第2話
次の日の日曜、昼過ぎに部屋のインターホンが鳴らされた。
覗き穴から見るが誰も居ない。
ドアを開けると、肩からカバンを掛けた旭が「こんにちは」と頭を下げた。
「こんにちは。腹、減ってる?」
ドアノブを掴んだままそう問うと、彼は気まずそうに僅かに目を逸らして小さく頷いた。
そうだろうとは思った。恐らく彼は、いつも休みの日は昼ご飯を食べてはいないのだろう。
どういう訳かは知らないけれど。別に知りたくもないけれど。
「うどん食いたいんだ。付き合ってよ。はい、荷物置いて」
彼の肩からカバンを奪って玄関に置く。
旭が来たら最初から出掛けるつもりだったから、ジーンズのポケットに携帯と財布は準備していた。
話についていけていない彼の腕を取り、部屋の鍵を閉める。
「近くに安いうどん屋があるんだ」
手首が細い。
歩幅も狭いから、少年は私に追い付こうと必死になる。
じわじわと額に汗が浮かんでくる頃、振り返って旭を見ると困ったような顔で見返してくるから可笑しくなった。
「旭、うどん好き?」
「す、好きです」
「今度家に来る時は気を使わないで昼前においで。朝でも良いよ」
「え?」
「待ってるから」
うどん屋についてメニューの看板を眺める。
いつも大抵頼むのは決まっていたから迷う事も無かった。
「旭は何にする? なんでも良いよ」
「瀬尾さんは何にするんですか?」
「私はすだちおろし」
「僕もそれにします」
「あ、そう」
二人で盆を持って列に並ぶ。
麺を茹でているおばちゃんにそれぞれ注文しながら、私達二人はどんな関係に見られているのだろうとふと思った。
親子にしては歳が近く、兄弟にしては離れている。
顔が似ている訳でも無い。
会計を済ませて席に着くと、「いただきます」と行儀良く少年は手を合わせた。
私が作った訳では無いが「召し上がれ」と返すと彼ははにかんだ。
「今日は何やんの」
「理科です。プリント5枚だけ」
懐かしい響き。私は小学校の理科を覚えているだろうか。
「自由研究とかはどうすんの?」
それを訊くと、旭は眉を寄せて「まだ決まってないんです」と言った。
そう、自由研究は何を研究するかを考えるのが一番面倒臭かった。
毎日の天気図を書いて推移を調べたり、絵の具を混ぜてカラーチャートを作ったり、トイレットペーパーがどれくらいで水に溶けるか試したりした気がする。
「学生は大変だな」
夏休みは始まったばかりで、まだまだ時間はあるのだからなんだって出来る気がした。
食事を終えて、家に向かう。
エアコンをつけっぱなしにしていたから部屋の中は快適だった。
昨日と同じ様に旭は真面目に問題を解き、私が丸を付けて間違えた所を教えていく。
彼の正面から少し腰を上げてプリントを覗くようにしていたら、下を向く首の隙間から彼の背中が見えた。
首の付け根に、こぶし大の青あざが浮いている。
「ここはどうしたら良いですか?」
顔を上げて訊いてくる旭に、背中からプリントへと視線を移す。
「そこは……」
見なければ良かった。
見なければ知らない振りをしていられたのに。
もう知ってしまったから、私はどうするべきか解らなくなった。
彼が助けてと言えばそうするだろう。放っといてと言えばそうするだろう。
隠すつもりなら気付かなかった振りをしなければいけない。
16:30になって、また彼に声を掛ける。
明日は平日だから仕事が有る。
今までのように公園で待ち合わせようと約束をした。
「気を付けて帰るんだぞ、旭」
「はい、瀬尾さん」
少年の前髪を掻き上げて額をぱちんと叩く。
笑う彼の表情はやっぱり歪だった。
次の日、仕事帰りに公園に向かうと、私に気付いた旭は「瀬尾さん」と名前を呼んで走り寄って来た。
夏だから辺りはまだまだ明るく、人通りも多かった。
いつもは鐘が鳴ったら帰すが、今日は何時まで一緒に居ようか考える。
「18時になったら帰ろう」
「解りました」
隣を並んで歩くと、彼のつむじが見えた。
素直そうに巻いた渦を指先で押すと「背が縮む」と嫌がられた。私が小学生の時は便秘になるだった気がする。
蒸し蒸しとした部屋に入り、冷房を付けて彼に麦茶を出す。
まだ外の風は生温く、網戸にするには辛かった。
旭は慣れたように座卓の上に漢字のプリントを広げて書き取りを始める。
漢字なら特に私のやる事もない。
勉強の計画を真面目に立ててきちんと実行していたなら、私も夏休み最終日に焦る事は無かっただろう。
あっという間に18:00になり、私の出番は無いまま勉強会は終了となった。
「今日は送るよ」
「え、いいですよ」
「危ないから、送る」
旭と同じく腰を上げ、彼の背中を押した。
何の気なしに押してしまってからあざを思い出してパッと手を離す。
「ほら、先歩いて」
「ありがとうございます」
今の動きはあからさまでは無かっただろうか。どきりとしたけれど、旭に気付いた風も無かった。
彼の家は、私の家から15分程しか離れていなかった。
二階建てのアパートで、階段の手すりには錆が浮かんでいた。
「じゃあ、また明日な」
「はい、また明日」
彼は手を振り、何度か私を振り返ってから部屋の中へ消えて行った。
自宅に戻り、彼の使ったコップを洗う。
頭の隅をあのあざがちらついた。
洋服をはぎ取って、「これはなんだ」と問うてやりたかった。
それから、平日は18:00まで勉強をし、休日は朝から16:30まで一緒に居た。
宿題は着々と進み、読書感想文も終わった。
8月の頭になる頃、仕事帰りに公園に行くと旭の姿が無かった。
辺りを見回しても見当たらない。
今日は都合が悪かったのだろうかと思いながらも何か嫌な感じがした。
どうしたものかと自分のアパートに帰ると、部屋の扉の前で膝を抱え、そこに顔を埋める旭の姿が有った。
「どうした」
近寄り、声を掛けると少年は頭を上げた。
見れば左頬が赤くなって少し腫れている。
彼と出会って、見える所に怪我をしているのは初めてだった。
「立って。冷やそう」
枝のような二の腕を掴んで引っ張り上げる。
荷物も何も持たず、いつもきちんと履いている靴の踵は踏まれていた。
スーパーの袋に氷と水を入れ、タオルで包む。
それを旭の頬に当てると、彼は顔をしかめて首を竦ませた。
「冷やしてな。ちょっとは良くなるから。他に痛い所は無いか?」
声を掛けると、旭の眼から涙が溢れてきた。
焦って何枚も出したティッシュで目尻を押さえる。
一旦氷を置き、無抵抗の彼の服の裾を捲った。
赤や青が散らばっている。
浮かんだ肋骨が折れていないのが不思議な位だった。
「旭」
無事な方の右頬に掌をあて、親指で涙を拭う。
「旭、愛しているよ」
彼の顔が歪み、目線を合わせてしゃがんだ私の首に抱きついて来た。
スーツの襟元が濡れていく。
子供の熱が伝わってきて、泣き疲れるまで私は彼の背中に腕を回していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます