第5話

朝九時頃、目を覚ました旭に昨日と同じ朝食を出す。

ヨーグルトとか、シリアルとか、今後は何かバリエーションを増やさなければならないだろうか。

こんなの、一人でいる時は考えた事も無かった。


「ちょっと朝出るけど、留守番出来るか?」


寝ぼけ眼でまだぼんやりとしたまま、旭はこくりと頷く。

その髪を撫でると、私の手に摺り寄せるように少年は頭を動かした。


旭について一回行っただけだったが、そんなに距離は離れていないから道は覚えていた。

安っぽいアパートの扉を拳で叩くと、生気の欠片も見られない女がチェーンも掛けずに扉を開けて顔を覗かせた。

寝起きなのか髪は乱れ、唇が色を失くして荒れている。

染み付いた煙草とアルコールの匂いがうっすらとドアの隙間から洩れていた。


「……どちら様?」


ぼーっとした瞳でそう訊いてくる表情に警戒心の薄さを感じる。


「初めまして。旭くん、あなたの息子さんですよね」


「は?」


強いて言えば、鼻筋とアーモンド型の目が似ている。

彼女も、もう少し身なりをどうにかしたら美しいのだろう。


「これ、身に覚えはありますか?」


ニコリと笑い、携帯の画面を母親に見せる。

旭が寝ている時に盗んで撮ったそれには、腹部の痣や、首を絞めた跡が写っていた。

彼女の表情が引き攣り、話もせずにドアを閉めようとしたから靴先を捩じ込んだ。


「別に、通報しようとかそういうんじゃないんですけど」


どうにか扉を閉めようと躍起になっているようだが、彼女は非力で、そんなのは意味が無かった。

縁に手を掛けて大きくドアを開き、身体を滑り込ませる。

室内に他に人の気配は無い。「お母さんが一人になる」と言う旭の言葉から、きっとこの家庭に父や兄弟は居ない。親戚関係も薄いのだろう。

後ろ手に鍵を閉めて、勝手に部屋に上がった。

整理整頓はされている。旭がやったのだろうか。

テーブルの上にはダイレクトメールが重ねられ、朝から飲んでいるのかビールの缶が二つある。

そこに混じって無造作に開かれた通帳が置かれ、手に取って中を見ると定期的に一定量の金額が振り込まれている。養育費なのだろうか、しかし振り込まれた次の日にはその大半が引き出されている。


事態が飲み込めていないのだろう、母親は呆然とした顔で私を見ていた。


「私に、息子さんを下さい」


「え……?」


「要らないでしょ? 養育費だけ貰っとけば良いじゃないですか」


テーブルに通帳を放り投げて、室内を見回す。

旭の物はどこにあるのだろう。

隣の部屋に繋がっているであろう扉を開けるが、そこは母親の部屋らしく、化粧品や女性物の洋服が雑多に置かれていた。

他に部屋らしきものは無く、もしやと押し入れを開けると中にランドセルや見た事の有る洋服が整理されて置かれていた。


教科書をランドセルに入れ、数少ない洋服は近くに置いてあった布のトートバッグに押し込む。


「旭の荷物はこれだけですか?」


「ちょ、ちょっと待ってよ、あなたなんなの」


震えた声で彼女はやっと疑問を口にした。

唐突に、この女の年齢が気になった。私と同じくらいか、もしかすると下かも知れない。

けれど顔はもう少し老けているようにも見える。


「なんでしょう。そういうあなたは旭のなんですか」


「は、母親よ」


「へえ、そうですか。で、要ります? あの子。私は欲しいんですけど。旭の首、絞めました?」


母親の目が見開かれて指先が震えだした。


「殴りました?」


「あの、あの子が、余計な事ばかりするから……。私の言う事、聞かないし」


「へえ、それは面倒ですね。じゃあ、捨てちゃいましょう。彼の事は忘れて、……そうしてここからも消えて下さい。私の邪魔はしないように」


彼女に近付き、封筒を手渡す。

引っ越し費用に足るであろう金額と、いくらかの生活費が入っていた。


「私はあの子を、とても大切にするので、安心して下さい。それじゃ」


鍵を開けて外に出る。

引き留められる事も無く、私は自宅に帰りついた。


「ただいま」


旭は変わらず家に居て、せっせとドリルを解いていた。

こいつは勉強以外何かするという事を知らないんじゃないだろうか。


「僕の……ランドセル?」


「ただいまって」


「おっ、おかえりなさい」


「うん」


姿勢を正して言い直した彼に、アパートから持って来た荷物を手渡す。

驚いたように数度瞬きして、無言で私を見上げてきた。


「持って来た。無いと困るでしょ。他に何かいるんだった?」


「え、あの、お母さ……なんでも無いです」


「そう、なんか足りない物あったら買おうね」


どうやってこれらを持ち帰って来たのか知りたいのだろうが、そんな事を話してやろうとは思わなかった。

折角手に入った物に、余計な事を聞かせたくは無いのだ。

けれど旭は俯き、どこか不安そうに眉根を寄せた。

それが気に入らない。別に良いじゃないか。

母親だからどうだって言うんだろう。


「助けて、って言うから、私はそうしようと思ったんだけど」


余計な事だった?、と意地悪く問うと、旭は必死な顔をして首をぶんぶんと横に振った。


「これから、どうする?」


彼の頬に手を添え、目線をこちらに向かせる。

不安そうな瞳は私を見返し、黒い睫毛がゆっくりと動いた。

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