溺れる

杉村衣水

第1話

夕方五時に仕事が終わる。

家への帰り道にはコンビニとスーパーが有り、そのどちらかで惣菜や弁当を買うのが常だ。

自分で料理をする事はほとんど無い。

した事が無いから、出来るのかも解らなかった。


どちらの店でも必ず缶コーヒーを買い、家の近くの公園のベンチに座って一服する。

それが自分の習慣だった。

そのベンチに、最近では先客が居る事が多くなった。

ランドセルを背負っているから、小学生だろう。

3、4年生に見える男児で、二つ並んだ右側のベンチにいつも座っては夕日が沈んでいくのを眺めている。

ぼんやりとした表情で、何を考えているのか解らなかった。この公園の近くは他の学生も良く通り、放課後は遊ぶ子供もちらほらと見える。

けれどこの少年に話し掛ける人間は今まで見た事が無かった。


細く生白い手足。さっぱりと切られた黒髪は少しいびつだった。

どうして彼はいつもこんな所に居るのだろう。

遊ぶ友達は居ないのだろうか。

早く帰りたい家は無いのだろうか。


今日も少年は右側のベンチに座って遠くを眺めて居た。

自分は左側に腰を下ろし、缶のプルタブを開ける。

パカンと良い音がすると、少年がちらりとこちらを見たのが解った。

綺麗な瞳と目が合う。


「コーヒー、飲む?」


開けたばかりのそれを彼に差し出したが、首を小さく横に振られた。

そりゃそうだろう。

そう思って手を引っ込めると、少年が予想外に口を開いた。


「コーヒー、飲めないです」


声変わり前の高い声が遠慮がちに届く。

飲めないから断ったのか?

飲める物なら受け取ったのか?


思わず声をたてて笑うと、彼は恥ずかしそうに俯いた。


「ごめんごめん、笑ったりして。私は瀬尾伊織。君の名前は?」


「井上旭」


「そう、宜しく」


握手を求めて右手を差し出す。

小さな手に握り返されて、警戒心の薄さに驚く。

それからは、少しだけ話をするようになった。

彼は私が買ってきたジュースを片手にぽつぽつと話す。

何が好きかとか、夕日が綺麗だとか。

けれど彼が学校や家族について話す事は少なかった。


どうして長い時間ここに居るのか、理由は訊けなかった。

少年を傷付けてしまうのではないかと思ったのだ。

出会ったのは確か春の半ばだったと思う。

今では夏も半ばに差し掛かり、不思議な交流は続いている。

時にはベンチで宿題を教えたりもした。

長く付き合うと、解って来る事が有る。

気温関係無くいつも長袖長ズボンで、彼は恐らく服をあまり持っていない。

笑い方はぎこちなく、自分の感情を表すのが苦手なようだった。


「長袖、暑くない?」


額から汗がぽたりと流れて、私はついに訊いてしまった。


「ん、大丈夫です」


公園の植木から聞こえる蝉の声がうるさい。

短く終わる人生を叫んでいる。

この少年はどんな人生を送っているのだろう。


「ねえ、旭くん」


「なんですか?」


「アイス食べる?」


「え?」


「うん、アイス食べよう。ちょっと待っててね。荷物見てて」


一人で決めて立ち上がる。

財布だけ持ってコンビニへ走り、戻って来て彼にソーダバーを渡した。

ぽかんとした顔をした後、我に返ったように「ありがとうございます」と礼を言う。


「夏だねえ。夏休みは何するの」


「何も。何もしません」


「宿題出るでしょ」


「はい」


「土日とか、仕事終わったら、教えようか」


「え、そんな。いいです」


「それはホントに嫌なの? 遠慮してるの?」


答えに窮した少年はアイスをかじった。

三口ほど進んだ所で「良いんですか?」と上目使いに訊かれる。


「良いよ」


笑って答えると、彼は変な風に笑った。


夏休み前の最後の日、学校は午前中で終わっているだろうに、私が仕事終わりに公園に寄ると少年はランドセルを抱えていつものベンチに座って居た。


「昼は何を食べた?」


声を掛けて隣に腰を下ろすと、彼は首を横に振った。


「今日は給食が無かったから」


「そう」


だとは思った。

コンビニの袋からおにぎりを取り出して「あげる」と言うと、しかし彼はまた首を振った。

「怒られるから」と。

そんなのは馬鹿な話だ。

そもそもジュースなら飲んでいるし、公園でおにぎり一つ食べた所でバレはしない。


「腹が減ったからおにぎり食べてなんで怒られるの」


だんまりになってしまった彼の前でおにぎりの包みを開け、一口食べる。


「美味しくない。美味しくないからあげる。じゃないと捨てる」


小さな手に渡すと、伏した眼で欠けたおにぎりにかじり付いた。


「別に、悪い事じゃ無いだろ。旭くんの中でそれが悪い事なら、バレなきゃ問題無いよ。良いか悪いかなんて、外から誰かが決める事だ」


「瀬尾さん」


「なに」


「名前呼んで下さい。もう一回」


泣きそうな顔でそう言われる。

彼の方を向いて、願いを叶えた。


「旭」


「瀬尾さん」


「ん?」


「夏休みが楽しみなのは、久し振りです」


「それは良かった」


少年が口唇を歪めた。

笑ったようだった。


次の日の土曜、場所は図書館の自習室になった。

ここなら静かで、空調が効いているし、何より何時間居てもお金が掛からない。


学生の頃は地元の図書館によく行っていたが、大人になってからはなかなか行かなくなった。そもそも活字がそんなに好きでは無いし、仕事関係を公共の場に持っていく事も無かった。


