第16話

学区が変わり中学に上がると、不思議と自然に友達が出来た。

一年生の時出席番号で席が前になった男は人懐っこく、一緒に行動するようになるまで時間はかからなかった。学年が上がってもクラスは同じで、今でも共に居る事が多い。

彼はまるで関わった人間全て友人かのように他人と距離を縮めるのが上手く、彼を通じて僕自身の交友関係も拡がっていった。


「井上って、凄い勉強出来るよな」


「出来てるかな。……勉強ばっかりやってたから。門脇だって成績悪い訳じゃ無いだろ」


期末テストの一週間前、勉強を教えて欲しいと言われたので放課後残り机に向かい合っている。

基本的には部活も期間中は禁止になっているので、いつもは掛け声の聞こえるグラウンドも静かだった。


「でも良くも無い。勉強ばっかって、家が厳しかったとか?」


「そんな事無いよ。友達がいなかったから。他にやる事無かったんだよ」


そう言うと門脇は妙な顔をした。


「友達? いなかった? お前が?」


「うん」


「うそお。じゃあ、俺が初めてのトモダチなの?」


「そうだよ」


「へえ、あら、なんかすげーね」


「いいから問題解きなよ」


「ふーん」「ほー」「そうか」などと何かぶつぶつ言いながらまたシャーペンを握り直した彼は、それからは大人しく問題集を進めていった。

ズボンのポケットで携帯が一度震える。

中学になって、これも変わった事だ。

伊織さんが僕に携帯を持たせてくれた。

お小遣いを渡すと言ってくれた時同様断ったのだけれど、「持っていた方が安心だから」「社会勉強みたいなものだから」と今回も退いてくれなかった。


『勉強お疲れさま。何か食べたいものはありますか?』


伊織さんはメールの時何故か敬語が混ざる。

クセのようなものだろうか。


『そろそろ帰ります。ナポリタンが食べたいです』


『焦らなくて良いよ。解りました』


時間を見ると、もう五時を過ぎていた。


「笑ってる。誰から?」


数式と向き合うのに疲れたのか、目をシパシパさせながら門脇が訊いてくる。


「親戚の人」


「親戚の人ぉ?」


「そろそろ帰ろう。結構やったね」


「真面目だからな。やっぱりひとりより誰かいる方がだらけないで出来るな、俺は」


「明日は理科」


「俺疲れたよ先生……」


廊下に出ると、僕たちと同じように残っていた生徒たちの姿をちらほらと見掛ける。

外はほんのりと夕日の色をしていた。

門脇とは帰る方向が違うので校門を出てすぐに別れる。

伊織さんの事は友人にも話した事が無い。

なんと説明したら良いのか解らず、伊織さんに訊けば「そういう時は“親戚の人”って言っときな」と返された。

学校行事には一度も顔を出してくれない。

少し寂しい。けれど来て欲しいと何度も口にする勇気は無かった。

小学生の時、授業参観に行けないと言われた後、運動会には来てくれるかと訊いた事が有る。

返答は同じだった。それからは尋ねた事が無い。

多分、いつ、どんな内容でもきっとこういう催しには来ないのだろうと思った。

僕と関係が有ると知られるのが嫌なのだろうか。

僕は伊織さんにとってなんなのだろうかと、一人では答えも出ないのに時々考えてしまう。


「旭!」


耳に心地良い声で名前を呼ばれ、うつむいていた顔を上げる。

道路を挟んだ向こうの歩道から、伊織さんがスーパーの袋片手に手を振っていた。

慌てて横断歩道を探して渡り、彼の元へ向かう。


「お帰り。ケチャップ無くてさ、買いに行ってたんだ。……旭? どうした? 疲れちゃった?」


首を振る。

最近、心配を掛けてしまっているな、と反省して笑顔を向けた。


「連絡くれれば買って帰りますよ」


「そろそろ帰るって言ってたから、旭と会えるかと思って」


「会えましたね」


「うん、良かった」


二人並んで家に帰り、荷物を自室に置きに行く。

ふと、壁に掛けた鏡の中の自分と目が合った。

おぼろげな記憶の中の母親に、目と鼻筋が年々似てくる気がする。

顔はぼんやりとしてくるのに、浴びせられた言葉と暴力は薄れてはくれず、時々何かの拍子に溢れ出す。

『なんで言う事訊けないの』

『なんでそんな事するの』

『いっつもいっつも邪魔ばっかり』

『あんたが』

『あんたさえいなきゃ』

『なんで』

『なんで』

『なんでよ』

思い出したくも無いのに、聞きたくも無いのに、頭の中で言葉たちが這いずり回る。

殴らないで。殴らないで。

嫌いにならないで。好きじゃなくても良いから。

もうあの人はいないのに。

怯える必要は無いはずなのに。


怖いのだ。

決してそんな事をする人じゃないと解っているのに、伊織さんに『いなければ良かった』と言われたらと考えて怖いのだ。

伊織さんは殴らない、怒らない、ちゃんと話を訊いて僕を抱き締めてくれる。

解ってる。

どうして。

どうしてこんな事考えてしまうのだろう。


どうして満足出来ずに“もっと”と望んでしまうのだろう。


小学生の時一度だけ、眠っている伊織さんにキスをした事が有る。

寝ているかを何度も確認して、起こしてしまわないよう慎重に口付けた。

好きだと伝えたけれど、伊織さんはなんと思ったのだろう。あんな子供の言う事に。


部屋のドアがノックされた。


「旭? 寝ちゃった? ご飯出来たよ」


「い、今行きます」


声がひっくり返る。

開けないで、と思いながらワイシャツの袖で焦って瞼を拭う。

思うように息が出来ない。


「旭?」


扉の向こうから、伊織さんの心配そうな声が聞こえる。


「なんでもないです。今行きますから」


涙混じりの声になって、なんで僕はこうなんだろうと思った。


「旭、開けるよ」


ゆっくりドアが開く。

思わずしゃがみ込んで顔を隠してしまった。


「旭」


伊織さんが傍に寄り、同じように腰を下ろす。

頭を優しく撫でられた。安心する。

これだけで満足出来たら良かったのに。


顔を上げると、伊織さんは微笑んでいて、「どうしたの?」と訊いてくる。

少し開いた口唇。

腰を浮かせ、身体を寄せて彼にキスをした。

触れるだけですぐに離れる。

あからさまな拒否はされなかった。


「……すみません」


顔が見れない。どんな表情をしているのだろう。

呆れている? 驚いている? 怒っている? 嫌悪している?


「君って、時々突拍子も無い事するよね。謝るなよ。勿体無くなるって言ったの忘れちゃった?」


顎を掴まれて、逸らしていた視線を無理やり合わせられた。

瞳の中の夜空が深くなっている。

見惚れていると、目尻にキスをされた。


「また泣いてたな、泣き虫め」


彼の口唇が頬におりて、鼻先におりて、僕の口唇と重なった。

舌が差し込まれ、少し驚いて縮こまる。

熱くぬめったものが歯列をなぞり、僕の舌に触れて絡んだ。

息苦しい、と思うと同時に軽い音と共に口唇が離れていく。

名残惜しくて後を追う。

もう一度自分から口付ける。

抱き締めて欲しいと思うと、それが伝わったかのように背中に腕を回された。

息が上がって、漏れた唾液を伊織さんが親指で拭った。


「好き」


吐息のように言葉が溢れる。


「好きです。伊織さん、ずっと好き」


「泣いても良いけど、俺が見てない所で泣くなよ」


もう一度口付ける。

伊織さんは、好きだとは言ってくれなかった。

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