第15話
喉の調子がおかしい。
上手く声が出ずにかすれ、妙にむせる。
咳き込んでいると、伊織さんが「ああ」と言った。
「声変わりだな。大丈夫か。辛かったらあんまり声出さなくて良いよ」
「声変わり……」
「ほら、肉焼けるからレタスちぎって」
「あ、はい」
良い香りがする。
晩御飯の支度を手伝っているのに、ぼんやりとしてしまった。
思えば、中学に上がって伊織さんとの目線も少し近くなり、喉仏も出て来始めた気がする。
手も脚も、骨ばって来て時々節々が痛い。
身体が変化していく。
どうして変わってしまうんだろう。
伊織さんは料理が上手い。
というより、何事もそつなくこなすので苦手な事が無い様に思える。
叩かれた事も無ければ怒鳴られた事も無い。
優しく、穏やかな人だ。
けれど時々、違和感を感じる事が有った。
具体的にどこがどうと言う訳では無いのだけれど、少し胸の隅に引っ掛かるような感じがする事がある。
僕はこの人に好かれる人間で在りたい。
伊織さんが誰かの悪口や陰口を口にした事は無いから、もしかしたら嫌いな人間なんていないのかも知れないけれど、他の人よりも、少し、ほんの少しで良いから好きでいて欲しかった。
「元気ないな。アイス食べる?」
夕食を終えて皿を洗っていると、風呂上がりの伊織さんが僕の背に覆いかぶさるようにして肩に顎を乗せてきた。
石鹸の良い香りがする。
じわじわと肩が熱くなってきて、何を訊かれたのかなんてすぐに解らなくなった。
「また背、伸びた?」
耳元で声がする。
今、なんて言われたんだろう。
首に髪が触れてくすぐったい。
伊織さんの腕が伸びて蛇口から水を出し、僕の手に付いた泡を流した。
「喉も出て来た。どんどん大人になってくな」
濡れた指先で喉仏に触れられる。
そのまま肌をなぞり、鎖骨を滑っていく。
伊織さんにこういう触れ方をされると、僕はどうして良いか解らなくなる。
嫌じゃないからだ。どこまでも望んでしまいそうで、だけど伊織さんが何を望んでいるのか解らないから動けなくなる。
もっと触っていて欲しい。
どうにかしてしまって欲しい。
早く大人になれば良いのだろうか、それとも、まだ子供のままの方が良かったのだろうか。
「洗うの代わるよ。風呂入っておいで」
伊織さんが何事も無かったかのように身体を離し、スポンジを手に取った。
「…はい、お風呂頂きます」
からかわれているのだろうか。
そうかも知れない。
あの人が触れた所が全部熱い。
『愛しているよ』『愛しているよ』
もう何年も前に言われた言葉を何度も頭の中で反芻する。
身体は変わっていくのに、中身は何も成長しちゃいない。
シャワーを浴びながらうずくまる。
身体が熱を帯びている。
風呂から上がりリビングに行くと、伊織さんはテレビをつけたままソファでうたた寝をしていた。
その前の床にしゃがみ込み、彼の膝に頭を乗せる。
まるで祈るようなポーズだ。
神様。僕の、神様。
もっと小さい頃は、よく抱き締めてくれたな、と思った。
この人の身体に、すっぽりと包まれるのが好きだった。
伊織さんが身じろぎする。
起きたかな、と思い、顔を上げると、そのまま髪を優しく撫でられた。
「寝ちゃってた。風呂長かったな」
「うん、今日汗かいたから」
彼の手に頭を摺り寄せる。
気持ちが良い。もっと撫でて欲しい。
「何かあった?」
「え?」
「浮かない顔してるからさ」
「何も。何も無いですよ」
「そう? もう布団入るよ。冷凍庫にアイス有るから好きなやつ食べな」
「ありがとうございます」
指が離れていく。
中学に上がる前、伊織さんが突然「引っ越そうか」と言い出した。
「ここに住む意味も無くなったし、旭も自分の部屋があった方が良いかな、と思って。学区は変わっちゃうんだけど」
どうかな? と訊かれ、「良いと思います」と答えた。
断る理由は無かった。
伊織さんも自分の時間が欲しいだろうと思った。
けれど、引っ越した後夜になって気付く。
もう隣で寝る理由も無くなってしまうのだ。
僕は布団を並べて二人で眠る時間が好きだった。
時々、伊織さんの寝顔を盗み見ては照れ臭いような、恥ずかしいような、そんな気持ちを抱えていた。
指が離れていく。
伊織さんが行ってしまう。
「伊織さん」
思わず呼び止める。
脚を止めた伊織さんが「どうした?」と振り返って微笑む。
「あ、その。……おやすみなさい」
「あ、そうだね。おやすみ旭」
触れて欲しい。
僕に触れて、何度でも浮き上がるこの熱をどうにかして欲しかった。
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