第3話

働き始めてから初めて、有給を取った。

当たり前だが今まで無遅刻・無欠席・無早退だったからか、会社に連絡をした時、上司から具合でも悪いのかと心配された。親戚の子供を預かる事になったのだと説明すると、安堵され、休みの許可はすぐに出た。


静かな寝息を立てる少年の寝顔を見つめながら、赤くなった瞼になんとも言えない気分になる。

昨夜、泣き疲れた旭はそのまま眠ってしまい、客用布団に横にならせた。

彼を起こさないように布団から抜け出し、朝食を用意する。

パンが焼けた所で彼を起こそうと肩を揺すると、すぐには状況を思い出せなかったのか、数秒ぼんやりとした後緩やかに口端を上げた。


「おはようございます、瀬尾さん」


「おはよう旭。パン食う?」


「ありがとうございます」


普段料理をしないから冷蔵庫になんの食材も無かった。

バターを塗ったトーストと温めた牛乳を座卓に並べる。

たったそれだけの朝食に、それでも旭は嬉しそうに笑った。


食事を終えて、ちびちびと牛乳を飲む旭の眼前に「あげる」と紐を付けた鍵を差し出す。

目の前でぶらぶら揺れるスペアキー。

用意していたそれに、彼はきょとんとした顔をした。


「ここの鍵。秘密基地にして良いよ。戸締りさえしてくれればいつ来てもいいから。私が居ない時でも、好きにして良い。暑かったらエアコン付けてな」


あげる、とまた言うと、少年はマグカップをテーブルに置き、手を差し出して来たからそこにぽとりと落とした。


「それとも、うちの子になる?」


「……お母さんが、ひとりになるから」


馬鹿だな。

お前にそんな事したの、そいつじゃないの?


「瀬尾さん、ありがとうございます。お皿、洗います」


「どうも」


慣れた手つきで皿をまとめ、流しに持って行く。

私は布団を畳み、押し入れにしまった。

彼は家に帰るのだろう。

いつか本当に死んでしまうかも知れないのに。

ああ、私の知らない所で、彼は死ぬのか。

昨日、君は泣いたじゃないか。


結局彼は自宅に帰り、私は鬱々としたまま無駄に有給を過ごす事となった。

引き留めるなり、警察に相談するなりした方が良かったのかも知れない。

旭は、一体どうなりたいのだろう。


次の日からは、今まで通り仕事が終わると勉強を教え、休日は二人で朝から夕方まで休憩を挟んで宿題に取り組んだ。

公園で待ち合わせる事は少なくなり、電気の付いた部屋が明るく私を迎える。


「瀬尾さん、お帰りなさい」


私が帰宅すると、旭は必ず玄関まで迎えに来て微笑むのだった。


「ただいま」


顔のあざは大分良くなってきた。

身体の方はあれから見ていないから解らないが、恐らく全てが消える事は無いだろうと思った。

一度綺麗になっても、またすぐに次の物が浮かび上がる。


「旭」


「はい」


「髪、伸びたな。切ろうか」


「えっ」


前髪が目にかかり鬱陶しそうだと常々思っていたのだった。

後ろの方も肩に付きそうになっている。


スーツの上着をハンガーに掛け、脱衣場の鏡の前に椅子を用意した。

学生時代、金を使いたくなくて、見た目にもさほど気を使っていなかったから髪は自分で適当に切る事が多かった。次第に腕は上達し、誰が切ったのか知らないが元々歪な旭の髪型をもっと綺麗に整える自信はあった。


「こっちおいで。上脱いで」


遅い足取りで近寄って来た旭はもじもじと俯いた。

多分裸になるのが嫌なのだろうと思ったが、一度見ているのだからもういいじゃないかとも思った。

問答無用でシャツの裾を掴み、「腕上げて」と言うと渋々万歳をした。

予想した通り、小さな内出血がちらほら浮かんでいる。


「馬鹿だな旭」


私はしゃがみ込み、彼の狭い胸元に額を擦りつけた。

とくりとくりと心臓が脈打っている。

数秒そうしていると、旭は私の頭を抱えるように腕を伸ばしてきた。

そのままぎゅうっと抱き締められて、彼がまた泣いているのが解った。

この暑い中、ハイネックを着ているのはおかしいと思ったのだ。

晒されたその首には、10本の指の跡が付いていた。


「旭」


名前を呼んで見上げると、涙でぐしゃぐしゃになった少年の顔がある。


「せ、おさん」


引き絞るような声音で呼ばれ、続く言葉は消えるようだった。


「助けて」


その言葉はもう一度続いた。


「助けて、瀬尾さん」


それを聴いたら、もう何もかもがどうでも良くなった。

旭の気持ちだとか、これからの事だとか、そんな事よりも自分を頼ってくるこの子供が大切なものに思えて仕方なかった。

彼の中で、母親よりも私の方に比重が傾き始めたのかも知れない。

きっともうすぐ、落ちてくる。


「今日は泊まって行く?」


旭が頷いた。


「私は明日、ちょっと出掛けるけど、留守番出来る?」


また頷いた。


「旭、髪を切ろうか」


鏡の前の椅子に座らせ、クシで整えていく。

少し水で濡らしながら、シャキンシャキンとハサミを進めていった。


「前髪切るから、目を閉じて」


大人しく目をつむった少年の睫毛は真っ直ぐで、下目蓋に掛かっている。

この美しさを、母親は知らないのだろうか。


30分もすると小ざっぱりと整えられた髪型が出来た。

小振りな頭に形の良さが見える。


「お疲れ旭。終わったよ」


旭は落ち着かなそうに鏡の中の自分を見ながら、毛先をしきりに引っ張っている。

鏡の中で私と目が合うと、恥ずかしそうに俯いた。


「夕飯、何食いたい?」


「瀬尾さん、ご飯作れるんですか?」


「うーん、作れないから買ってくるか食べに行くか」


「なんでもいいです。瀬尾さんの食べたいもので」


「肉だな、肉が食いたい。ファミレス行こう」


肩に付いた切れ毛を払って、服を着せる。

あとは彼の下着や替えの服、湿布やなんかも買って来よう。


食事と買い物を済ませて家に帰ると、旭は嬉しそうに床に買って来たものを並べ始めた。

自分の為に金を使われる事に慣れていないのか、店ではずっと申し訳なさそうな顔をして、好きなものを選んで良いと言っているのに、棚に並べられた洋服を眺めては私の方をちらちらと見て困惑していた。

仕方なく、彼に意見を訊きながら私が選んだけれど、彼が首を横に振る事は無かった。

けれどまあ、買って来た服のタグを楽しそうに外しているから喜んでいるのだろう。


「旭、整理終わったらシャワー浴びなよ」


「あ、ありがとうございます。瀬尾さんが入ったら入ります」


「あっそう」


細かい所で気を使う。

そんな事はどうでも良いのに。


自分の髪をガシガシと洗いながら、旭の不健康そうな肌を思い浮かべた。

夏でも長袖長ズボンだからか、今まで長い時間外に居る事が多かったはずなのに、あまり日に焼けていなかった。

肉の付いていない薄い身体は頼りなく、貧弱だった。


頭から冷水をかぶって首を振る。

適当に身体を洗い、風呂場を出て居間に顔を出すと、旭は真面目に勉強をしていた。


「旭、勉強し過ぎて馬鹿になるぞ」


軽口を叩いて、短くなった彼の髪を撫でる。

「偉いね」と言うと、照れて首を竦めた。

今、この子供の親は何をしているのだろう。

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