旭の方はよく来るらしく、慣れた様子で階段を上がって行く。

私はその後ろに着いて行き、司書室前の扉をくぐる少年に続いた。


教室一つ分程の自習室にはちらほらと老若男女人が居て、旭は一番後ろの端の席に座る。

そこでは紙を捲る音や、ノートにシャープペンシルを走らせる音が満ちていた。


旭が手提げカバンから夏休みのしおりを取り出してペラペラ捲る。

何ページ目かには宿題の内容が書かれていて、また他のページには自分で書き込む用の予定表があった。


その予定表の今日の日付を、彼は指差した。

『算数ドリル10ページ』と書かれている。

どうやらこれが今日の課題らしい。

私が頷くと、彼はドッグイヤーの付いたドリルを広げて頭から解いていった。

大半はすらすらと解いていくが、応用になると少し鉛筆が止まる。

1ページ毎に模範解答を見ながら私が丸を付け、間違えた所はノートに書き出していった。

旭の集中力は途切れる事無く、最後の10ページ目の丸付けが終わると嬉しそうに口端を上げた。

「お疲れ様」の意を込めて彼の頭を撫でると、恥ずかしそうに目を伏せて首を竦ませる。

間違えた所を解説しようと口を開きかけて、会話の一切無い室内の雰囲気にそれを閉じた。


「旭」


しばし思案してから小さな耳元に口唇を寄せ、小声で名前を呼ぶ。


「うちに来る?」


囁いて顔を離すと、彼は目をまんまるくして「え?」と呟いた。

ぼんやりとしたままの旭を置いて立ち上がり、さっさと図書館を出る。


「せ、瀬尾さんっ!」


少年はばたばたと焦ってついてきて私の隣に並んだ。


「勉強って言ったら図書館かな、と思ったんだけど駄目だね。話が出来ないから教えられなかった」


「う、うちって……」


「あ、嫌だった? まあ、そんな知らない人の家だしね。それなら他を考えるけど」


足を止めて旭に向き直ると、彼は首をぶんぶんと横に振った。


「行って良いですか?」


「良いよ?」


「あり、ありがとうございます」


旭は照れたようにうつむき、カバンの持ち手をぎゅっと握った。警戒心が薄いのは最初からだった。

どこを見ているのかよく解らないぼんやりとした視線は、今は私を見つめ、その瞳はキラキラとしている。

日差しは暑く、私の背中に汗が一筋伝った。


10分程歩いて、狭い1Kのアパートに辿り着く。

二人してもう汗だくで、私は部屋に入るなりエアコンをつけた。


「座って。今麦茶出すから」


「ありがとうございます」


知らない部屋に居場所を探しているのか、旭は不安そうに室内を見回しながら座卓の前に正座した。

お茶を入れる私の一挙手一投足を見つめてくる。

グラスの中で氷が泳いで、カラカラとした音が耳についた。

彼にコップを渡し、空いた右手で汗ばんだ細い前髪を掻き上げてやると、指先にじわりと熱が伝わる。


「暑いな。長袖、辛くないか?」


「……大丈夫です」


「タオル持ってくる。汗拭きな」


自分のグラスもテーブルに置き、脱衣所からタオルを持って来て彼に手渡す。

額をごしごしと拭っただけで止めてしまうから「身体は?」と訊くと俯いた。


「……。風呂場、あっちだから拭いてきな」


頷いて立ち上がり、脱衣所に向かう小さな背中に目をやる。

この少年は、どんな人生を送っているのだろう。


「タオル洗濯機の中に入れといて」


少し大きな声を投げ、麦茶を一口飲んだ。

私は、彼の中でなんなのだろう。


一息吐いた所で勉強を再開した。

先程まとめた所を復習し、数字を変えてもすらすら解けるように反復する。

変わらず旭の集中力は高く、教えるのは苦では無かった。

外で夕刻の鐘が鳴るのに気付いて、壁掛け時計に目を向けると16:30になっていた。


「そろそろやめにしようか」


声を掛けると、「はい」と言ったが、しかし彼は残念そうにゆっくりと帰り支度を始めた。


「ここまでの道は解るか? 明日は直接ここにおいで」


「ありがとうございます。多分、迷わないで来れます」


黙々とノートをカバンに仕舞い込むその横顔を眺める。

あまりにも寂しそうな顔をするので、何か声を掛けなければいけない気がした。


「旭」


「はい?」


「おやすみ」


腕を伸ばして少年の髪をわしゃわしゃと掻き回す。

彼は嫌がって身体を捩りながら、少し笑って私の腕を掴んだ。


「おやすみなさい、瀬尾さん」


彼の指は細く、簡単に折れてしまいそうだった。

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