インスタントの味噌汁とお茶を用意してくれる。

手際良く準備する動きは慣れたものだった。


割り箸と温め終わった弁当を、テーブルの前に座る私に差し出す。


「ありがとう」


礼を言って受け取ると、旭ははにかんだ。

初めて見た時の笑顔より、少しはマシに笑えるようになったようだった。

自分の弁当を温めている間にテキパキと味噌汁とお茶も座卓に運ぶ。決して広くは無い部屋の中をちょこまかと動き回る少年の姿を健気に思った。


「あ、先に食べて下さい」


「いいよ。待ってるよ」


そう言うと、旭はきゅっと唇を結んで少し頬を赤らめる。


「ありがとうございます」


電子レンジがチーンと間抜けな音を立てた。

パックの端をつまみ、小走りで旭は弁当を運んで座卓につく。


「旭、から揚げ好きなの?」


いただきますをしてから食事を始める。

大抵の事に彼はいつも簡単に喜びを見せるが、先程の反応はまさに子供で少し可笑しかった。


「え?」


「さっき、嬉しそうだったから。他に何が好き?」


「あの、なんでも好きです」


「旭」


言葉を促す様に名前を呼んで、腕を伸ばして彼の髪を撫でた。

以前私が切った時よりまた少し伸びてしまっている柔らかい黒髪。

くるりと指に絡ませて少し引っ張ると、旭は抵抗もせずに頭をこちらに寄せて来た。

髪を離して今度は頬を撫でる。

なされるがまま。この子供は、基本的に私のする事に嫌がる素振りを見せないのだった。


「少しは嫌がりなよ」


「い、嫌じゃ、無いです。……伊織さんがしてくれる事、全部、うれしいから」


「あ、そう」


大事にとっていた最後のから揚げをごくりと旭が飲み込み、成長しきっていない喉が上下する。

私から視線を逸らして、旭が「うれしいから」ともう一度呟いた。


「他に何が好きなの?」


出来るだけ優しく微笑む。

旭は小さく口唇を開いて、閉じて、また開いて。


「伊織さんがすきです」


か細い声でそう口に出した。

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