第25話
伊織さんがコーヒーを飲もうとして傾けた手をふと止めた。
もう飲み干して、中身が空っぽだったようだ。
「じゃあ、そういう事だから。一人で寝られるだろ? おやすみ」
拍子抜けする程呆気なくそう言って彼が立ち上がる。
「ま、待って下さい」
歩き出そうとしていた伊織さんの手首を、腰を浮かせて掴まえた。
無表情を崩さない顔がこちらを見下ろしている。
「僕は、朝になったら、この話を忘れていた方が良いですか?」
「そうすれば元通りだよ。君の好きなようにしたら良い」
唾を飲み込む。
何もかも元通り。何もかも元通り。
「僕は、一番聞きたい事を聞けていません」
「なに」
何もかも元通り。
「どうして、僕を殺さなかったんですか。今からでも遅くないですよね? 僕を知る人が増えたからですか?」
門脇や、クラスメイトの顔が浮かぶ。
僕が学校に行かなくなれば、門脇は心配してくれるかも知れないな、と思った。
「ちがうよ」
「じゃあ、どうして」
伊織さんの口唇が薄く開いた。
微かな吐息がこぼれ落ちて、沈黙を連れてくる。
じっと見つめる彼の夜空の瞳は深く暗く、まるで彼自身の心のようだった。
「誰でも良かったはずなのに、君が」
擦れた声でそう言った。
「お前が、旭の事が、好きになってしまったからだよ」
表情の無かった顔に、薄らとした感情が見える。
微笑んでいるとも、泣き出しそうだともとれる表情は、今まで見た事が無いものだった。
ぶわりと、胸に花が咲く。
指先まで熱をもって、彼の手首を掴む手に力が入る。
嘘でも、取り繕った言葉でも無い。
心の底から、そう思ってくれている。
ずっとこの感情が欲しかった。
この人から、この言葉を与えて欲しかった。
手首を引っ張り、伊織さんを抱き寄せる。
彼は力無く、腕を回して僕の肩に寄り掛かって来た。
「俺は、お前に優しく出来ないよ」
「良いです」
「お前、優しいのが良いんだろ」
「伊織さんなら何でも良い。全部好きだって、言ったのに」
「全部」
伊織さんが、ふっと笑う気配がした。
「そうだったね」
「そうです。小さい頃から、ずっと、ずっと」
ぎゅう、と伊織さんが僕を抱き締める。
神様が、地上に降りてくる。
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